第3話 涙跡

涙が落ちる速度っていったいどれくらいだろう、畳に落ちる涙の数はどれくらいだろう。ひたすらそんなことを考えていた時期がある。

うつむいた視界には、畳しか映らなくて。顔を上げてしまえば現実が姿を現す。だから、ずっと下を向いていた。直せと言われても、直らなかった。


こずえに偉そうなことを言った内容そのまま昔の自分に聞かせてやりたいところだ。笑われるに違いない。あるいは、猛烈な怒声をあびることになるかもしれない。どちらかというと前者の方が可能性としては高いが、後者も否めない。

怪我は選手を焦らせる。ライバルが、仲間が、先に進んでいく姿を遠巻きに眺めているというのは、周囲が思っている以上に精神を消耗するものだ。そして私に関しては、自分自身をも裏切ることになってしまうかもしれない恐怖に、ただただおびえていた。


「だいぶ腰の調子ええな。ストレッチとトレーニングは指示通りやってるみたいでよかったわ」

「あんなこっぴどく怒られてせんわけにはいかんでしょう。さすがの私も学習ぐらいします」

「まぁ泉水ちゃんは頭ええからなぁ。将史も見習ってほしいところや」

「あいつは地頭いいのに勉強せんからでしょう。それに、あいつに正論ぶちかまされるまで気づくこともできんかった私の方が、よっぽどアホですよ」


そう。心の腐敗に耐えられず、現実を拒絶した私に喝を入れたのは、私の主治医の先生の息子である桂木将史。中学柔道部唯一の同期で、現在は府内の強豪、名教高校の柔道部で二年生にしてポイントゲッターを務めている。

根が真面目な一本気のあるやつだが、いかんせんマイペースで周辺をボケの渦に巻き込んでは突っ込みの嵐を受けるような男だ。だが芯が通っていて言葉に説得力がある。だからか、桂木が主将になってからのチームは、ひどく心地よかったことを覚えている。


「泉水ちゃんみたいに真面目で一生懸命な子ほど追い込まれる。それは将史もよくわかっとった。だからこそほっとけへんかったんやろ」


私を真面目だと、一生懸命だと。そう形容する言葉は散々聞いてきた。そんなものは嘘だと、心は拒絶していた。この程度の努力、全国や世界で戦う人間はこなしているものだ。毎日積み上げること。ひとつでも多く増やすこと。それを怠った者から脱落していく。勉強でも柔道でもなんでも、そう。

それに、私よりも貪欲で努力している人間を、知っている。


「波奈は私を真面目とは言いませんでしたよ」

「へぇ、ほな波奈ちゃんなんて言うとったんや」

「『しっかり者』やって」


『泉水ちゃんしっかり者やなぁ。毎日決まったことぐるぐる繰り返しできるってそれだけですごいことやと思うねんなぁ』


恐らく波奈の語彙力の乏しさのせいもあるだろうが、彼女は本心からそう言っている。毎日柔道をして、家事をして、勉強をして、寝る。ただそれだけ。けれどそれを「それだけ」ではないと教えてくれたのは、波奈だ。


「努力ってのは継続が難しいんや。泉水ちゃんがただ努力をしてるだけやったら先生も将史もなんとも言わんけど、泉水ちゃんはそれができる。だからすごいて言うてるんやで」

「うん、ありがとうございます。…けど、波奈見とったら私なんてほんまにまだまだやなって思うんですよ」


一生懸命とは、一生や命を懸けることだと思っている。私は一生を柔道に捧げることはできない。他にもやらなければいけないことがあるからだ。だからこそ今できることすべてをやっているにすぎない。しかし、波奈は違う。正真正銘、一生と命を懸けて柔道と付き合っていく気だ。

波奈は、柔道の神様に愛されてる。それはきっと。


「波奈は柔道を愛してて、柔道の神様にも愛されてる。それが私との違いです」

「確かに、それはそうかもしれんな。でも泉水ちゃんかて柔道の神様ついとるやろ」

「さぁどうですかね。でも、そうですね。いるとしたら…」


私にとっての柔道の神様は、波奈だ。私に居場所をくれた、神様。

畳の上には居場所がなかった。だから消えようとした。でもそこから離してくれなかったのは桂木。そして、そこに現れたのが、波奈。


「親父新しいテーピングほしいねんけど、って奈良坂、来とったんか」


診察室の奥から顔を出したのは桂木だった。相変わらずの間抜け面に気が抜ける。でも、安心する。


「あんたが帰ってくるはるか前からな。おかえり」

「ただいま。久々に奈良坂からおかえりとか言われた気がするわ。ついでやし、ランニング行かんか?もう嫌やったらええけど」

「今日の分まだ行ってへんし行くわ。その代わりペース考えてや」

「当たり前や。その配慮ぐらいできる」


着替えとってくるわ、と再び奥に引っ込んだ桂木の背中を見送る。先生が、くつくつと笑っていた。


「相変わらずせわしないなぁ将史のやつ」

「それがあいつですから」

「せやな。ほどほどに付き合ったってくれ」

「はい。では、ありがとうございました」


診察室を出て待合室の椅子に腰かける。腰は良好。こずえのリハビリも順調。波奈も試合に向けてピークの調整を始めた。問題はない。ないはずだ。

思考の海に飲み込まれそうになって、小さく首を振る。考えすぎると頭の切り替えができなくなる。頭を切り替えるタイムラグというのは意外ともったいないと最近気づいた。今は、考えない。


「お待たせ奈良坂。行こか」

「うん」


この時間は、昔から嫌いではないのだ。考えてばかりでは、もったいない。

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