透明自殺

沙月

透明自殺

【死ぬ】

①息が絶えて、からだのすべての部分の動きが止まる。

②本来の力が発揮されない状態になる。

――新明解国語辞典第三版より


 汗でどろどろに溶けてしまって、皮膚と大気の境目も分からなくなるような、この夏の日。立ち止ってポケットからハンカチを出すと、首を拭う。そのまま空を見上げれば、雲一つない青空がそこにあった。見とれていると、首筋をまた汗が伝った。

 この酷暑から気を紛らわせようと、私はウォークマンのイヤホンを耳に突っ込んだ。青空と同じくらい真っ青なウォークマン。やがてじーっというノイズが流れ出すと、私は思わず、ボタンを押す手を止めてしまった。

 じーっ……

 まるで、遠くに響くセミの声みたい。

 そう考えてしまった瞬間、私は反射的に空を見上げていた。当然のごとく、そこには透明な空が、地平線の外まで伸びているだけ。あの日と同じだ、と思った。正方形の真っ白な建物が、視界のどこかに見えた気すらした。

 でも、あの日は――本当にセミが鳴いていた。そして梅雨が明けたばっかりの、この時期でも無かった。


 おじいちゃんが亡くなって、私が火葬場までついていった、あの日は。


 あの日の私は、中三だったから制服だった。

 葬儀場についてから車から出ると、冷房で冷えた肌に、夏の空気が心地よかった。そんな、どうでもいいことをよく覚えている。だからなんだといわれると困るが、そのときはどんな考えもまとまらず、何を覚えておくべきかなんてことも、体は正常に判断できなかったんだと思う。

 つい先日、電話を終えたお母さんが、真っ青な顔で「おじいちゃんが亡くなったって。」と震える唇から零したときから、ずっとこんな調子だ。その唇の動きを見つめたまま、何か壮大なドッキリにでもかけられているんだろうか、と考えることしかできなかった時から、ずっと。

 だってつい先週会ったばかりのおじいちゃんが、まさか、急に亡くなるなんて。そんなのとても筋道だった出来事には思えない。『おじいちゃんが亡くなった』という事実はただの違和感として、私の心にこびりついたままで。

 そんな感じのまま葬式へ行ったけれど、ほとんどは記憶がない。

 それでも、葬式を思い出そうとすると、私はいつもこんなシーンから始まるのだ。せがんだのは私だったのか、それはもう分からない。でも、ぱかりと棺の白が顔の部分だけ開いて、私はおじいちゃんと対面する。その瞬間、目を大きく見開いてしまって、私はずうっとぼんやりしていたのだと気づくのだ。

 おじいちゃんはそこで、死に装束をまとって、ただただ横たわっていた。狭いとか、何か文句を言うこともなく。今にも言い出しそうなのに。でも、いつか見たマダム・タッソーの蝋人形みたいになったおじいちゃんは、目を開ける事もない。

「おじいちゃん……。」

 掠れた声が耳に届いてから、そう呟いたのが、自分だと気づく。何を言いたかったのだろう。それは今も、あの時も分からない。それでも、呼ばずにはいられなかった。

 おじいちゃんは、先週までぴんぴんしていたのに。

 間延びした、昔みたいな甘えた声で呼ばなくても、いつだって笑顔で「はーい」と返事してくれる。部屋に入れば、スポーツ新聞の桃色記事を開いていたことが多かったけれども。おじいちゃんは、たまに家を訪ねる私達と一緒に、よく食事にも行った。私にはこっそり、お小遣いをくれた。前に貰ったお小遣いで買った本を見せたら、すごく喜んでくれた。

 そんなおじいちゃんが、突然。

 私の中から、何か大切なものが抜け落ちていたということに、いまさら気付いた。この前早速お小遣いで買ったショーペンハウアーも、その瞳で見てもらえることはない。金輪際、ない。

 胸にずっと抱えていた違和感が、みるみる内に大きな穴へと変化して、呆然とする。しかもその穴の淵は、脈を打つのに連動して痛むのだ。どうしようもないくらい痛くて、その痛みが、この見たくもない現実へと私を繋ぎとめて離さない。

「おじいちゃん……。」

 続ける言葉は無かった。それでも、その響きに縋るしかなくて、何回だって呼んだ。おじいちゃん、おじいちゃん、おじいちゃん……。ぼろぼろと、これまたいまさら涙が溢れてきた。私は、ずうっと一緒に暮らしてたってわけでもないのに、こんなに痛いなんて不思議だった。周りを見て見ると、お母さんも親戚もみんな泣いていた。

 もちろん、おばあちゃんが一番痛々しく。


 やがて、みんなで火葬場まで行った。さすがに昔みたいに、黒い煙が立ち上るわけじゃなく、区民センターっぽい建物で行うらしかった。

 椅子に座って呆然としながら、私はおじいちゃんが骨に変わって出て来るのを、待つしか無かった。……こんなときになっていまさら考える。どうして人は、人を焼いてしまうなんて、残酷なことが出来るのだろう。辛くて苦しいはずのことを、亡き人にはするのか。考えたって、分からない。ああ、それにしても待つというのは辛いことだ。それしか出来ることがないと分かってはいても、そう信じ続けることはほとんど不可能に近いし、自分が傷ついても何かしてあげたいと――

「真澄ちゃん。」

 私は弾かれたように顔を上げた。その瞬間、名前を呼ばれるという行為ですら、生きる者の特権であることを思って、また胸が痛んだ。顔を上げた拍子に、目の淵に溜まっていた涙がぽろりと頬を伝う。ぼやける視界いっぱいに映っているのは、おばあちゃんだった。

 そのとき、おばあちゃんはこう言った。

「おじいちゃんは亡くなってしまったわ。けれどもそれは、一回目の死なの。二回目は、私達残された人が、おじいちゃんを忘れたとき。……真澄ちゃん。辛いとは思うけど、おじいちゃんを、忘れないであげてくれる? どんなに思い出すのが苦しくても、心の中からおじいちゃんを追いだそうとは、しないでくれる?」

 一言一句、今でも違わずに覚えている。それを言っているおばあちゃんが、一番辛そうだったのも。

 そのときの私は、脳裏に、様々なおじいちゃんを想い浮かべて見た。大口開けて笑ってるとき、美味しそうにうな丼を食べているとき――大丈夫、忘れたくない思い出は、きちんとある。

 私はこくりと頷いた。子供の約束でも信用してほしくて、もう一度、より力強く頷いた。それを見たおばあちゃんは、嬉しそうに少しだけ、微笑んだ。

 おじいちゃんを二回も――それも二回目は私達の手で、亡くならせてなるものか。


 あの決意を、一年経った今でも持っている。汗が垂れるのを拭いながら、そう思った。そしてその決意をまだ守れていることが、なんだか嬉しかった。


 その日の記憶を、二週間後の今、私は何故だか思い出していた。目の前の逃げられない現実から、どうしても目を逸らしたかったのかもしれない。

 夏休みまであと二日の昼休み、教室の穏やかな雑音に包まれ二人きり。机越しに向かい合って弁当をつついていた。ただ、それだけだったのに、どうしてこんなことになったんだろう。


「私、今日自殺するから。」


 アッキーがこんなことを言うなんて、思わないじゃない。物騒な言葉とは裏腹に、彼女の表情は、絵画の聖人のように穏やかなまま。どうして、どうして? どうしても言葉は詰まったままで、噛んだ卵焼きが上手く飲み込めない。

 そんなに、思いつめることがあったの? だったらどうして何も話してくれなかったの? 疑問はたくさん湧き出て来るのに、一つだって、声に乗せることはできない。しばらくして、ぱたん。弁当箱を閉じながら、彼女の視線は私から離れた。

「別に、いいよ。忘れて。」

 ぱたん。弁当箱が閉じる音。彼女の心が、閉じる音。鉛のような卵焼きを、私は力づくで飲み込んだ。私はもう、誰にも死んでほしくないのだから。おじいちゃんの白い顔が甦って、ふいに目頭が熱くなる。けれど、耐える。誰かが亡くなるのが寿命なら、それはもうどうしたってしょうがない。「ことぶき」なんてつけられるほど、おめでたくないとは実感として分かっているけれど、しょうがない。

 でも自分からそれを選ぶなんてこと、私は絶対にさせたくないよ。

 あの葬式のときに伝播して、それからみんながずっと引きずっている悲しみ。亡くなることを自ら選べば、それらはもっとずっと、悲惨で大きな悲しみになるだろうと、たかが十六歳の私でも分かる。個人の自由とか、選択の自由とか、そういうのは知らないが、とにかく私は嫌だ。絶対に、嫌。

「嫌だ。忘れない。」

 きっぱりと言い切る。私が送る鋭い視線と、アッキーの視線がかち合った。届け、と祈った。アッキーは一瞬だけフリーズしてから、そして、ふっと笑った。

「じゃあ、手伝ってくれる? 」

 届いた、けれど。……彼女は本気なのだと思った。でも、とどこか冷静な自分が、彼女を静かに分析する。私に打ち明けたってことは、お昼御飯を私だけ誘ってこんなことを言うってことは。――止められるチャンスは、私にしかないのだ。

 手伝うって、どういうことなのかは分からない。今日の結末がどうなるのかも分からない。でも、絶対に止めてやるんだ。彼女が本気で、そんなことを考えている限りは。

 私は彼女から目を離さないまま、こくりと頷いた。やがて五時間目を知らせる予鈴が鳴ったけれど、それでもしばらく、私は彼女から視線を逸らさなかった。


***


 放課後私達は待ち合わせて、近くのホームセンターへと行くことになった。理由をアッキーに聞いたら、

「まだ何も準備してないから。道具が欲しくて。」

 だそうで。なるほど、と腑に落ちる。「手伝ってくれる?」っていうのは、つまり、買い物を手伝ってくれという意味だったのだ。――もしかしたら、その後行われることにも、かもしれないけど、怖いからそこまでは踏み込めない。

 制服の二人組は、そのままホームセンターを徘徊する。……それにしてもアッキー、あっちへふらふら。こっちへふらふら。まるで行き先が決まってないみたい。私はちらりと、彼女の顔色を窺う。

 きっとホームセンターを出れば彼女は、まっすぐ家へ帰ってそれで――。あのT字路で、私達は別れるかもしれない。そしたらこのホームセンターでしか、私は彼女の一回目の消失を、止めることはできない。自然と、拳を作った手に力が入る。おばあちゃん、おじいちゃん。私、頑張るからね。

「ねえ、マス。」

 ああ、マスは真澄から取った私のあだ名。小学校から、彼女はずうっとそうやって呼ぶ。何、と応じれば彼女はけろりと。

「どんな方法で死ねばいいんだろ。」

 なんて言うから、驚きを通り越して呆れた。そんな私の視線を感じたらしく、アッキーは目を足元に向ける。

「いざとなると、なんだかよく分かんなくなっちゃって。」

 ……ふうん。

「でもまあ、ラクに終わらせたいとか、体が残らないように。とか、そういうのによって方法は変わるんじゃないかな。……そういうのを、まず考えてみたら? 」

 少しだけ落ち着いたから、そんな質問をぶつけてみる。何を、彼女は方法に求めるのか。それは一つ、彼女のこんな行動の理由を知るための、手掛かりになるんじゃないだろうか。

 どきどきした気持ちで、彼女の動きを見つめていれば、アッキーはふと足を止めた。それから顔を上げるとまっすぐ、どこまでも続く通路の先を、しっかりと見つめる。

「できるだけ、派手な死に方がいいな。」

 そっか、としか、私は応えられない。そっけない答えに聞こえないよう気を使いながら、私も、彼女の視線を追ってみた。しかし私には、何かを捉えることはできなかった。

「なんだろ。思い付くのは、手首切る、とかかなあ。」

 だったら包丁……とアッキーはいつの間にか、近くにあった、階の説明表を覗きこんでいた。わずかに揺れた、プリーツスカート。どきどきしている私は、その後ろ姿に聞いてみた。

「派手な……ってことはさ。アッキーは、誰かにずっと、覚えていてもらいたい……って、こと?」

 派手なそれは、つまり無残だ。災害、無差別殺人……。むごいと思うものはすべて、私達の心に強烈に残り、消えてくれない。それくらい、心を打つのだ。テレビに映った人の涙。そして、突然ぶち壊され、今は欠片すら見られなくなった日常は。

 彼女は自分で、そんな状況を作り出そうとしているのではないか。

 どうしても覚えていてもらいたい、誰かがいるから。

 まったくもって失礼な質問だと、自分でも思う。本気で人生を終わらせたいのならば、怒るかもしれない。いや、怒って当然の質問だ。でもどうしても、聞いておきたかった。

 彼女はすいと視線を逸らす。それから、ぼそりと言った。

「そうだよ。」

 じゃあそれは、いつもつるんでいる三人組のことだろうか。あの子たちと何かあったから、だから、「忘れるな」とこんな歪んだ方法でメッセージを発信するのだろうか。彼女は目も合わせずに言う。

「マスに私のこと、覚えておいてほしいからさ。」

――え?

 予想もしていない答えだった。顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かったし、口を開いても言葉が出てこない。しかし、また何事も無かったように進もうとする彼女。

「私が、アッキーに、何かしたってこと? 」

 唾すら上手く飲み込めなくて、危うくむせそうになった。アッキーとは中学は別になり、この高校で再会した。でも隣のクラスだし、小学校でしか彼女とは友達づきあいはしていない。その遠い昔、私が彼女に嫌だと思うことでもしたのか? その咎を、ずっと覚えていろということなのか? 私はその咎を覚えていないけれど、足を踏まれた方は一生覚えているともよく言うし。ああ、でもやっぱり心当たりは全くない。どっちかっていったら私の方が踏まれていた気もするし。

 どうしたって、責められる意味が分からない。

 私が立ちつくしていると、彼女は振り返らず、そのまま言った。

「マスは何もしてないよ。」

「じゃあ。」

 なんで。その問いは、声にならなかった。遮るように、彼女が答えを言ったから。

「マスに一番、私のことを、覚えていてほしいから。……マスを一番、私の友達だと思ってるから。」

 喉のあたりで言葉が詰まって、私は、黙ってしまった。ぐるぐると、その奥で感情の熱が回っているのを感じる。正反対の気持ちですら、混ざり合って訳わかんなくなっているような、感じ。私はなぜだか、ふと思い出した。彼女との、小学校でのとある思い出を。


***


 本を何冊も抱えたまま、えっちらおっちらと教室へ足を踏み入れる。その瞬間、嫌な予感が的中したことを悟った。ごおーっと相変わらず暖房はついたまま。蛍光灯も全部点いていて、けばけばしく感じるくらいに眩しい。しかしそれらは、誰のために働いているわけでも、無かった。

 教室には、立ち尽くす私以外誰もいない。おどおどと歩く音すら、虚しいくらいに響き渡る。

 また、おいてかれたのか。

 アッキーとは家もが近くて、保育園も同じだった。だから当然のように小学校でも仲良くしているのだけれど――。このごろはなんか、こういうことが増えている気がする。

「待ってるって言ってたのに。」

 誰もいないから、と零れてしまった言葉は、思いのほか響いてびくりとした。そんな沈黙にすら怯える自分に、少し遅れて腹が立つ。なんで嘘つくわけ、信じられない。でも、上辺の怒りだけで、もっと奥深くに沈む激情は誤魔化せないことを、自分が一番分かっていた。それが一番、私にとって惨めだった。

 置いていかれて、悲しい。

 本を力任せに突っ込んでいた手が、止まった。たしかにさっき、アッキーは「一緒に帰ろ」って笑ってたのに。「図書室行きたいから、少し待っててくれる? 」って恐る恐る言ったら、ちらっと時計を見ながらも、「分かった」って、間延びした口調で約束したのに。ああだったじゃないか、こうだったじゃないか。気づけば私に構わず笑っている彼女に、逆にがんじがらめにされていることに気づいて、余計俯いてしまった。ぐっ、と喉の奥に何かを押し込みながら、乱暴にリュックを背負った。リュックが重いのは、今日は五教科勉強したからだって思いたい。


 もう誰も来ないはずから電気もエアコンも切ってしまう。廊下へ出ると、身を切るように冷たい空気に肩をすくめた。夕陽に染まった廊下は、でこぼこ。黄色がかった蛍光灯が、その窪みに満ちて、まるで湖が道になっているみたいだった。きゅっ、きゅっ、と足音が反響して、余韻が震える。とうとう私は一人ぼっちだ、そんな気分になった。

 でも、少し歩いていると、足音の反響の中に、違う響きが混じっているのに気づいた。私は反射的に耳を澄ませる。まさか、ね。どくん、と心臓が跳ねる。私はすぐに、必死で耳を傾けながら進む足を速める。二つは段々と近づいてきているようで、私が階段に足をかけた瞬間、ばっちりとかち合って思わず立ち止まった。

 こちらへ進もうとしていたアッキーの隣には、女の子がいた。私とアッキーと、同じクラスの女の子。きょとんとした顔で、彼女はこちらを見つめている。私の、話したことの無い子だった。アッキーは私をその目で認めた瞬間、へらりと邪気なく笑って見せた。

「ああ、マス。ごめん。」

 『ごめん』って。

 かーっと脳の一部が痺れた感じがした。アッキーにとって私の存在は、その重みの無い三文字分しかないのか。じんじんと頭が麻痺して、その衝撃に耐えることしかできなさそうだった。だから上手く返せないまま、時間だけが経ってしまう。しかしアッキーは、最初から私の答えなんて求めていないみたいで。揃った二つの足音は、いともたやすく私を追いぬかすと、先へと進む。見上げた後ろ姿は、逆光のせいか、眩しくてよく見えなかった。

 せっかく下駄箱まで行ったのにさあ、忘れ物とかマジうざーい。しょーがないじゃん、私だって取りに行きたくないけどさあ、ちゃんと提出日守んないと、あの先生マジうるさいもん。えっマジか、私やるつもりなかった。えー、バカじゃん、大丈夫なの?

 とかとかとか。古文みたいにつらつら途切れない会話。当然のようにオチもない。

 遠ざかっていく声に途方に暮れていると、前方からぽんと言葉が放たれた。

「早く来なよ。一緒に帰ろ。」

 アッキーの声に、びくり、と一瞬肩が震えた。どうしようと一瞬迷ったけれど、結局、いつの間にか私は元来た道を、がむしゃらに走り出していた。


***


 あのときの感情を、ふと思い出した。

 自分から約束したくせに、その後で会った友達と「帰りたいから」って理由で帰ってしまう彼女。そんな彼女に軽く軽く扱われ、それが分かっていたからこそ、置いていかれたことが惨めだった。なのにやっぱり、同じ言葉を掛けられれば喜んでしまう。約束なんて守るはずないのに、彼女をまたどうしても信用してしまう。約束してくれる、ということが嬉しくて仕方なくて。

 今の私と変わらない。

 ”たまたま”昔から知り合いで、”たまたま”同じ学校に入ったから、”たまたま”仲良くしてた。意思もへったくれもなく、ただただずるずると続いていた関係は、当然のように壊れた。小学校を卒業し、中学校は別々のクラスになったのがきっかけで。

 それがどうだ。今日突然、昼休みになったら呼び出された。同じ高校に入学して、また別のクラスになってからは、ほとんど話したことも無かったのに。それなのに、私の方もほいほいと付いていき、そしたらこうやって手のひらを返されて。

 それが嬉しいなんてさ。

 安い人間だなあ、私。と自分自身にほとほと呆れかえる。アッキーの表情が昔と違って真剣なのが、余計にタチが悪い。

「そっか。」

 心では、様々な感情が渦巻いていて、とてもじゃないけど整理出来なかった。だから、私もアッキーが一番の友達だよ、とはさすがに返せなかった。そんな、私の気持ちが伝わってしまったのだろうか? 私の返事には何も言わず、彼女はすっと背を向けた。


「ロープがいいんじゃないかな。」

 もう少しだけホームセンターをぐるぐるしてから、私はそう提案した。アッキーはこちらを見て、あからさまに眉をひそめた。

「地味じゃない?」

「そうかな。」

 そもそも地味も派手も無いと思うけど、というのは飲み込んで。ついでに、その後って筋肉が全部緩んじゃうから、おしっことか垂れ流しになるし、それはそれで派手じゃない? というのも飲み込む。

「ドラマとかでもよくあるからさ。私もみんなも、想像しやすいよ。アッキーが実行した後、そこはどんな光景だったのかってさ。」

 それに、もっと重要なのは。

「手首を切るって、すっごく痛いらしいけど、あんまり私達にはぴんとこないじゃん。リスカなんてしたことないし。それより首が絞まるっていう苦しみの方が、想像しやすいでしょ? ネクタイが引っ掛かったとか、軽くならみんな経験あるから。」

「……それが?」

 いっそう、彼女は眉をひそめた。まったく、私の考えを待つばかりで、想像力が無いんだから。

「想像しやすいからこそ、なんか、記憶に残りやすいんだよ。……そうすれば、私も、アッキーのことずっと覚えてられるよ。」

 なんだか、そんなこと言うのが気まずくて、少しだけ声のボリュームが落ちる。だけれど、ずっと覚えている私を想像したのか、彼女の反応は良かった。聞かれていないけれどもついでに、「ラクだよ。縄に体重かけた瞬間、意識なくなるから。」と付け足すと、気のない返事、というか声が返ってくる。やっぱり、こういうところにはまったく興味が無いらしい。

 やがてロープを売っている場所に着くと、彼女は迷わず麻縄を手に取った。強度も確認せず、数分間、ただ手のひらから垂らし、揺れる様子に見入っていた。それからレジへ向かい、小さな文房具コーナーで取った色ペンの替え芯と一緒にお会計をする。

 その手元を、私はじいっと見つめていた。


***


 アイス食べよ、と彼女は言った。

 こんなときにアイス。……まったく、自殺を考えてる人間は、何を考えているのかよく分からない。そんなわけで私達は、いつも食べるようなスーパーとかコンビニのやつじゃなくて、お店で食べるやつにする。少しだけ、高いやつ。彼女はしばらく、ダブルにするかトリプルにするかで迷っていたが、結局ダブルにしたみたいだった。私はいつも通りの組み合わせを、店員さんに告げた。

 アイスを持って席に座ると、大きく一口分、もう既に柔らかい表面をなぞるようにすくう。そのまま舌ですりつぶすように溶かせば、刺激的な濃い甘みと冷たさが広がって気持ちいい。二人で黙って、とにかく、もう一口もう一口とアイスの山をどんどん減らしていく。汗がひいていくのを感じていると、ふと、アッキーがロッキーロードをすくった手を止めた。

「私さ、実はさ……。いじめられてたんだ。」

 アッキーのスプーンからカップへ、どろりとした液体が落ちる。

「今まで四人組で仲良くしてたんだけど、なんか、私が木本に告ったのがまずかったらしくて。ユミがそれに怒っちゃって、そしたら、ネットに悪口書かれて。言い返したら、もっとひどいことを、色んな人と言い始めて。しばらくしたら、リアルでも無視されるようになった。もうちょっとしたらクラス中に、無視されたり笑われるようになってきちゃったんだ。」

 淡々とした言葉だけが、耳に残った。親子連れで溢れかえった店の喧騒は、どこかへと行ってしまう。

 彼女はこの、とても言いにくいだろうこの話を、どうしても私にしたかったのだ。私は彼女が、なぜ慌ててアイス食べようと言い出したのかを理解したし、同時に、おしゃべりな彼女がなぜ黙々とアイスをつついていたのかも理解した。気づくポイントはあったはずなのに、気づいていなかった、そんな私を軽蔑した。こんな考えすら、分からなかったなんて。隣のクラスだからといって、いじめがあるという情報も入って来なかったのか。突然、彼女は渇いた笑い声を上げた。

 その間にも、彼女が見つめるアイスは、みるみる内に溶けていってしまう。

「それが続いてたら、なんか全部嫌になっちゃった。だから、全部リセットするの。そのために、私は今日自殺するの。」

 その声は、アイス屋中に響き渡ったはずだった。だけれども、ねーねーお母さん一口ちょうだい、と私達の隣で甘えている子供にも、それを窘めるお母さんにも、なにも響いていないみたいだ。もしかして、アイス屋のテーブル一つ一つがパラレルワールドなのだろうか。……違うだろう。みんな、聞いていないのでは無く、聞こうとしないのだ。他人に、興味が無いから。そんな当たり前のことが、私は不意に寂しくなった。私以外に、アッキーの願望を聞こうとする人がいないというのは、アッキーにとって悲しすぎる気がした。

 誤魔化すように、私は最後の一口を口に入れる。しかしすっかり麻痺してしまった舌には、棘のある冷たさしか刺さらない。私は、彼女に苦しみに分かるよとは返せない、わざとゆっくりと、アイスが溶けたものを飲み込む。やっぱり、まったくもって味は分からない。

「そっか。」

 なんて言えばいいのか、私の少ない人生じゃ分からなかった。だから、また同じ答えを返した。分かるよ、分からないよ、とも言わない。どんな自分自身の意見も含まない。ただ、聞いていないわけじゃない、という事実を示すためだけの合図。とても便利な言葉を、こんなときに私はまた、一回分消費していく。それでも彼女は、少しでも満ち足りた気分になったようだった。彼女は乱暴に、液体だけのカップにスプーンを突っ込むと、それから甘そうに、スプーン一杯を呑み下していた。

 その様子は、隣の子供連れの雰囲気と、なんら変わらないように見えた。


***


 アイス屋を出ると、しばらく二人で外を歩いた。冷えた体が段々と気温三十度に近づいていくのを感じながら、いくつもの店を通り過ぎ、歩き続ける。空を見上げれば、ずらーっと両端に整列した住宅の群れが、青を長方形に切り取っている。夕方なのにまだまだ青い空は、どこか嘘臭いくらいに美しいから、歩いている最中、私はずっとその青に見入っていた。ぼんやりと見ていると、見なれた風景もどこか新しく見えるのだな、と思った。しかし、かつ、かつ、とずっと隣で響く足音は、ずっと変わらずそこにあった。彼女は、一歩一歩踏みしめるように、噛み締めるように、味わいつくすように、アスファルトへまた一歩ずつ足を落とす。私はそれを横目で眺めながら、ただただ黙っていた。

 時折、向かいから来る人とすれ違う。みんな私達の存在なんて見えていないみたいに、進行方向にしか目を向けない。あるいはスマホ。ただ一瞬だけ、人生がすれ違っただけなんだ。それだけじゃ、やっぱり一人の女の歪んだ願いなんて、誰も気づくはずがないんだもんなあ。

 くだらないことを考えているうちに、大きなT字路に行き当たった。ここを右に行けば、アッキーの家。ここを左に行けば、私の家に着く。ここが二人の運命の分かれ目なのだと思うと、二人共、どうにも足を踏み出せなかった。ギャラリーのセミ達は、やんややんやと拍手喝采。早く行け、楽しませろ、と喚き散らすように煽るのを、どこか遠くの自分だけが聞いていた。本体の私は、ずうっと、目の前にどんと立つ行き止まりを、見つめていた。

 ぽたり、と鎖骨に汗が落ちたのが合図になって、私はゆっくりと、T字路を左に曲がり歩き出す。このまま少し行けば、もう自分の家なのだ。私はゆっくりゆっくりと歩いていく。沈黙は、セミが勝手に埋めていく。みーんみーんみーん……

「ねえ!」

 世界をぶち破るような声が、私の背中に掛けられた。きっと呼び止めるだろうな、と思ってはいたから、私は動揺もせずに足を止めた。

「……私の自殺、止めないの!?」

 それはまさしく、絶叫だった。なんで、信じらんない。言葉にならない非難も、その声にはばっちりと乗っていた。

 私はこれまた、ゆっくりと振り返る。逃げ水のように、輪郭すら揺れて消えてしまいそうな夏の中。このT字路を右に曲がってしまえば、彼女の家はもうすぐそこだ。でもアッキーは、両足でしっかり踏ん張って、今にも泣きそうな、怒りだしそうな、そんなぐしゃぐしゃの顔のまま立っている。分かれ目のところで、私だけを見て。

 自分の口元が、笑うように歪むのを感じた。


「だってアッキーは、最初から自殺するつもりなんて、なかったじゃない。」


 撃ちこんでやった一言。ああ、ダメだよ。すぐに唇でへらりと弧を作ってみたって、数秒あった不自然な間と、強張った顔つきを誤魔化せるわけないんだから。

 もう、それに騙されてあげるほど、私は優しくなれないもの。

 彼女のクソむかつく言葉なんて聞きたくなかったから、私は先手を打つようにまくしたてる。

「そもそもさあ。詰めが甘すぎ。アッキー、私のこと本当に騙す気あった?」

 『私、今から死ぬの』と打ち明けた女にしては、おかしなことが多すぎた。

 まず、『派手に死にたい』とか言った時点で、私は疑っていた。だから、なんでなのと聞いた。そしたら、『覚えていてもらいたい』って。それで、ああ、実行に移すつもりはないんだなって感じた。『いじめられてた』っていう情報で、それは確信に変わった。だって、『この状況をさっさと終わらせたい』んでしょう? だったら一人で買い物に行けばいいし、ラクな方法で早く実行したいはず。そういえば、ラクに終わらせることへの興味もなさすぎたよね。それと、ずっとどんなふうに最期を迎えようか……っていうシミュレートも、いじめられてたのなら何周だって飽きずにする。当日にどうしようなんて、絶対に言わない。

 『いじめられてるのを終わらせたい』っていう切羽詰まった理由に、『覚えていてもらいたい』なんてどこか余裕のある理由は、ちぐはぐだ。全部通して考えてみれば、なんとなく座りが悪い。

 詰めが甘いな、と思った。でも、私を巻き込んでるのだ。彼女なりに、必死で紡いだ嘘なのかな。人を騙すなんて慣れないから、どうしても綻びが出ちゃったのかな。だったら、このまま騙されてあげたまま、その意図を探っていけばいいかな。

 私だってさ。本当にそう思っていた。でも。

「それにしても、甘すぎるんだよね。だって、今日人生終わらせるってやつが、色ペンの替え芯をロープと一緒に買うわけなくない? アイス、ダブルかトリプルか、財布見ながら悩まないって、ちょっと考えれば分かるじゃない? 」

 アッキーの表情が、みるみる内に凍りつくのがすごく笑えた。まあとりあえず、私はこう悟ったわけなのだ。

「アッキー、私をナメてたでしょ?」

 まあちょっとくらいミスしたって、ばれないばれない。計画から実行まで、全体に行き渡った気の緩み。動機のちぐはぐさも、そのせいだ。別に私が特別、ナメられてたわけではないと思う。きっとそんな心持ちが、彼女が人と接するときのデフォルトなんだと思う。ふと、小学生の頃、彼女に置いていかれたのを思い出した。あのとき一緒に帰ろうとした女の子も、時が違えば、置いていかれる側にいたのかもしれない。

 騙すというのは、よくよく考えれば、相手のことをよく考える行為だ。相手はどんな行為に弱いのか。じゃあ、どういう嘘をつくべきか。

 人と真剣に向き合ったことのない、彼女のことだ。

 「コイツならこれくらいで大丈夫。」というナメきった態度でしか、彼女は人を見ない。心を埋めるのは、全部、全部自分のこと。そんなやつに、嘘が向いているわけがないのだ。

 昔から変わんないなあ。そういう、軽薄なところ。相手が何をされたら嫌かなんて、きっと考えたこともないよね。

「色ペンを買ったときに、ああ、私はアッキーを軽蔑しよう。そう思ったよ。」

 その時点でもまだ、アッキーは自分はマスを騙している。そう思い込んでいただろうアッキーは、睨みながら低い声で問うた。やだね、あなたが私を憎む理由に、露ほどの正当性もないこときっと分かっていないんだろうね。

「じゃあなんで、そのときに、私に言わなかったの。」

 バッカじゃないの、と思った。そんなの。

「あんたがそうやって、止めないの? とか言ってナメてた相手に縋りついてくるのが、見たかったんだよ。」

 中身はないのにプライドだけはあるあなたが、わなわな震えていたのサイコーだったよ。私に心の底からバカにされているのが、ようやく分かったらしい。彼女は顔を真っ赤にして、必死に私を睨むことで、跡形も無くなったプライドを懸命に保とうとしている。

「そもそもアイス屋に行ったのが間違いだったよね、私が動機を聞いてなかった――まあ、その時点でこれは全部お芝居って分かってたから、それに乗るのが癪で言わなかったんだけど――それであなた痺れを切らしたんでしょ? 動機を聞かせて、私の同情を勝ち取るために入ったんでしょ? 」

 隣のクラスとはいえ、そんな大規模ないじめが耳に入らないなんて、さすがにおかしいでしょ。軽蔑してたから、彼女の求める答えを返したくなくて、「そっか」としか返せなかったけど。

 それすら気づいていなかったなんてめちゃくちゃ笑える! 彼女は震える唇を開けて、ゆっくりと、呪うように言った。

「サイッテー」

 どっちだよ。最低は。

 なんだか急に気持ちが冷めてきた。すると、体が暑さを思い出す。汗がぼたぼた、垂れる不快感が体を覆う。暑い、暑い。ああもう、一学期最終日前日に、何がしたかったのかなんて知らないけど、クソみたいなことをしてくれて。

「全部、くだらない。」

 吐き捨てるように言ってやった。

 すると、彼女の顔が歪んだのが分かった。目の端がきゅっと吊りあがり、赤かった頬はもっと赤みを増す。『くだらない』が勘に障ったんだろう。でも、どうしてそんなに? 今日彼女をナメきってから、何回だってこの場所でのシミュレーションはしてたのに、そのどれにも彼女が引き結んだ口を開くなど書いていない。ふざけんなよ、と彼女が腹の底から吠えた。何が起こるのか分からず、それでいてアッキーの鬼のような形相から逃れることもできず。私はじりり、と一歩後ずさった。

「何よくだらないって。たしかに私はあんたを騙した。でも、理由も知らないクセになんでそんなこと言われなきゃなんないの? 」

 彼女の顔に、さっき私を呼びとめた時と変わらない表情が垣間見える。それが私の軽蔑しきった女と同じには見えなくて、心がざわめくのを感じた。

「私、明後日引っ越すの。」

 真剣な声色に、私は何も言えない。

「最初はみんな、私のこと寂しいねっていうだろうけどさ。しばらくしたら、結局私がいない景色の方が、日常になってくる。……私のことなんて、次第に誰も思い出さなくなる。そんなの、嫌じゃん。私ちゃんとそこにいたのに、いなかったことになるなんて嫌じゃん。だから、特にあんたに、こういうふうにインパクト与えたら、覚えててくれるかなって、思ったんだよ。」

「だからって今日のは悪趣味でしょ! 」

 掠れた声で噛みつくが、彼女はわずかに眉根を寄せただけだった。何バカにしてんの? と口を開こうとしたところで、その瞳には”忘れられること”への怯えと、私に対する戸惑いしか映っていないことに気づく。もしかしてアッキーは、私がなんで怒っているのか理解していない?

 嫌な予感は、的中した。

「だって、忘れられるんだよ? 生きてたことが無かったことになるんだよ? それって、”死ぬ”のと変わんなくない?」

 ふざけんなよ。そう言ったつもりが、声になっていなかった。ふざけてんじゃねえよ。やっぱり、辺りで喚くのはセミくらいだった。

 あの日と変わらない気温が、すぐにおばあちゃんの言葉を呼び起こす。目に汗が入るのも気にならないほど、私はアッキーを食いいるように見つめた。本当に信じられなかった。彼女がそんなことを、本気の顔で言ったのを確かめたくて、私は瞬きすらできない。アッキーが言っているのは、あの、二回目の死のことだろうか。

――おじいちゃんを、二回も亡くならせてなるものか。

 そう決意するほど、二回目の死はたしかに悲しい。でもさ。

 同じなわけ、ないじゃん。

 おじいちゃんにはもう二度と会えない。だけどあんたには何回だって会えるでしょ。

 かっと頭に血が上って、血管が焼き切れそうだった。今すぐアッキーを殴り倒してしまいそうな怒りが、体中に満ち満ちているが、ぴくりとも体は動かなかった。二人の間に落ちる、戸惑ったような沈黙。彼女は本気で言っている。そう心の底から悟った瞬間、またすうっと熱が冷めていった。

 きっと私たちは、話し合ったって分かりあえないと思った。どうやら私の思う”死ぬ”という言葉と、彼女の発する”死ぬ”という言葉は、意味から重みまでまるっきり違うものらしいから。

 ふと、この頃教室でよく聞く会話と結びつく。

 体育でメイク崩れちゃった。マジブスなんだけど。死にたーい。

 あっ、小テスト全然勉強してないじゃん。うわー、死にたい。

 私の大嫌いな。でももうすっかり、私たちの生活に染み付いた、”死ぬ”という言葉。中三の夏からより、あの人たちの放つ”死ぬ”が嫌いになった。人生百年時代だと、今は言う。みんなの祖父母の年はいくつだろうか。みんな誰の死にも触れないまま、きっとここまで来てしまったんだろうね。だから軽く、”そんなこと”が言えるんでしょ?

 アッキーは不機嫌になっていた。先生に、宿題を出していないのを咎められたみたいな。「反省シテマース」と今にも言いそうな、「まあ私何も悪くないけど」という表情。そういうことしてるから、さっきみたいなしっぺ返しを喰らうんだけどな。

 私はまわれ右をして家へと歩き出す。生ぬるい空気が、汗でべとべとの肌に冷たく染みた。ちょっと、と怒った声が聞こえたけど、無視。この調子じゃ気づいてないだろう。

 私がずっと、「死ぬ」っていう表現を避けていたことにも。

 特に理由があるわけじゃない。ただあまりにも直接的な表現な気がして、口にするのを躊躇うから、というだけなんだけども。多少無理のある言い回しをしてたのに、それすら絶対に気が付いていない。ということは、私のこの感覚も分かってくれるわけないでしょう? 軽薄な女め。

 あんたなんかと話すことは、一つもないんだ。

 それでも。

 一つだけ、心残りはあった。どうしても聞いておきたい。強く思う自分に反吐が出るのだけど、体は言うことを聞いてくれなかった。大きく息を吸う。肺に詰めた熱に、なんだか全てを吐きそうになる。これを言ったら、私もアッキーのお仲間なのにという思いが、心によぎった。

 嫌だとは思う。でも体は欲に正直で、いつの間にか足を止め、また彼女に向き合っていた。

「ねえ、今日私を選んだのに、何か理由があったの? 」

 彼女は、吐き捨てるように返した。

「決まってんでしょ。あんたがいっつもボッチだって聞いたから、だったら他の人より、覚えてもらいやすいかなって思っただけ。」

 それだけ、か。

 アッキーはもう気が済んだのか、それとも気が済まなかったからなのか、ターンするとすごい勢いでT字路を右に行く。影は彼女の進行方向へと延びて行き、こちら側には残らないのを、私はじっと見つめていた。

 自分が風景の一部になったような気分になる。私の中には、虚無しかなかった。怒り、とか悲しい、とか情けないとかが混じると、どうやら虚無感に落ち着くらしい。全ての色を混ぜると、黒色に落ち着くみたいな。自分の中に、青い空とか、コンクリートとか、憎しみしかない彼女の表情とかが流れ込んできて、虚無を埋めて、それからやっと――悲しくなった。

 思わず俯いてしまった。ぎゅっと両目を瞑ると、力を入れ過ぎたのか目の際がわずかに痛くなる、でもそれもわずかだ。ああ痛い。イタい、イタすぎる。

 友達がいないことを、アッキーに知られていた。

 その現実を思う度、心が軋むように痛んだ。もともと本ばっかりだった私は、友達がいなかった。アッキーと別れてからは、友達と呼べるような人は一人もできなかった。

 アッキーは、私に友達がいないのを知っていて、それで――利用した。それが一番、許せなかった、恥ずかしくて恥ずかしくて、顔から本当に火が出そうだ。

――マスに一番、私のことを覚えていてほしいから。

――マスを一番、私の友達だと、思ってるから。

 どくり、と一際胸を高鳴らせたのは、ただの衝撃だけでは無かった。久しぶりの、”誰かに求められている”という感覚に、愉悦を感じていた。打ち震えていたからだ。

 あの子が軽薄ってことくらい、私は知っていたはずだ。なのに何で、私は心を動かされちゃったんだろう。何を求めていたんだろう。何を、期待していたんだろう。あの求めはポーズだけだと分かっていたはずなのに。……アッキーは私の弱いところを狙える程、私のことなんて考えちゃいない。そこが、悔しい。腹が立つ。

 ……しかし、私はふと気づいてしまった。自分の承認欲求を裏切られたことの方が、”死”を弄ばれたことよりも、ショックを感じているのではないか。後ろから頭を殴られたような衝撃に、思わずくらりとした。そんなはずはない! いやそんなはずは……ある。顔が今までで一番熱くなった。いっそ倒れて全て忘れてしまいたい、と思う程嫌だった。

 もう見えない彼女の後ろ姿を、私はじいっと睨んだ。私のことをロクに考えてもいないくせに、一番恥ずかしいところをずたずたに切り裂いていきやがって。

「やっぱり、最低なのはあんたじゃん。」

 ついた悪態が弱々しくて、自分でも可笑しかった。私は今、恥を怒りに換えきることもできないようだった。止まらない乾いた笑い声もやがて、セミの合唱にかき消される。あーあ、バカみたい。


***


 次の日の終業式にアッキーは来なかった。夏休み初日が引っ越しと聞いていたから、変だなと思ったけれど、彼女の考えを想像したら納得した。その方がクラスのみんなの印象に残りやすいものね。やっぱり、私だけに覚えておいてほしい、というのは嘘だったのだ。少しだけ怒りがぶり返した。しかしそんなことを考えている内に、いつの間にか終業式は終わっていた。驚いていると、人と熱気に押し流され、強制的に体育館を後にする。こんなときまで、彼女に支配されていると思うとさらに腹が立つけれど……。彼女に思いを馳せながら、ふと足を止めてみた。

 たくさんのお喋りが、私だけを置いて進んでいった。私の皮膚から数センチ、ぐるっとバリアでもあるのかというくらい、みんなきれいに私を避けて行く。――まるで私が存在していないかのように、誰も、私の隣で立ち止ることはない。

 たしかに、これは辛いだろう。自分が消失してしまったような感覚に、陥るだろう。『いてもいなくてもいい』というのは、私たち十代にとっては最低最悪の否定の言葉なのは、今、痛いほどに感じている。

 だけれど、だからってその感覚を、『死ぬ』と形容するのはやっぱり違うのではないだろうか。まったく別の言葉である、と言い切れるくらい、二つは重みが違うのだから。

「ねえ、上川ってあんた?」

 ぼうっとしてたら、突然バリア内に声が飛び込んできた。明瞭な声と咎めるような口調。あまり慣れないそれに私は反射的に振り向いて……思わず目を瞠った。

 なぜか私の前には、キラキラ女子数人が仁王立ちしていた。茶髪、キツい目つき、ばっちりメイク。さっきとは違う意味で、私たちの周りには人が寄り付かない。まったく知らない子たちに、なぜそんな目をされるのか分からず、たらりと背中を汗が伝った。

 やがて、黙りっぱなしの私に痺れを切らしたのか、あからさまに舌打ちしてから一人が口を開く。そのときやっと、上川は私だと答えていなかったのに気がついたけれど、彼女たちは私の上履きを見たらしかった。

「ねえあんたさ、昨日アキと一緒にいたんでしょ? 見たって子がいるんだけど。」

 アキ、という知らない名前を、知っていて当然のように言われた。しかしすぐに、アッキーのあだ名なのだと気づく。彼女が私の知らない名前で呼ばれている、ということへの痛みは見て見ぬふりをし、私は小さく顎を引いた。とにもかくにも仏頂面のキラキラ女子は怖かった。

「そのとき、アキからあたし達のこと聞かなかった?」

 いや、私あなたたちのこと知らないし。でもそんなことは怖くて言えないので、三人組でアッキーにゆかりがあるということから、ああ、彼女が動機告白のとき言ってた仲良しの三人のことかと当たりをつけた。言われてみれば雰囲気もアッキーと似ているし、間違いないだろう。でもそもそも、人に何か尋ねるときは、自分が名乗るのが先ではないだろうか? そう思ったけれど、三人の顔には『不安』という文字が張り付いているのにやっと気づいて、おや、と心の中で首を傾げた。

「なんかいいなよ。」

 明らかに苛立った声にびくりとする。アッキーは、『いじめられてる』とかぐちゃぐちゃ言っていたけれど、あれは私を信じさせるための方便だったわけだし。

「何も聞いていないよ。」

 事実なんだけれど。彼女たちはちらとお互いに顔を見合わせる。

「ホント?」

「本当だよ。」

「……ふうん。」

 三人は、なぜか不満げに去っていった。私は残されたまま、「何だったのだろう」と思っていた。――もしかして、アッキーの言っていたことは本当だった? 思わず、どきりとした。だって今の彼女たちは明らかに、”何か引っ越しに心当たりがある”反応だったじゃないか。告白、無視、クラスぐるみ。彼女は……本当のことを言っていたのか? そして、本気で悩んでいた?

 何でアイス屋で、本当のことを漏らしたのかは分からない。私が「自殺やめようよ」って全然言わないから、焦って言うつもりのないことを口走ってしまったのかもしれない。

 なんにしても彼女は、あのふざけた計画に本気で取り組んでいたのだ――。理屈ではなく、ようやく、感情で理解出来た気がして、ずっと目の前にあったその事実に動揺した。あれは茶番じゃ、なかった。

 だからといって、『くだらない行動だった』という評価を、覆すことはしない。私を、そして『死』を軽んじた行動を、一生許すつもりもない。当然のことだ。でも、彼女は本気だった。私の価値観でくだらない、と切り捨てたものは、彼女にとっては私にとっての『死ぬ』のように、心の奥底で大切に守ってきたものだったのだ!

 それが私には、ただただ衝撃だった。呆然としていると、廊下で一人立ち尽くす女子を心配したのか、先生が声を掛けてきた。しかしそちらに顔を向けても、彼女の残像は消えてくれそうになかった。


***


 あっという間に夏休みが終わった。こんなこと毎年言ってるから、来年も言うのかもしれない。始業式から一週間、アッキーの元クラスを覗いてみたら、後ろにポツンと空いた席が。その不自然さに、みんなまだ戸惑っているようだった。アッキーはみんなに覚えていて欲しいからって、クラスのみんなに手紙を残したらしい。『引っ越しのこと、突然だったから話せなくてごめんね。みんなのこと忘れないよ。みんなが、私にしたことも。』。『みんなが私にしたこと』。あんな言葉を吐かれたままでは、みんな夏休み中は心中穏やかじゃなかっただろう。クラスぐるみの無視も、本当にあったのかもしれない。だからこそ、その所業すら忘れられてしまうのが、アッキーは悔しくて悔しくて仕方なかったのかもしれない。クラスに漂う、どこかぎこちない雰囲気を感じつつ、よかったねアッキー、と心の中で何の感動もなく呟いた。

 全部、あんたの思惑通りだよ。

 それから、話したい人など誰もいない、自分の教室へと戻る。あちらこちらで起こる会話の隙間をくぐり、自分の席へ座ると、私はこっそりスマホを出した。窓際の席だから、まだ夏を残した日差しのせいで、スマホの画面が黒く染まる。ちらと窓の外へ目を向けたけれど、分厚いガラス窓のせいで、上手く空へとピントが合わなかった。

 さあ、改めて。画面を手で覆いながら、メッセージアプリを開いた。『アッキー』を迷わずタップすると、一番上に『くだらないとか言ってごめん』という、私からのメッセージが表示される。アッキーは怒っていたけれど、思ったよりも早く許してくれた。そして、『頑張ってね』『マスもね』そんな微笑ましいやりとりが続いて。

 スクロールすると一番下だ。最新のメッセージは私から。送信は一昨日の夜なのに、既読のサインすらついていない。私は思わず空を見た。でもやっぱりガラス窓に阻まれて、視線は狭い教室に閉じ込められる。きっと新しい学校で、新しい友達とのメッセージのやりとりの下に、私のメッセージは埋もれてしまっているんだろうと、軽薄な彼女を思い出しながら想像する。

 すると、ふいに笑いがこみ上げてきた。あんなに覚えていてもらいたがったのは、アッキーなのに。

「結局、あんたが私を殺すんだ。」

 呟いてはみたものの、誰も私の言葉に興味は持たない。教室を漂う『殺す』という言葉の軽さが、どうしようもなく可笑しくて、笑えて笑えて仕方なかった。

 私は突っ伏して、肩を震わせた。怒っているからか、泣いているからか、笑っているからか、それは自分にも分からない。分かっているのは、私は一生アッキーを殺せないってことだけ。

 あーあ、バカみたいじゃん。

 軽薄なあの子を、私は今本気で憎んだ。

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透明自殺 沙月 @komatsuna437

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