第4話 悔恨

あのときその背を見なければ。

あのときもう一歩足を踏み出せていれば。

あのとき、手を握り続けていれば。


俺の人生は、「あのとき」がたくさんある。


「桂木!」


澄んだ鋭い声が耳を貫いて、はっと足を止める。しまったと思って振り返ると、珍しく息の上がっている奈良坂が俺をまっすぐ見据えてにらんでいる。


「ペース合わせろって最初に言うたよな」

「いや、えー…すまんかった」

「どうせ考え事しながら走っとったんやろ。考え事しながら走れるほどあんた器用ちゃうで」


ぐうの音も出ないほどの正論に苦笑いがこぼれる。確かに、昔から考え事をしながら何かをするとろくなことにならない。その度に助けてくれるのは奈良坂と、最近なら空真だ。

奈良坂が俺の隣にたどりついたのを確認して、再び走り出す。小さく細い息遣いが耳に届いた。


「最近、どうなん、練習」

「んー、まぁまぁやなぁ。沖先輩中心にモチベーション上がってきてるし、空真の調子もええし」

「あかんのは自分だけ、か?」


本当に奈良坂は超能力でも使えるのだろうか。それとも千里眼を持ってるとか。

そういうくだらないことをいうと彼女の機嫌を損ねてしまうということはもう学習済みだ。なんだかんだ付き合いは長いのだから。


人との間に壁を感じるという表現がわかる人はどれほどいるだろうか。俺はその壁を感じることが多い。その度に周りには「それはお前が勝手に作ってるもんだ」と言われる。それは、絶対に違う。主観というものは大方正しい。というよりも、主観というものはそもそも本人にとって絶対的なものだ。本人が壁があると感じているならそこに壁はあるし、それを壊すことはそう簡単なことではない。

それはつまり、敵は自分であることの裏返しなのだから。


俺にとっての壁は、ただ一人。物理的にも心理的にも越えられない、壊すこともできない、傷つけることすらできない、壁。


「真部倉さんのことを意識しすぎなんは自分でもわかってんねん。でももう時間がない。ジュニア予選、国体予選が終わったらあとはインターハイ予選。負けられへんねん。俺は、」


1年の秋から、ポイントゲッターに指名された。事実上のエース。団体戦でもある程度の貢献ができたと思う。個人も絶対に表彰台に上がっている。それでも、満足も慢心もできない。自信にもならない。

あの人に勝たない限り。


「相変わらず視野の狭い柔道生活送ってんな、お前」

「おっしゃる通りで。返す言葉もないわ」


頭でっかちだとか、思考が偏ってるだとか、散々言われてきた。

それでも、ダメなんだ。俺は勝たなければいけない。あの人の柔道に魅せられた俺だから。憧れた瞬間に、俺の壁になった人。憧憬を覚えた瞬間勝てなくなった、高い強い壁。憧れと後悔が表裏一体だなんて、おかしな話だ。


いや、たぶん、おかしなことでもない。だって、それは一度ではなかった。


「その不器用なとこ、ほんま変わらんな」


憧れた。うつむきながらも立ち上がることをあきらめなかった少女の後ろ姿に。

憧れた。美しく強くたたずむ、王者の背中に。


悔恨を覚えた。その後ろ姿が虚像だと気づかなかった自分に。

後悔した。その背中を追いかけるあまり多くのものを傷つけたことを。


それらすべてをわかった上で、俺を不器用だと言い、笑う少女の優しさに、俺は救われている。ずっと。


「ほんまに、な。だからか知らんけど、後悔ばっかりや」

「別にええんちゃう、後悔しても。後悔することで気づけることがあるんやったら、それもありなんちゃうんかって私は思うけど」


一定のリズムの息遣いが隣から聞こえる。乱れることのない、定まったもの。

後悔して気づいた。その背中を越えなければ俺は次に行けないと。

後悔して、気づいた。俺にとって彼女は、失うことのできない人だと。


いつだって、奈良坂は正しい。


「お前はほんまに間違ったこと言わんなぁ。さすがやわ」

「私自身は、間違ってばっかりや。お前が一番知っとるやろ、桂木」


その言葉に、中学時代の奈良坂の姿がよぎる。泣いて地に崩れ落ちた彼女の肩がずっと震えていた。絶望に打ちひしがれる少女は、間違った末にもう一度立ち上がった。そして今、俺の隣で同じペースを走っている。


「それこそお前の言うた後悔してもええってことやろ。お前は気づいたやん」

「…やから言うたに決まっとるやろ。置いてくぞ」


すっとペースを上げた奈良坂の後ろ姿を見て苦笑いをこぼす。きっと眉間にしわを寄せて険しい顔をしているのだろう。意外と照れ屋なところも、もう知り尽くしている。


あのときにばかり目を向けて、「いま」に背を向けている。

そろそろだ。もう、前を向く日は、すぐそこにきている。


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その日を待っていた。 才波志希 @haruka1248

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