その日を待っていた。
才波志希
第1話 桜
たとえるならそれは、沈むこと。
海底へと落ちるように、沈んでいく感覚。あのときの私の気持ちを言い表すなら、それが一番わかりやすいのではないだろうか。息ができず、もがくこともできず、ただただ底へと落ちていく感覚。当時ネガティブを極めていた私はもう落ちていくだけだった。ポジティブの戻った今となっては、沈めば浮上するだけ、なんて調子のいいことが言える。昔の私にそれを言ったら殺されそうだなと思いながら、目を開く。
そこには視界いっぱいのピンク色が散らばっていた。風が私の髪をピンクの渦へと引き込もうとするので、させまいと手で髪をおさえた。
今日は花見日和だからと波奈ちゃんの提案で道場での花見大会が企画されたが、多分本人は私を待たずにお菓子を食べているか寝ているだろうなと手櫛で髪をとかしながら思う。目的地を目指して進む道すがらも桜は散っている。このペースだと来週にはもう全部散ってしまう。美しいものは儚いとはよく言ったものだ。逆もまた然り。むしろその方が当たっているのかもしれない。事実、愛羽の涙は美しかった。
やっとの思いで道場にたどり着くと、裏側から愉快な笑い声が聞こえた。道場の裏側は大開の扉があって、そこから見える桜の木々はなかなかのものだ。だからこそ花見をしようということになったのだが。あの笑い声を聞く限り、波奈ちゃんはとっくに花見を始めているのだろう。マイペースがすぎるのもどうかと思うが、いつものことなのでため息しかでない。
裏に回ると、そこでは案の定波奈ちゃんがいて、おはぎ片手に笑っていた。その隣では泉水さんがお茶をすすっている。私に気づいた波奈ちゃんはぶんぶん手を振って私を呼ぶ。
「こずえー!予定よりえらいはよ着いたんやなぁ。まだ言うてた時間の1時間前やで」
「リハビリが思てたよりはよ終わってん。というか波奈ちゃんの笑い声表まで聞こえとったで。相変わらず元気やな」
「元気元気ー。午前のトレーニングも終わってもうたから今日はもう解放感しかないわー」
残りのおはぎを口に放り込んで咀嚼する姿はリスを思い浮かべていただければ相違はないだろう。その様が面白くて思わず笑ってしまう。
香橋波奈という人間は、天真爛漫とか天衣無縫とか、そういう明るく前向きで純粋な言葉が似合う。マイペースすぎてこちらが困る部分はあるが、その底抜けな明るさに助けられる部分もある。きっと私も、隣で静かにたたずむ彼女も。
「明日から午後練やから忘れたらあかんで。スケジュールに書いときや」
「わかってるってー。もう書いてあんで」
「せやったらええけど。こずえにもあとで明日以降のスケジュール送るわ」
波奈ちゃんをうまいことコントロールしているのは、この部の主将である奈良坂泉水さん。波奈ちゃんとは小学生のときからの付き合いらしく、波奈ちゃんは気軽にため口で話し、「泉水ちゃん」と呼ぶ。
才色兼備という言葉の似あう人で、勉強もできる、おまけに気も回る。さらに美人。文句の付け所がなく、たまに辛辣なところもあるがそれがある種のギャップとなって一部界隈では人気を博しているそうだ。
太陽と月のように真反対な二人の共通点は「柔道」だけだ。だがその共通点が二人にとって大きいものだ。現に泉水さんが創部した柔道部に入ることだけを目的に波奈ちゃんは桜谷(おうや)高校に入学した。偏差値はかなり足りてなかったが合格したという話から相当な執念がうかがえる。
かくいう私も、泉水さんに声をかけられて桜谷高校に入学した。選手でいられなくなって腐ってしまった私に、救いの手を差し伸べてくれた。そのときのことを思い出して無意識に自分の太ももを撫でた。
事故による下半身不随、競技復帰は不可能。その烙印を押されたとき、私は正気を保てなかった。そこから地獄のようなリハビリ生活を送り、ここまで生きてきた。事故にあった中学1年から数えてもう3年経とうとしている。
「はよ試合出たいなぁ。一番早い団体っていつやったっけ」
「春季総体。それまでにある程度仕上げんで」
「わかっとるって。楽しみやなぁ、なぁこずえ」
「そうやね。私も、楽しみや」
選手として参加できない大会に帯同するのは初めてだ。でも、そんなの嫌だと思わない。それもきっとこの二人のおかげだろう。
「こずえも食べや。はよせなこいつが全部食べよんで」
「やって泉水ちゃんの手作りおはぎおいしいんやもん。ほら、こずえも」
渡されたおはぎを受け取り、一口食べる。上品な甘さが口の中に広がる。確かに、おいしい。好きな味だ。
こんな穏やかで優しい時間がこれから続く。それがひどく、酷く素晴らしいことのように思う。
桜が舞う。この時間まで攫われてしまうような気がして、目を閉じながら風がやむことを願った。
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