第2話 破片
今でも夢に見る瞬間がある。
病院のベッドの上で、かすれた視界に映る包帯にぐるぐる巻きにされた両足。
うまく機能しない聴覚が拾う、母の泣き声。
私が曖昧に笑う度泣きそうな顔をする年上の女の子と、怒ったように顔をゆがめる同い年の幼馴染。
私の手を離し、背を向けて消えていった仲間。
夢に見る度、私は何度目かわからない涙を流す。
そんなことを回想しているうちに、また寝てしまっていたようだった。壁にもたれて眠っていたため少し首が痛い。目をこすりながら姿勢を正すと、じわじわと意識が覚醒してきて現在の状況を思い出す。今は病院で、確か泉水さんが私の主治医の先生と話し終わるのを待っていたんだ。
時間を確認しようとスマホを取り出すと、何件かのLINEがきていた。上から波奈ちゃん、お母さんと並んでいて、一番最後に表示された人物の名前に目を見開いた。
近本愛羽(ちかもとあいは)。幼馴染で、もうかなり長い付き合いになる。将来のオリンピック選手候補で、私たちの世代では最強と言われる人間。不愛想で不器用だが、とてもストイックで優しい子だ。
トークを開くと、「さつきに会った。また強くなってた」という一言と、さつきちゃんと愛羽のツーショットが添付されていた。小さく笑う愛羽とにこにこ笑うさつきちゃん。二人とも汗だくで髪は額に張り付いている。合宿の終わりにでも撮ったのだろう。二人が話している姿を想像して笑みがこぼれる。
篤嶋(あつしま)さつきちゃんは、私と愛羽が通っていた道場である宝令(ほうりょう)道場のふたつ年上の先輩で、今は日本屈指の柔道名門校でポイントゲッターとして活躍している。柔道に対して真面目でときに厳しいが、普段はとても温厚で明るく面白い人だ。昨年のインターハイチャンピオンで、今年は連覇を期待されているという。
楽しそうやね、私も、と打ったところで指が止まる。私は今なんと打とうとしていただろう。私も、
「そこで会いたかったな、とか」
入力済みの文章をすべてデリートしてスマホを額に当てる。
泉水さんや波奈ちゃんと出会って、三人で前に進むと決めたけれど、その決意が一番緩いのは私なのかもしれない。いや、たぶんそうだ。
もう柔道はできない。だから私は同じ舞台で会うことはできない。同じように畳の上には上がれない。その現実はとっくの昔に受け入れたはずだったのに。
待ち受けにしている3年前の栄光。さつきちゃんや愛羽たちと笑ってメダルを掲げている私には、もう二度と会えないというのに。
「こずえ」
透き通った、凛とした声によって現実に引き戻される。ゆっくり顔を上げると、無表情の泉水さんが私をじっと見ていた。
「泉水、さん。お話終わったんですか」
「ああ。経過は良好、リハビリは病院と並行して学校でできるやつも教えてもらった。またあとでメニュー組も」
ほな帰ろか。
泉水さんの一言にうなずき、車輪に手をかける。すると力を入れる前にすっと動き出して、泉水さんが押してくれているんだなと気づく。
「すみません、ありがとうございます」
「ええよ、これくらい」
泉水さんは声のトーンがあまり変わらず表情の変化もあまりないから考えていることがよくわからないが、嫌々やっている風にも見えない。この人は本当に優しい人なのだろうなと、こういうときに思わされる。
駅までの道のりは静かだ。悪い静けさではない。心地よい沈黙だ。今日も何も話すことなく別れるのだろうと思っていたら、耳通りの良い声が耳に滑り込んできた。
「さっきさつきからLINEきたわ」
「さつきちゃんからですか?」
「合宿やっと終わったって。近本とも会ったって写真まで添付されてた」
泉水さんとさつきちゃんは柔道とは別のルートで知り合って仲良くなったらしい。それで偶然にもお互い柔道をしていたということで、さらによく話すようになったとさつきちゃん本人から聞いた。だからかもしれないが、さつきちゃんは私が泉水さんに誘われて桜谷に進学することに何の意見もせず、むしろ勧めてくれていた。
『泉水がおるんやったら安心やわ。何より、泉水はこずえと似てるからな。そういう意味ではこずえにもプラスになるもんがあると思うで』
どういう意味合いでそう言ったのかはわからないが、少なくとも私と泉水さんが似てるとは微塵も思えない。意志がはっきりしていて、核となるものを持っている。そんな人と私が似ているなんて、そんな。
「リハビリの調子どうや?」
「ぼちぼちですかね。2年もやってたらさすがに慣れてきましたけど」
「そうか。焦燥感とか劣等感とかでじれったいのが難儀なとこやけど、まぁ、そんな時期とっくに過ぎたか」
「私にそういう時期があったって、なんで知ってるんですか」
「そういうやつが身近におってな。そいつもめっちゃ焦って、自滅して、あほみたいに怒られて学習したけど。前できてたことが急にできひんくなるってのは、案外きついもんやし」
身近な人、と他人のことのように言っているが、やけに実感がこもっているように感じた。気のせいかもしれないけど。
心の傷跡の破片は、気づかぬうちにその辺に散らばっていたりする。ふとした瞬間にそれを踏んでしまって、また足に小さな傷を作る。すぐに治って何食わぬ顔で明日を目指す。その繰り返し。その繰り返しで心は摩耗し、疲れ腐っていく。
「私は我慢は得意な方なんで、もう全然大丈夫ですよ」
「さすがやな。私は我慢はそんな得意ちゃうから、すぐあかんくなる」
「泉水さんがですか?」
「そうは見えんて?」
「そりゃ、まぁ」
「…ずっとおんなじことが続いたら、さすがに疲れるやろ」
彼女はきっと落ちた欠片を拾って拾って、全部どこかにしまっているのだ。いつか誰かの心を埋めるために。時には自分自身だって。なんとなく、そんな気がした。それをわかっていたから、さつきちゃんはあんなことを言ったのだろうか。
「心配せんでええっていうたらきれいごとになるから言わんけど、大丈夫やで。そのうち、自分でもわかるぐらいぱっと明るくなる瞬間があるから」
「そんなもんですか?」
「そんなもん」
そっと見上げた泉水さんの表情は、柔らかく、優しかった。
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