団塊世代のヤエちゃん

青瓢箪

第1話 団塊世代のヤエちゃん

「おかやん(おかあさん)、行ってきます!」


 ウチは台所にいるおかやんに声をかけて家を出た。


 息が白くて顔に貼りつく。

 おひさんがあたっている道から、朝もやがたっているのが見える。

 ウチは首をすくめた。

 もう十一月も終わりやもん。寒いわ。


「ヤエちゃん、おはよう」

「おはよう、さっちゃん」


 近所のサチコちゃんも出てきて、隣に並んで一緒に保育所に向かった。

 後ろから遅れて家から出てきた三歳の弟のシゲが自転車チャリ


「ブンブンブン!」


 叫びながらウチらを追い越していった。

 白いチャリで、シゲは「俺の白バイや」といいながらどこにいくのにもそれに乗る。

 保育所の先生には、乗って来たらあかん、歩いてきなさい、と怒られるのにシゲは聞かずに毎日それに乗って保育所に行ってた。でも最近は怒られるさかい、バレんように保育所の手前でいつも乗り捨てとる。


 さっちゃんと一緒に吉野川にかかる橋を渡る。

 ウチは吉野よしのに住んでる。

 ウチの家は吉野川を挟んで吉野山の真向かいにある。太閤たいこう秀吉が絶賛した千本桜で有名な吉野山やで。

 春の花見の季節はそりゃあ綺麗なもんやで。ぎょうさん人が来てエライことになる。でも、それ以外の季節は閑散かんさんとしたもんや。

 ちなみにウチの名前のヤエは「八重桜やえざくら」のヤエからとっておかやんがつけた。

 綺麗な名前やと思うけど、何十年後かに姓名判断してもろたら不幸になる名前や、て言われて占い師さんに強く改名をすすめられたわ。悩んだけど、結局改名せえへんだけどな。


 吉野川の川岸には鷹匠たかじょうのオッサンがいて、鷹を飛ばしてはった。

 今の水量はエライ少ないけど、台風が来た時にはたびたび堤防が決壊する。

 何年後かに伊勢湾台風いせわんたいふうが来たときはすごかったわ。ウチの家の前まで水が来よった。

 ウチの家より川に近かった家はみんな流されたり、水浸しや。


 川岸にある林業組合の前には、吉野杉の丸太がごろごろ川に浮かんでた。

 春や夏にはウチらはみんな、その上に乗っかって遊んだ。グラグラする丸太の上で落ちへんようにバランスをとる遊びやけど、みんな結局は落ちた。でもそれが面白うて、日が暮れるまでいつも遊んどった。

 そのおかげか、小学校にあがったとき、体育で平均台から落ちるようなドンな子、だれもおらんかったで。

 何年後かに一度、この丸太が炎上したことがあった。林業組合の倉庫、全焼や。あのときは、火の粉が川を越えてウチの家まで飛んできて怖かったわ。


 ウチらの保育所は川を渡って吉野山の方へ行く途中にあった。

 シゲの自転車が道草の中に乗り捨ててあった。

 保育所の門に近づくなり、中から男の子がウチめがけて走ってくるのが見えた。


「ヤエちゃーん!」


 サトルや。あいつ、いつもいつもうっとおしい。


「こっちくんなや、あほ!」


 ウチは保育所の門の前に立てかけてあった竹ぼうきをひっつかんで、それから先生に止められるまでサトルを叩いて追いかけまわした。

 サトルはいつもウチにべったりひっついてきよる。ウチが女の子と遊んどるのに、ヤエちゃんヤエちゃん俺と遊ぼう、いうていつも邪魔しにきよる。

 ほんまうっとおしいわ。

 ちょっと頭が弱い子なんやと思うわ。ウチに竹ぼうきで叩かれて追い回されても嬉しそうにニコニコしとる。


 ウチは昔から美少女やった。

 みんなからみんなに、可愛いといわれた。

 ホンマやで。

 高校に入った時ぐらいには、みんなから「ミス吉野」と呼ばれた。

 おとやんがエエ顔しとったからそれに似たんやと思うわ。

 その時分にしては背が高くて脚も長かった。

 兄やんの友達はウチが見たくて、ぞろぞろウチの家にいつも来よったし。

 自分でもそこそこ見られる顔してるんやなと自覚しとったけど、大人になって大阪の新地しんちに連れて行ってもらったとき、結構な顔をしてるんやと悟った。

 新地のお店に入ったとき、お店のお兄さんらが「お疲れ様です。」て、みんなウチに頭を下げた。

 なんでやろ、と思ったらお店の綺麗なお姉さんが「綺麗なお顔してはるし、スタイルもよろしいし、お店のホステスさんやと思ったんですわ。」と答えてくれはった。

 つまりウチは新地のホステスさんで通用するぐらいの容姿やったってこっちゃ。はは。まったくのすっぴんやってんけどな。


 それでも何十年後かにウチは娘三人を産んだけど、みんなウチほど美人やなかった。背は高かったけど、そろいもそろってナインやったし。

 あれ、なんでやろな?

 ウチはハンサムな顔の男を選んで結婚したのに。うまくいかんわ。世の中、そんなもんやろか。

 娘にウチの写真見せて「ウチの若い時のほうがあんたらより綺麗やろう。」て言ったら、それぞれが絶句した後、素直に頷いて認めとった。

 はは、ウチはほんまにエエ顔しとったんや。



 ***********



 保育所から帰ったら、家の前でおとやん(お父さん)が自転車を修理しとった。

 ウチの家は自転車とバイクを売っとる。


 そのころにはおとやんの手にはまだ指があった。

 何年後かに、おとやんは作業中、右手の人差し指のさきっぽが千切れてのうなった(無くなった)。

 千切れた指をみんなで探し回ったけど、そのときは出てこんくて、おとやんの指はつながれへんかった。

 後日、バイクのガソリンタンクの中から指が出てきた。

「バチがあたったんやな」

 おとやんはそういっとった。


 戦争中、おとやんは衛生兵やった。

 あるとき、目を怪我した兵隊さんにおとやんは目薬を点した。

 あせっとったんやろな。目薬やと思った小瓶のそれは、なんと硫酸りゅうさんやった。

 じゅ、と音がしたのを今でも覚えとる、とおとやんは話した。

 その兵隊さんが今でも生きてんのか死んでんのかはしらんけど、あれだけは俺の一生のいや、とおとやんは言っとった。東南アジアでふらんすの兵隊さん、何人も殺したことよりもや。

 同胞どうほうの兵隊さんの目をつぶしてもうた、そのときのバチがあたったんやと。


「ただいま」

 ウチは緊張しながらシゲと、おとやんの後ろを通り過ぎた。

 おとやんは怒ると怖い。よく叩かれた。

 気に入らんことがあったり、ご飯の味付けが好みやないと、食卓をよくひっくり返した。

 ちゃぶ台返し、てやつやな。

 ご飯中、ウチは一言もしゃべらんと、いつも緊張しながら食べとった。

 おとやんにはよく棒で叩かれて、ウチの身体のどこかしらには、いつも青あざがあった。

 ウチは夏のプールの際、それを皆に見られるのが恥ずかしくてたまらんかった。

 だから、将来自分の子供には絶対手をあげへん、とウチは決意したんや。

 あんまりアホなことを子供がしたときは、頭ぐらいどついたけど。

 おとやんはウチをよく叩いたけど、弟のシゲがウチと同じことをしても絶対に手を出さへんかった。

 それが悔しゅうてウチはならんかった。

 あれ、なんでやろな。

 やっぱり、シゲが男で自分の跡継ぎやと思っとったからやろか。

 シゲとウチの姉やんにはおとやんは絶対に手をあげへんかった。

 反対に、ウチと長男の兄やんだけはよう叩かれた。



 ウチは四人兄弟の三番目や。

 一番上の兄やんとは父親違い、二番目の姉やんとは母親違いや。

 おとやんとおかやんは戦後つれあいを亡くしたこぶつき者同士、一緒になった。

 話を聞くに、そうなってもうた、というほうが正しいやろか。


 おかやんとおとやんの死んだ奥さんとは知り合いで戦争中、仲良うしてたらしい。

 戦後、その奥さんが栄養失調(ほとんど餓死がしやろな)で出産後、すぐに死んでもうた。

 困り果てたおとやんは、乳呑み子の姉やんを抱えて、おかやんのところへ来た。

 おかやんの最初の旦那さんは兵隊さんに行って死んでもうたさかい、おかやんは自分の子供(兄やん)を一人で育ててた。

 おかやんはその時、行商ぎょうしょうをしとって、割と羽振りが良かったんやそうや。あの当時は、何でも飛ぶように売れた、って言うとった。

 おかやんは姉やんを連れて、すぐにおとやんが去ると思っていたらしい。

 でもいつまでたっても、おとやんは家から出て行かんかった。

「いつまでたっても出ていかへんねんもん。しゃあないわ」

 おかやんは本当に人がいいと思う。

 あんなやくざもんの男はやめておけ、と周囲の人が止めるのも聞かず、おかやんはおとやんと一緒になった。

 姉やんが不憫ふびんやったから、とおかやんは言った。育てているうちに姉やんに情が移ったと。

「あの時のお父さんは、ホンマに情けない姿しとったんやで」

 復員兵ふくいんへいのぼろぼろでひどい姿のおとやんを見て、こんな人に姉やんが育てられるのかと思ったらしい。


 周囲の人が注意したとおり、おとやんはそんな人やった。

 酒は弱いから飲まへんけど、暴力はふるうわ、女好きで浮気ばっかしとった。

 つらがよかったさかい、おとやんはモテた。

 近所中の未亡人とエエ仲やった。

 夜中、こっそり家を出ていくおとやんを、ウチとシゲはおかやんに言われてよう後をつけたわ。真夜中に自転車でふらふらこぎ出すおとやんを二人でけるのは、なかなかのスリルやった。

 おとやんが入っていった家を確認して、家に帰っておかやんに報告すると、おかやんは「さよけ。」と言って、いつも布団に入って寝るだけやった。


 あれ、なんでやろな?

 ただ、相手を把握はあくしたかっただけなんやろか。


 そんなどうしようもないおとやんやったけど、弟のシゲと姉やんには優しかった。

 やっぱり、自分の血が入っとる子供やったからやろか。

 でも、一番上の兄ちゃんは違うけど、ウチにはちゃんとおとやんの血は入っとるで。

 あれ、なんでやろな?

 シゲが男やから?

 姉やんに優しいのは前の奥さんへの思いがあるからやろか。




 靴を脱いで家の中に入ると、お客さんがいて、椅子に座ってチャァ、のんどった。

 ウチの家は人が入りやすい家やったんやと思う。

 いつも、誰かしらお客さんがおって、おとやんとおかやんに話をしとった。


「おかえり」

 そのおっちゃんはウチとシゲを見て笑顔で声をかけてくれた。


 あ。

『柿の葉寿司(かきのはずし)の中に紙粘土かみねんどを詰めて大阪のボンボンに売りつけたおっちゃん』や。


 名前は知らんけど、ウチはよく家に来るそのおっちゃんのことをそう覚えとった。

 そのおっちゃんが、いつでもウチとシゲにその話をするからや。


 戦後、おっちゃんは吉野の桜目当てに物見遊山ものみゆさんにきた大阪のええとこのボンボンに、柿の葉寿司と称して、柿の葉にくるんだ紙粘土を売ったんやて。

 まあ、戦後や。あちこちでそんなことがあったんやろな。


 台所ではおかやんが夕飯の準備をしとった。

「ただいま」

「おかえり」

「おかやん、クリスマスの劇な、ウチ、木の役になったわ」

 大根の皮を剥いとったおかやんが振り向いた。

「なんでや。天使になりたい、ていうてんやろ」

「知らん。天使役になりたいって言ったけどあかんかってん」

 ウチはそういうて、シゲと一緒に食卓に置いてあったおやつのシキシキ焼きをとって、階段を上って二階に行った。

 シキシキ焼き。

 メリケン粉に水と少し砂糖を入れて焼いたんがシキシキ焼きや。

 おかやんが作ってくれるこれがウチは大好きやった。

 少ししか甘くないけど、その時には何よりも美味しうて、とんでもないご馳走に思えたもんや。今食べたら、もむなくて(不味くて)食えたもんちゃうやろうけどな。


「姉ちゃん、また、あのおっさんがおる(居る)で!」

 先に階段を上って二階へ行ったシゲがシキシキ焼きで口の中をいっぱいにしながら、窓の外を見て言った。

「また、おん(居る)のかいな」

 ウチは言って、モグモグとシキシキ焼きを味わいながら、シゲの隣に立って窓の外を見つめた。

 ウチの家は近鉄きんきてつどうの線路のそばにある。

 窓からは駅が見えた。

 駅のそばにはやなぎが生えとった。

 その柳の下にそのはよくおった。


 おっさんは幽霊や。

 やっぱり、幽霊は柳の下におらなあかんねやろか。


 近所中のみんながその幽霊(おっさん)を見とって、その風景は日常やった。

 幽霊おっさんは、近所の金物屋かなものやのおっちゃんやった。

 おっちゃんはヨメさんと子供を捨てて、若い女と逃げた。

 でもその先で体を壊して死んでもうたらしい。

「後悔して、許してほしゅうて、出てくんねんで」

 とみんなが言っとったけど。

 死んでもうたのに、後悔して意味があるんやろか?


 そのおっちゃん幽霊は、半透明はんとうめいで柳の下に立って(やっぱり脚は見えへんかった)、自分の家やった金物屋の方をいつもむいとった。

 しばらくして、だれかがお祓いの人を呼んで、お祓いしてもろたら、おっちゃんは姿を消した。


 ウチは霊感れいかんある方やけど、あそこまで何回もはっきりと幽霊を見たのは、後にも先にもこの時ぐらいやわ。



 **********



 夜中、となりの布団に寝とったおかやんが声をもらした。

「おかやん、腹、痛いん?」

 ウチは目を覚まして声をかけた。


 何か月か前、おかやんは子供をろした。それから、おなかが時々シクシク痛むみたいや。


 赤ちゃんが出来たおかやんを診察した病院の先生が「今回の子は『※ぶどうっ子』や。」て、おかやんに言ったんや。

 ※ぶどうっ子……胞状奇胎(ほうじょうきたい)。


 だから、おかやんは赤ちゃんを堕ろした。

 でも、出てきたのはぶどうっ子やなくて普通の赤ちゃんやった。

 男の子やったらしい。

 おかやんはかわいそうなことをしたと、よく泣いていた。

 しばらくしたら「病院の先生があんなに言うたからには、やっぱりあの子にはおかしいところがどこかほかにあったんやと思うわ。」て何回も自分に言い聞かせてはった。


「ヤエ」

 向こうを向いて寝ていたおかやんがウチの方を振り向いた。

「クリスマスの劇で、天使役にはだれがなったんや」

 ウチは思い出して答えた。

「せんちゃんと、ひろちゃんと、ちかちゃんや」

「……お金持ちの家の子やな」


 一番金持ちのせんちゃんは家から数件先の肉屋の子や。

 ウチはその子とよく

 その子の家では、舶来の人形とかおもちゃとかお菓子とかがたくさん出てくるからや。

 だからウチはその子と


 あの子は金持ちやけど、でもの子や。


 そういう優越感みたいなもんがまだ子供のウチにも備わっとった。

 あのころはまだそんな感情がちまたではゴロゴロしとったんや。

 大人がそうやったさかい、子供もそうやった。

 学校に上がった時、部落ぶらく出身の若い先生が赴任してきたことがあった。その先生は他の先生にいじめられて、可哀想かわいそうに自殺しはった。

 当時は学校の先生でさえ、まだそんなんやったんや。


「せんちゃんとこが金持ちやから、せんちゃんは天使になれたん?」

 ウチはおかやんに聞いた。

「……天使の衣装がウチには用意できへんと思ったんとちゃうか」

 大きなってから、その理由をウチも考えたけど、その時のおかやんのいったとおりやと思った。

 保育所の先生なりに気を使ってくれはったんとちゃうやろか。


 ウチはそのころ裕福ゆうふくではなかった、と思うわ。数年後に店の景気がようなるまでは。

 確かに、ウチのそのころの将来の夢は八百屋さんになることやった。

 だって、いつでもバナナが食べられるからや。


「ヤエ。明日、お母さんも保育所に行くわ。先生と話したるわ」


 おかやんはウチにそう言って、それからは一言もしゃべらんかった。



 **********



 おかやんは次の日、ウチとシゲを連れて保育所に行き、保育所の先生と話をつけた。

 おかやんはそういうことにはきっちりとした人やったんや。

 その次の日には、電車に乗って大阪の船場せんばに行って、白い布を買うてきはった。

 真っ白でつるつるして光沢のある綺麗な布やった。ウチはそれを見てワクワクしたで。

 おかやんはその布でウチの身体に合わせて、それはかわいい綺麗な天使の衣装を作ってくれはった。


 おかやんは着るものにはこだわる人やった。

 ウチら子供に着せる服も、きっちりしたもんしか着せへんかった。

 毎冬、ウチらが着るセーターやカーディガンは商店街の仕立て屋さんできちんと仕立ててもらったんを着とったんや。

 小学校の担任の先生に

「ヤエさんは、いつ見てもセンスの良い服を着ているんやね」

 と言われたんが誇らしくて嬉しかったわ。


 自分の身に付けるもんもホンマにエエもんしか、身に付けはらへんかった。

 武士は食わねど高楊枝たかようじ、ていうやつやろか。


 おかやんの家はもともと武士の家柄やった。ご先祖様はお殿様に仕えた御家老ごかろうやったそうやわ。

 そんな家に生まれた、ほんまならええとこのお嬢さんやったはずのおかやんやったけど、おかやんがまだ小さい時に、おかやんの一番上の兄さんが博打バクチに狂って借金まみれになってしもうた。そんで、一家離散いっかりさんや。

 おかやんは奉公に出された。

 そのおかやんの稼ぎで、おかやんの下の弟たちはなんとかご飯を食べられて大きくなれたらしい。おかやんの弟ら(ウチから見ておっちゃんら)は、おかやんに会いに来るたびに『姉ちゃんのおかげでここまで大きゅうなれたんや。ありがとな、ありがとな』といつも頭を下げておかやんの手を握っとった。

 奉公先でおかやんは大分苦労しはったらしいわ。

 でも、そのおかげでおかやんは何でも出来た。お作法も、料理も、お裁縫さいほうも、お茶も、お花も。

 奉公先の家の※いとさんが、おかやんと同じ歳やったらしくて、いとさんと一緒に習い事をさせてもらえてんて。   

 ※いと……お嬢さん。ぼん(男の子)の反対語。


 だからおかやんは何でも出来る。

 読み書き以外は。


 読み書きだけはおかやんは出来へんかった。

 奉公先で、おかやんは読み書きを何度も勉強しようとしたらしい。

 でもそういう時に限っていけずな女中さんが用事を言いつけに来るんやて。

 ほんまに腹立ったわ、ていうてはった。

 とうとう大人になっても、自分の名前を書くだけしか出来へんかった。

 おかやんは将来、産婆さんばさんになりたかったらしい。

 でも読み書きが出来へんさかい、あきらめたんや。


 そんな苦労まみれのおかやんやったけど、小柄でかわいらしゅうて愛想よくて、なんでも出来るし、おっぱいはでかかったし、ヨメにするには最高の人やったから、若いときはめちゃくちゃモテた。

(ということは、ウチがモテたんは、おとやんだけやなくておかやんの血も関係するんかいな?)

 年頃になったら、何人もの男の人がおかやんに求婚しにきはった。鉢合わせした男の人らが、家の前で殴り合いの喧嘩けんかおっぱじめたこともあったらしい。

 迷うたおかやんは、占い師さんところにだれを選んだらいいんか相談しに行きはったんや。

 ここから不思議な話になるけど。


 行った先の占い師さんは、おかやんを一目見て気に入った。

 誰と結婚したらええんでしょう、て聞くおかやんの言葉を一切無視して、「ワシの息子のヨメになりなさい。」と占い師さんは言った。

 もちろんおかやんはびっくりして断った。

 すると占い師さんは「あんたが承知するまでここを出さへんで。」と言い、「はあっ!!」とおかやんに何か呪文のような言葉をかけた。

 怖くなったおかやんは部屋を出ようとしたけど、なんと身体が動かへんかった。

 座布団に足が貼りついたみたいに、立ち上がることすらできへんかったらしい。

 金縛りになったおかやんはとうとう観念して、占い師さんの息子のおヨメさんになると言うてしもた。


 でも、それは大正解やったんや。

 結婚相手の息子さんはホンマにエエ旦那さんやった。

 背ぇも高うて、がっしりしとって、男前さんやったらしい。

 トメさん、トメさん、ていつも呼んでくれはって、トメさんは可愛らしなあ、ておかやんをめちゃくちゃ大事にしてくれはったそうや。いろんな物をうてくれはって、ホンマにおとやんとは違って真面目な優しい人やった、とおかやんは思い出すたびに話してた。

 おかやんはウチら四人の子供にみんな優しゅうしてくれはったけど、一番上の兄やんだけは特に可愛がってはったと思う。

 あれは、兄やんがホンマに好きな人の子供やったからやろな。

 初めての相手の最初の子なんてのは、特別な子になるに決まっとる。

 でも、そんな兄やんに、ウチは嫉妬しっとの気持ちはちっとも起こらへんだ。


 兄やんが大好きやったからや。

 兄やんは、小さい頃からウチのことを一番可愛がってくれはったからや。

 ウチを叩くおとやんを止めようとして、いつも兄やんの方がウチより多くおとやんに叩かれとった。

 中学でテニス部に入って真っ黒になってしもたウチを「女の子が真っ黒になったらあかん、誰もヨメにもろてくれんようになる。」と怒って、高校では美術部に入らせたのも兄やんやし、帰り道で痴漢ちかんに襲われかけたウチを助けて、しばらく駅まで送り迎えしてくれたんも兄やんやった。

 ホンマにお兄ちゃん、てのはええもんやで。

 怖いおとやんに向かって、唯一反抗しておかやんやウチらを守ってくれたんは兄やんやった。そんな兄やんは強くてカッコよう見えたんや。


 兄やんは大人になって、南の島で戦死した兵隊さんの遺骨を回収する仲間を集めた。

 兄やんのホンマのお父さんが戦死した南の島に何回か行って、いくつもの骨を集めて供養しはった。

 おかやんはそんな兄やんを誇りに思ってたと思うわ。



 **********



 保育所のクリスマスの出し物の当日。

 ウチは綺麗な綺麗な天使の衣装を着て、天使役を上手に演じ切った。

 ウチは顔がエエさかい、一番かわいかったと思うわ。

 サトルが『ヤエちゃんかわいい、かわいい。』て言うて引っ付いてきて、うっとおしかったけど。


 舞台の前でおかやんはそんなウチを満足そうに見ていた。

 おかやんは、きっちりと綺麗に化粧をして、いつもは箪笥にしまいこんだる上等の着物を着て、髪にはべっ甲のええかんざしを挿してはった。


 ――50年後の話やけど。

 おかやんは髪にさしとったその簪を、ジェットコースターに乗って失くしてしもた。

 米寿近いおかやんとおとやんを、ウチは初めて遊園地に連れて行ったんや。

 車いすで移動しながらジェットコースターに乗りたいと言い張るおとやんとおかやんを、あきらめさせるつもりで乗り場まで連れていったら。

 なんと係のおねえさんは『自己責任です。』と言ってOKサインを出しはった。

 乗っている最中、おかやんの後ろに座っていたウチは、急カーブのたびにがくんと傾くおかやんの首の骨が折れへんかと、ドキドキしたわ。

 その時に、髪にさしていた簪はぶっとんでしもて、行方不明になった。ジェットコースターの下の植え込みの中に落ちとんのやろな。

 おかやんは簪を失ったことは全く気にしとらんかった。

 それよりも生まれて初めて乗ったジェットコースターにえらい感動してもうたらしい。

 どうやら、おかやんはジェットコースターを『スピードのあるオープンカー』ぐらいやと思っていたそうや。

 想像をはるかに超えたスリルはおかやんの心に強烈に焼きついた。

 それから何か月も、おかやんは家に来た客人にジェットコースターに乗った体験を話し聞かせた。

『寿命が延びたわ。死ぬ前にええもん、乗せてもろうた』

 ニコニコと笑っていうおかやんの様子に、ウチは心配したけど乗せてホンマに良かった、と思うたんや。――





 観客席にいるおかやんはしゅっとして毅然として、まわりのおかあさんのだれよりも際立ってあか抜けて、綺麗やった。

 そりゃそうや。あんな綺麗な格好して保育所来るお母さんなんてウチのおかやん以外には他に居らんかった。

 今でもその光景は覚えとる。

 劇が終わって拍手しているおかあさんたちの中で、ウチのおかあやんの顔は誇り高く光ってみえた。


 ありがとう。おかあやん。

 他のどの子よりも綺麗な衣装で、天使になったウチは大満足やった。


 おかやんはすごい人や。


 小さい時から奉公に行って家族を養った。

 なんでも出来るようになって、お嬢様の作法も身についとる。

 未亡人になって子供を抱え、女一人で行商で稼いだ。

 他人の子を育て、その父親ごと面倒も見た。

 苦労ばかりしょいこんどるようなおかやんやったけど、いつもニコニコしてはったんや。

 着るものには妥協だきょうせず、エエもんしか身につけはらへんだ。

 どんな時もいい加減な格好はせえへん人やった。



 ウチはこの人の子供なんや。

 これが、ウチのおかあはんや。


 ウチはそんなおかやんを。


 ずっと一生、ほこりに思うわ。





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