第10話


「そうですか、ブラハムでは世界をそういうものだと思っているんですか」


 昼のひと時、クレイアとの他愛のない会話が続く。


 港の酒場に行ってから、クレイアはサラマンドと議論をすることは少なくなった。


「ブラハムは遅れていますねえ」

 あー面白いと、目じりの涙を拭いながらクレイアは声を殺してけとけと笑う。


 語るべきことは語り尽くし、ブラハムの思想についてはもう飽きたのだとサラマンドは思っていた。


「世界の端が断崖になっているのなら、海の水はなくなってしまうではないですか」

「あくまで千年前の物語ではそうなっているということです。みながそれを信じているわけではありません」

 むっとしてサラマンドが答える。


「このまえ議場で聞いた、太陽の周りをこの世界も含めた星々が回っているというのは信じられないですか?」

「悔しいですが、たしかに説得力はあると感じました。それだと日蝕や月蝕を説明できますからね」


 それを聞きながら、クレイアは卓上の地球儀を独楽のようにくるくる回す。こういうところを見ると実に子供っぽいなとサラマンドは思う。


 先日、クレイアと大広場の議場で世界の仕組みと成り立ちの議論を聞いてきたのだ。


「パルティアにも昔千年続いた王国があって、その物語では世界は半球だと信じていたそうですけどね」


「……ところで、クレイア様は千年続く王国は今の時代あり得ると思いますか?」


 ふと思った疑問をぶつけてみた。ここにはもう長くはいられない。聞きたいことは今のうちに聞いておきたかった。


「……それは、実に興味深いですね」


 クレイアは身を乗り出してきた。どうやら久しぶりに議論好きの血が騒いだようだ。


「パルティアは建国四百二十五年です」

「ブラハムは三百年余と言われています」

「あと六百年続くかと言われると、戦を続けていればいつか滅んでしまうように思います。国が滅びるのは戦によるか、いくつかの小国に分かれ消滅することもありますから。それに大国アガルフルスが本気で攻めてきたらパルティアなどひとたまりもありませんし」


「奴隷制度についてはどう思われますか? 奴隷はパルティアに繁栄をもたらすのか、滅びを早めるのか」


 クレイアは少し驚いた表情を見せ、「いえ他意はないのですが」とサラマンドは慌ててつけ加えた。


「私は、奴隷にはみな市民権を与えるべきだと思います。人は人、それ以上でも以下でもない。奴隷の反乱によって国が滅びることもあるかもしれませんね。私は、あなたを同じ人間と思って接していますよ?」


 クレイアは少し照れくさそうな、さびしそうな顔をしていた。


「すみません、話が逸れたようで……」

 気まずく感じたサラマンドは努めて冷静に話を戻す。


「えー、国を、民を守るためには強い軍が必要です」

「そうですね。それはその通りだと思います」

「強い軍であるためには、最近の戦を分析し、戦術、武具も改良していかなくてはならない」

「異論はありませんね」

 そう言いながらもクレイアの顔が曇る。


「そして兵士には国を守るための、命を捨てる勇気がなければならない。高い戦の技術がなくてはならない。そのためには、適度に戦をしていなければならない」

「っ! それはおかしくありませんか? 戦場に立たなければ勇敢ではありえないと?」


 猛然とクレイアが食ってかかる。


「そんなことはないはずです。戦場は兵士が本領を発揮するところ。そのためには普段の訓練こそが大事なのではないですか?」

「人間誰もが死にたくはないもの。おそらく百年戦をしなければ、その勇気は失われてしまうと思います。死を恐れぬ者、国のために命を懸けて戦う者、それを見て知っているから若い兵に勇気が備わる」

「戦をすれば、命が失われるではないですか! 千年続く国とは他国を力で屈服し続ける国ということですか? 弱い者が死んで強い者が生き残ると、それが強い国だと?」


 クレイアの勢いは止まらない。


「サラマンド、あなただって優秀なブラハムの戦士のはず。あなたの勇気が戦をしないことで失われるとは思いません。勇気は教育だと。平時の訓練で養われるはずのものです」

「もうやめましょう。戦の話は……」


 サラマンド自身、はっきりした結論の出てない問題だった。


 戦によって弱い者は死に、強い者が生き残る。そうやってできた強い国が千年栄える――。戦を繰り返せばそうなりそうなものだが、戦場を駆け抜けたサラマンドの実感はそうではなかった。むしろ強い者が死んで弱い者が生き残るのではないかと。だからクレイアの言い分もよくわかる。


 しかし戦士として戦場を避けるわけにはいかない。死ぬことを怖れるようになったら終わりだと思っている。そこが未だにわからないのだ――。




 ハーンからの連絡はまだない。いつ来るのか。遠くないうちに、いずれ必ず来る。それはブラハムの戦士なら待ち遠しいはずなのに、サラマンドには何か心残りがあった。


 まだ帰りたくない。このパルティアを離れたくない。


 いやそもそもこれは成功するかも怪しい計画だ。ブラハムに帰れず命を落とすかもしれない。


 自分は死を恐れているのだろうか。死は戦士の誇りのはずなのに。そうであれば戦士としてもう終わりということになる。


 サラマンドは頭の整理がつかなかったが、そんなサラマンドの答えを待たずしてその日が来てしまった――。




 ある夜のこと。ふとサラマンドは目を覚ました。その瞬間、ついにこの日が来たのだと確信した。


 足音が近づいてくる。忍ぶ様子はまったくなく、迷いなくこの馬小屋へ向かってくる。


「サラマンド、いるな?」

「ああ、その日が来たってことでいいんだな?」


 その返答の速さに、闇に佇む影が当惑しているようだった。


「もう、ふっきれたみたいだな」


 そう言って姿を見せたハーンは黒装束に身を包み、精悍な戦士の顔つきになっていた。


「では、明日の黄昏時、マジドの酒場へ来てくれ。以上だ」

 軽く息を切らしたハーンが短く伝える。


「俺は今夜中に全員のところへ回らなきゃならない。もう行くぜ。……頼りにしてるぞ、サラマンド」


 そう言い残すやハーンは闇に溶けていった。


 明日の夕暮れ、ここのブラハムの奴隷が一斉にいなくなるわけか……。


 そんなことを考えながら、戦士としての自分の身体はすでに一つの結論を出していた。


 血が騒いでいる――。


 ハーンが先ほど見抜いた通り、どんなに頭が迷っていても自分は戦士だったらしい。今すぐにでも戦えそうな気力が全身にみなぎっている。足首の傷もとうに問題ない、かつての戦場のように動ける自信があった。ひとつ頭を悩ませるのは、最後にクレイアに何と言うべきなのか、ということだった。




 翌日、サラマンドはいつもと変わることなく屋敷の仕事をしていた。結局クレイアへの別れを切り出すことはできず、昼食時もただその無邪気な笑顔を眺め、その他愛ない話を聞くだけだった。


 午後になって日が陰り、湿った空気が漂ってくる。春の嵐を予感させるようであった。これで星明りを遮ってくれるなら、決行には文句なしだった。


 ――しかし、突然出ていくのはやはり不義理だろうか。


 サラマンドはまだ自問していた。


 いや何を悩むことがある。拾ってもらい、よくしてもらった恩は労働という形でとうに報いているではないか。そもそも人間の売買そのものがパルティアの勝手な取り決めだ。


 サラマンドは懸命に立ち去る理由を絞り出していた。


 最後にずっと寝泊まりした馬小屋をこれ以上ないほどきれいに掃除し、二頭の相棒の首を撫でてやった。


 そして目につくところにナイフを置いた。クレイアに市場で買ってもらった、宝石の埋め込まれたあのナイフだった。せめてここに自分の感謝の気持ちを感じとってもらえれば。そう祈って小屋を出る。


 サラマンドは屋敷に深く一礼し、誰にも気づかれぬよう、悟られぬよう。想いだけをその場に残し、音もなく屋敷から消え去った――。

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