第11話


 港までの道のりは、万が一にも屋敷の人間に見つからぬよう、街道を避け遠回りして小道を抜けて行った。少し時間はかかったものの、サラマンドはハーンに言われた黄昏時になんとか酒場に着いたのだった。


 酒場は閉まっているようだったが、扉を叩くと裏口に回るよう指示された。


「サラマンドか、入れ」

 わずかに開いた扉の隙間から、マジドの警戒する声が聞こえた。


 中はもうほとんどの仲間が集まっていた。


 二十人余の男たちが黒装束を纏い、なにやら絵図の描かれた羊皮紙を指差しながら声を潜めて話し合っていた。


 サラマンドを見て表情を崩す者もいたが、みな緊張を隠せない様子だった。


「さっそく、おまえには俺から作戦を説明する」

 マジドが固い表情で空いた席に促す。


「船にはおまえも含めて五人、山へは十九人。船の面子は少数だが精鋭を選んだ。俺は山へ行く隊を率いる」


 そのまま細かい作戦を伝達する。人員の配置には問題なく、予想される敵の数も想定内だったが、こちらの武器が足りなかった。剣を持つのは全体の三分の一にも満たない。多くは農具の類である。ただの棒きれを得物とする者もいる。とはいえ、棒一本でも正しく扱えば敵の鋭い斬撃を受け流せるから、ないよりは遥かにましだった。


 その説明の間、さらに二人のブラハム人が加わり、全員がそろって改めて作戦を確認していった。


 と、その時。どんどんと扉を強く叩く音がした。


 場に緊張が走る。


 反射的にサラマンドはわずかに腰を浮かし、即座に動ける体勢を作った。みな息を呑み、扉を注視する。


「すみません、開けてください」


 女の声だった。


「面倒だな……、無視でいいだろう」

 マジドが仲間にだけ聞こえる声で囁く。


「待ってくれ、この声は……」

 よく聞き慣れた声はサラマンドには間違えようもなかった。


「この声は、おれの屋敷の主なんだ」

「おい、まさかこのことを言ってないだろうな」


 疑う仲間の言葉に、サラマンドは強く否定した。


「当たり前だ。誰にも何も言うわけがない」

「この前来たパルティア女か、あまり騒がれるのも厄介だな……。おまえはいないと伝えてくる。念のため奥に隠れていろ」


 そう言ってマジドが立ち上がった。


「どなたかいらっしゃるのでしょう? 声が聞こえますもの!」


 マジドが扉をわずかに開く。


「すみませんがまだ準備中でして」

 商売人の自然な笑顔で答えた。


「サラマンドに会わせてください」

「今は店の者しかいませんが……」

「いいえ、いるはずです。声が聞こえていますよ? なぜあなたは嘘をつくのですか? 納得できる理由がなければ人を呼びます!」


 マジドは舌打ちした。そして扉を開いて言う。


「なら見て確認してくれ」

「ありがとうございます。では」


 男たちはマジドが女を入れたことに驚いた。


「ふうん……。店で働く男たちにしては随分多いですね。それに皆さんおそろいの黒装束とは。サラマンド、いるのでしょう。出てきてください!」


 厨房で屈んでいたサラマンドは観念して姿を現した。


「クレイア様、なぜここへ来たのですか」

「あなたがここにいると思ったからですよ。突然いなくなれば心配して探すに決まっているでしょう」


「そんなことより女、あなたはどこまで話を聞いていたのかな」


 後ろの扉を塞ぐように立ち、マジドがクレイアに訊ねる。静かながらも有無を言わさぬ圧迫感があった。


「石切り場の奴隷たちを解放し、港の船を奪いブラハムへ帰る、と。一パルティア市民として看過できないお話です」


 瞬時に男たちがクレイアを取り囲む。


「さすがたいした身のこなしですね」

「強がるんじゃねえ。あんたが悪いんだぜ。おとなしく引き下がっていれば俺たちだって事を荒立てたくはなかったんだ」

「待ってくれ! その人はおれたちの敵じゃない。おれたちを理解しようとしてくれている人だ。よく話せばわかってもらえる」


 サラマンドは男たちを押しのけマジドの前に立ち、皆の顔を見ながら訴えた。


「サラマンド、帰りますよ」

「……帰れません!」


 サラマンドが主の言葉にここまで強く反発したのはこれが初めてだった。


「サラマンドは俺たちの大切な仲間だ。あんたは知らんのだろうが、あんたの奴隷は百人殺しと呼ばれるブラハム最強の戦士なんだ」


 男たちの中から出たその言葉に、クレイアはひどく驚いた。サラマンドはクレイアの視線を感じながらも目を合わせることはできなかった。


「あんたがこのことを人にらせば俺たちの計画は終わっちまう。ここからは帰せねえ」


 マジドの口調は冷静ながらも凄みがあった。


「クレイア様、ここで聞いたことを決して他言しないと皆に誓って下さい」

「パルティア人の誓いに何の意味がある! 信用できるわけないだろう」

「そもそもサラマンド、おまえ考え違いしているぜ」


 そういって進み出たのは、五年前に妻と子供をパルティアにさらわれたガレーだった。


「誓おうが誓うまいが関係ねえ。この計画が洩れる可能性がある以上、しっかり潰しておかねえと。この作戦は絶対に、絶対に成功させなきゃならないんだ。おまえは家族をさらわれていないからそんな他人事でいられるんだ!」


 その時、金属を擦り合わせる音が辺りに響き渡る。扉の前のマジドが腰の剣を抜いたのだ。クレイアの前に進み出るとその眼前に切っ先を突き付ける。


 サラマンドはすぐさまクレイアを押し出し、両手を広げて間に入った。


「いいんですよ。サラマンド、下がってください」

「いやです」

「下がりなさい! サラマンド」


 サラマンドは脚を踏ん張り、下腹に力を入れた。押されようと引っ張られようと組みつかれようと、絶対にここから動かない、そういう気を込めたのだ。


 しかしサラマンドの肩から首筋に当てられた感触は――。


 あまりに暖かく、あまりに優しく、そこに欠片も敵意を感じとれなかった。


 まったく予想と違った感触に、サラマンドは何も抵抗できず、されるがままに後ろへ崩されてしまった。あまつさえ尻餅までついてしまう。


「見くびるなよ、俺たちをな」


 言い放つマジドに、クレイアはそれでも臆した風も見せず、真正面から見つめ返す。


 そして、なんとクレイアの方から一歩踏み出した。


「見くびっているのはあなたの方ではないですか?」


 頬が切れ、一筋の血が流れる。


 それでも構わずクレイアはマジドのすぐ前まで歩みを進める。


「あんたは……」

 表情を変えるのはマジドの方だった。


「どけよ! 俺がやる」

 大声を張り上げ、手に剣をぶら下げたハーンが躍り出た。


「おい、パルティア女、それで俺たちより優位に立ったつもりか? どんなにおまえが強がったって二十四人の戦士に囲まれていることに変わりはないんだぜ!」


 そのハーンの表情はこの場の誰よりも険しかった。そこには怒りより憎悪の色が濃く見てとれた。


「恨むなよ、サラマンド……」


 まだ立てずにいたサラマンドに一度だけ視線を向ける。


「俺はパルティアの男に買われそこで地獄の苦しみを味わったんだ! そいつはもう冥府に送ってやった。金持ちのあんたには想像もできない苦しみがあるってことを教えてやるよ!」


 ハーンの言葉をクレイアは噛みしめるように聞き、そうですか……、とこぼした。


「それは、それは本当に、お辛かったのですね……」


 その潤んだ憐れみの目が、ハーンの最後の理性を崩壊させた。


 激しく床を蹴る音とともに、ハーンはクレイアに向かって矢のように駆けた。その踏み込み、目付け、勢い、全て確実にクレイアを殺すための動きだった。


 それを目に捉えながらも、それでもサラマンドは動けずにいた。いや動かなかった。首筋にはまだ先ほどのクレイアの暖かい手の感触が残っていた。そこに常人ならざるものを感じていたからだ。


 腰を落として放ったハーンの突きに、飛び込むようにクレイアは動いた。そして

そのまま――。


 ハーンの頭を抱きしめていた。


 剣先は衣を斬り裂き、先端は逸れていた。


 はたから見ると、それはあたかもハーンが自滅しただけのようにも見えた。


 ハーンはその場に崩れ落ち、嗚咽が響く。


「クレイア様、無茶なことを……」


 サラマンドは深く安堵すると、やっと立ち上がり駆け寄った。


 傷は頬だけのようだったが、長衣が脇から背中にかけて裂かれており、そこから垣間見えた背中には、おびただしい数の古傷が刻まれていた。


 絶句したサラマンドだが、すみませんと断って、切れた長衣の端を結んで見えないように肌を隠した。


 そんなことにも気をとめず、クレイアは男たちを前に語りかける。


「この国の法では奴隷に対する虐待は重罪です。誰かに訴えることができれば、この方はそんなに苦しい思いをしなくて済んだのに……」

「もう過ぎたことだ。それよりあんたが修羅場を潜ってきたのはわかったが、俺たちの計画は変わらねえ」


 マジドの言葉に、緩みかけた場の空気が再び緊張する。


「ここでは奴隷だって市民権を買うことができるんですよ」

「たとえそうだとしても、俺たちはパルティア人になる気はねえよ。ブラハム人がブラハムへ帰る。何が問題なのか。勝手に奴隷としてつかまえてきて、奴隷として生きろ、嫌ならパルティア人として生きろと言う。勝手すぎねえか」


「もともとはあなた方が攻めてきたのではないですか」

「もとを返せば、さらわれたブラハム人を連れ戻すために俺たちは攻めてきたんだ。結果あんたたちが勝った。そして無理矢理奴隷として働かせた。だから俺たちは反乱を起こして故郷へ帰る」

「私はそれを阻止するために人に報せる……」

「そう、そして俺たちはそうさせないように、ここであんたを殺す、というわけだ。そうなった以上あんたは逃げるか戦うかだな」


 クレイアの喉元に再び剣が突き付けられた。


「いいえ、言葉であなた方を説得するという道があります」

 毅然としてクレイアが言う。


「無理だ」


「……なぜなら、あなたは本当は私を殺したくないと思っているから」


 そのクレイアの言葉に、核心を突かれたのかマジドは驚き、しばらく言葉を失っていた。


「……。するどいな、そうだ。俺も、ガレーも、そしておそらくハーンもな」

 マジドは親指でハーンを指しながら言う。


「だがあんたにとっちゃあ何の解決にもならない。俺たちは本当は殺したくない。あんたも、山の看守も、船の警備兵もな。だがだからこそ、誰も本当はやりたくないことだから、俺はやるよ。国のため、ブラハムのためにな」


 穏やかな声で、髭面の酒場の店主の顔でそう言った。


「なるほど……」


 今度はクレイアが沈黙する番だった。


「……あなたが本気なのがよくわかりました」


 そこでクレイアは観念したように大きく息を吐く。これまでの余裕だった態度は崩れ、悔しそうに唇を噛んだ。


「私は死ぬわけにはいかない。死以外のことでしたらなんでもやる覚悟でここへ来ましたが……」

「安心しな、なにもしないさ。殺す以外のことはな」


 マジドはそう言って、ブラハムの神々に誓って、とつけ加えた。


「わかりました。ここで聞いたことは他言いたしません。パルティアの神に誓って」

「よし! みんな聞いたな」


 そう言って皆の方を振り返り、マジドは剣を納める。


「おい殺さなくとも、せめて縛って閉じ込めてはおくんだろう?」

 マジドの真意を測りかねるように恐る恐る仲間が訊く。


「いや、このご婦人にはこのまま帰って頂く」

「おい! マジド」

「屋敷の人間が怪しんで探しに来ないとも限らない。その方が厄介だ」

「私は、このことを他言しません。しませんが……」


 そこで言葉を切って、クレイアは手を組みマジドに懇願した。


「あなたたちも本当は人を殺したくないのなら、奴隷を解放し船を奪うとしても、人を殺さないと誓ってもらえませんか?」 


 マジドは目を伏せ、静かに首を振る。


「それは、誓えないな……。誰も殺めずに成し遂げられるほど容易なことではないんだ。だが、極力殺さない努力はしよう。これで納得してもらえまいか」

「……ありがとうございます、感謝します」


 クレイアはブラハム人たちに頭を下げた。


「私の屋敷に数本の剣があります。切れ味は保障できませんが、必要とするならばお渡ししてもいいです」

「そいつは助かる。一、二本でもな」

「ではお持ちしましょう。サラマンド、来てください」

「……わかりました」


 サラマンドは主の声に弾かれたように我に返る。すっかりクレイアとマジドのやり取りに圧倒されていた。


「おいサラマンド、ちゃんと戻ってくるんだよな?」


 そう言って腕をつかむハーンは、戦士の顔つきではなく、かつてのブラハムの村人の顔に戻っていた。


「ああ、必ず戻る」

「サラマンド……」

 マジドがためらいがちに声をかける。


「いや、なんでもねえよ。ほら行きな」

 追い払うように手を振った。


「ではみなさんのご武運をお祈りします」


 最後にもう一度クレイアが深々と頭を下げた。


 二人が店を出ると辺りはすっかり暗くなっていた。空気は異様に生ぬるく、時折、轟音とともに突風が吹き抜けた。月も星明かりもない漆黒の闇のなか、馬車に掛けられた大きく揺れるランタンの明かりに向かって歩いてゆく。


 長い夜になりそうだと今夜のことに思いを馳せながら、サラマンドは酒場での主の勇敢さを思い出していた。


 いったい何者なのだろう。ハーンの剣をかわす動きは、特別な訓練もしてない普通の人間の動きだった。そして一瞬見えたあの無数の傷は――。


 サラマンドは釈然としない様々な想いを抱えながら、その小さな後ろ姿を追うのだった。

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