第12話
馬車には御者がおらず、どうするのかと思えば当たり前のようにクレイアが手綱を取った。
サラマンドは驚いて、馬を操れるのか問うもクレイアは答えない。厳しい顔つきで前を見ている。女の御者などこの都市で見たこともなかったが、その手つきは不慣れにも見えなかった。
御者席に座る後ろ姿を見ながら、よほど慌てて探しに来たのかとサラマンドは主の胸中を測る。
だが冷静に思い返せば、酒場でのクレイアの行動はめちゃくちゃだ。勇敢を通り越した無謀な行動に、サラマンドは今になって怒りが込み上げてきた。
「本当に、無茶をし過ぎです。あなたは死んでいてもおかしくない状況でした。幸運でした」
クレイアの返答はない。その後もしばらく無言のまま馬車が進んでゆく。
「……私は、怒っているんですよ。なぜあなたは黙って出て行ってしまったのか」
ようやくクレイアが言葉を発した。
「すみません……。でも言えるわけがありません」
それを言われればサラマンドもおとなしく謝るしかないが。
「失敗するわけにはいかないのです。……この命を捨てても、どうしても成せねばならぬことがあるのです」
それを聞いてもクレイアはやはり黙っていた。
「それよりクレイア様、あなたこそなんであんな危険な真似をするのですか! 市場のときもそうだ。あんなことでは命がいくつあっても足りない。今までそうやって生きてこられたのが不思議なほどです! あなたの亡きご主人だってそれを望んでいるとは思いません!」
そう言ってから、サラマンドはすぐに自分が言い過ぎたことに気づいた。
「失礼しました……。分もわきまえず」
「これから、屋敷に戻る前に寄って行きたいところがあります。大丈夫です、たいして時間はとりませんから」
クレイアは意に介する様子もなく、そう言って手綱を振った。
「私は、あなたが思っているより色々とできるんですよ」
そう言うクレイアの声は、どこか誇らしげに、楽しそうにサラマンドには感じられた。
馬車が停まったのは町はずれの丘の上だった。ランタンの火でぼんやり浮かび上がるのは、規則正しく並んだ大小様々な石、どうやらここは墓地であるらしかった。
明りを掲げクレイアは進んでゆく。風が徐々に強まってきており、クレイアの長い髪を大きく巻き上げる。サラマンドも急ぎ後を追いかけた。
とある墓石の前でクレイアは足を止める。ランタンに赤く照らされたそれはまだ新しい墓だった。サラマンドはクレイアの横に立ち刻まれた文字を読む。
「これがご主人のお墓なんですね。病気で亡くなったという」
「この下に主人はいないんですよ。主人の亡骸はここからずっと東の荒野にあるはずです」
「それは……」
「病死というのは嘘です。本当は戦死なんです。先の戦争のね。嘘をついていたのはあなたが気に病むかと思ったから」
それを聞いてサラマンドは反応に困った。ただクレイアの口調は責める風ではない。
「主人は地のどん底にいた私を拾ってくれました。主人と会うまでは、男というものは全員馬鹿だと思っていましたから。そんな家畜以下の生き物が、このパルティアの仕組みを作っている」
言葉そのものはこの世界への皮肉が込められているが、その口調は自嘲とも自虐とも違う。昔を懐かしんでいるような響きがあった。
サラマンドは、自分がクレイアの過去を何も知らないことを思い知った。『地のどん底』がどれほどのものかはわからない、何があったか知らないし、知る必要もない。自分の知るクレイアは、好奇心旺盛で、富豪の未亡人で、苦労も知らず、裕福ゆえの心の余裕をもった人間だった。それ以上立ち入るつもりはなかった。
でも本当に地の底にいたならば、各所でのクレイアの行動は無知ゆえの蛮勇ではなく、底を知るがゆえの豪胆だったのだとサラマンドは理解した。そしてその本質を見抜けなかった己を恥じた。
「本当に優しい、良い人でした。でもそんな主人が、突然義勇軍に参加すると言ったんです。驚きました。たしかに主人は国を憂うる志を持つ人でしたが、身体が大きいわけでも、喧嘩が強いわけでもない。もともと軍人というのなら妻として覚悟もしますが、どうしてわざわざ自分から命を捨てに行くようなことをするのかと……。残される人の気持ちを考えなかったのか、家族などどうでもよくなったのか、わからないんです。今でもあの人の気持ちが。何を考え、思っていたのか」
「あの人の気持ちが知りたかった……。だからブラハム兵のあなたを買った。同じ戦場にいたあなたのことを知れば少しは主人の思いに近づけるかと思った」
「私に答えられることでしたらお答えしますが……。私は亡くなったご主人ではないし、家族がいるわけでもありません。ご期待に沿った答えになるかわかりませんが」
「それはもちろんわかっています。ただひとつだけ、あなたに答えて欲しいことがあります」
冷静にしゃべり続けたクレイアだったが、その言葉の最後だけ語気に棘のようなものがあった。
「ずっと訊けませんでした。訊くのが恐かったから。答えてください……、サラマンド!」
長く胸に溜めこんでいた思いを吐き出すように、クレイアの言葉はうねるように感情を増していく。
「あなたはパルティア兵を殺す瞬間、何を考え、思っていたのか……」
サラマンドはそれを聞いて反射的に後ずさっていた。
顔を上げたクレイアは震えながら真剣な眼差しを向けている。
「兵を殺す瞬間に思うこと、ですか……?」
サラマンドはそう訊き返しながら、頭の中で懸命に最適な言葉を探していた。
どう答えるべきなのか――。
家族を奪われた人の気持ちを汲んで、仕方なかったと言うべきか。自分が生きるのにただ必死だったと答えるか……?
目の前のクレイアは、まるで橋の上から身投げでもしそうな思いつめた表情をしていた。
それを見たサラマンドは、主が決死の思いで訊くのなら、こちらも策を弄さす愚直に答えるべきだと思い至った。
「パルティア兵を殺す瞬間に思うことは……、何も考えないことです。身体の感覚に任せるということです。心を乱さないことです。周囲の敵の意識を受け入れられるよう、努めて心を空にすること。相手の家族のことなどは、何も考えません」
長い沈黙が続いた――。風にかき消され自分の言葉が聞こえなかったのではないか、そう不安になるほどに長い沈黙だった。
「そうですか……」
風に紛れ、かろうじて聞き取れるさざめきのような声が聞こえた。
「そうでしょう、そういうことなんでしょうね……」
そう言ってクレイアが背を向ける。
「クレイア様……」
サラマンドは穏やかな声色を作り慎重に声をかけた。
しかしそれとは裏腹にサラマンドは一歩後ずさる。その背中からなにやら不穏な気配を感じた。
ぴくっとクレイアの肩に力みが走る。何か右手に意識を集中させたように見えた。
「クレイア様、その手に持つ物をしまって下さい……」
クレイアの輪郭が闇に溶け、ゆっくり振り返ったその手には光る物が握られていた。
「そうでなければ私は……」
その姿はまるで幽鬼のようであった。
するすると腕が上がり、ナイフの先をサラマンドに向ける。
照らされた刃の根元から小さく輝く光が見えた。それはサラマンドが小屋に残したあの宝石付きのナイフだった。
クレイアはふらふらと近づいてくる。
明りが照らし出すその顔にはかつての面影はない。虚ろな眼差しに絶望の色が浮かんでいた。
サラマンドにとって、このナイフから身を守るのは難しいことではない。だが、今の均衡を崩すことが恐かった。何かクレイアを刺激し均衡が崩れれば、ナイフの切っ先は容易くクレイア自身の喉に向かうだろう。
サラマンドは気押されていた。いったいどうしたらよいのか。
戦場ならば迷うことなどない。だがここは戦場ではない。何よりもクレイアを殺したくない、傷つけたくもなかった。
サラマンドが半歩下がるとクレイアが一歩踏み出す。また下がるとさらに踏み込む。
次第に二人の間合いは近くなる。
「……クレイア様、おやめ下さい」
鋭い刃物を柔らかい布でくるむように、そんな思いで慎重にサラマンドは声をかけた。
クレイアの虚ろな焦点がサラマンドに定まった。そこに恨みの感情が点火する。
ナイフを持つ右手が強く握り締められた。
それを見ながらサラマンドは思う。
自分はあの戦場でクレイアの主人を殺したのかもしれない。そもそも何人兵を殺したかなど覚えてもいない。
同胞との約束、反乱の成否、どうしても成さねばならぬこと。でも、
この人を殺すわけにはいかない――。
その結論に一片の迷いもなかった。
突如、サラマンドの喉に乾いた笑いが込み上げた。
国を想い、仲間のために捨てるつもりだったこの命、敵兵を数多殺してつないだ命、必死に築いてきたものが、目の前のたった一人の女のために、迷いなく崩し壊せるものだったとは――。
命は惜しくはないが、自分を殺したクレイアが仲間に命を狙われることがなければいいが。
仲間たちが無事にブラハムに帰れればいいが。
天上のアルブラムがこんな自分を許してくれればいいが――。
サラマンドは自嘲する。
迷いなき境地に達すれば悩みからは解放されると思っていた。しかしどうやら迷いはなくとも、悩みとは尽きないものらしい。
クレイアが、この先幸せに生きてくれればいいが……。
サラマンドが最後に願った想いはそんなものだった。
「嘘ですよ。何をやってるんですか」
唐突に緊張の糸は切れた。
クレイアはナイフを鞘に戻すと、そこにいつもと変わらぬ笑みを浮かべていた。
サラマンドは目の前の事態を飲み込めず、いまだ彫像のように固まったままだ。
「女一人にそんなだらしない格好で、本当にあなたは百人殺しの英雄だったのですか?」
クレイアがいたずらっぽく笑う。
「だいたい私は本気であなたを殺すつもりなら、もっと早くに殺していますよ」
ナイフを懐にしまうと、クレイアは胸の前で手を組み、大きく伸びをしてから息を吐いた。
先ほどまでの殺意はどこへ行ったのか。風の中に霧散してしまったのか。その姿はどう見てもいつものクレイアだった。
サラマンドはまだ言葉が出せずにいた。
そこにクレイアは取り出したナイフを突き出す。
もちろん刃は鞘に収まったまま、柄の方を向けていた。
「さあ、帰りましょう。あなたに残された時間は少ないのですから」
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