第10話 この涙が涸れたら
とにかく早く引越しをしようとなって、黎が物件を探してくれる。今度のところは驚くほど家賃が高いけれど、通勤時間は15分。「自転車で通おうかなぁ」と黎は言っている。
ダブルベッドはふたりで選んで買った。寝具も、真新しいものを揃えた。
わたしはすきなだけ彼の胸に顔を埋めて寝られるようになった。そうすると、漠然とした不安がどこかにふわふわと消えていくような気がした。
たまに夜に目が覚めてしまっても、彼の長いまつ毛がそっと開いて、「どうしたの?」と聞いてくれる。わたしは、「なんでもないの」と答える。
「赤ちゃん、動く?」
「まだ蹴ったりしなよ。あ、でも病院のエコーで見たら、くるくる泳いでた。活発だったよ」
「うそ! オレ、次の検診、絶対行く! 豆粒みたいでもオレの子供だし」
「仕事と重ならなかったらね」
年末の騒々しい街並みを歩くことは、今年は許されなかった。みんなが口をそろえて、「風邪をひくから」という。もうすぐ安定期なのになぁ。仕方が無いので、マスクをしてもちろんローヒールの靴を履いて、病院に行った帰りだった。
ふと、見慣れた横顔に、何もかも忘れてすがるように走り出す。何も考えられなくなる。
「巧!」
誰かに呼ばれたことに気がついたのか、巧はキョロキョロしていた。大きく手を振る。
「巧! ここ!」
人混みをかき分けて巧がわたしに会いに来る。これこそ、叶わないはずのサンタさんからのプレゼントだ。
「瑠宇!」
巧は走ってきたので、息が切れてすぐにしゃべれずにいた。わたしは彼の呼吸が整うのを、じっと待った。
「瑠宇、どうしてこんなところに?」
「あー……、実は妊娠したの。で、今日は検診だから病院に行ったの」
重苦しい沈黙が訪れる。
目を合わせるのが辛い。
「この前は……何も言わないで、消えてごめん」
「学校に行けば会えることはわかってたのに、行かなくてごめん」
「……」
「瑠宇、妊娠てさ」
「大丈夫、あの、子供作ろうって避妊、しなかったの。だから……」
わたしは前髪のくせを直すようなふりをした。なんて居心地が悪いんだろう。
「そっか、本当に夫婦なんだなぁ、黎と瑠宇は。適わないよ」
「あのとき……」
「あのとき黎になんて言われたかって? 『お前、瑠宇の全部背負える? オレは背負うよ。お前はもしばっかりで現実味ないんだよ。奪おうと思うなら、瑠宇の全部を背負える準備してから来いよ 』だって。何も言えないっていうか……気力負け」
「ごめん、巧……本当にずっとすきだった、すごく。別れたら死ぬほど泣くと思った。でも、ごめんね、帰る。わたしは帰るところがやっぱりあるの」
適わないのはわたしも一緒だ。いつだって、黎が一歩先を進んでしまう。わたしのために就職して、住居も決めてくれて、そして誰よりもわたしが大切だって言ってくれる……。
「瑠宇!」
あ、転ぶ。
交差点の真ん中で転ぶなんて、ほんとにわたしはアホだ。不意に、お腹を庇う。こんなお母さんなんて嫌っちゃうよなあ、と思う。
すんでのところで、巧が腕を出して抱きとめてくれる。
「赤ちゃん……」
「大事にしろよ、一人の体じゃないだろう? 瑠宇の子供だから、俺の目の前で転んで流産とか勘弁してくれよな……」
いつもより彼の口調は弱々しかった。
わたしが見ていなかった間に、彼は少し、変わってしまったのかもしれない。
抱きとめられた姿勢のまま、ふたりとも動けずにいる。今、別れたら……もう会えないかもしれない。
「……今からでも奪ってくれる? もれなく子持ちだけど」
「……黎みたいにはできないよ。あいつ、全部、瑠宇のためだもん」
「冗談。もうみんなで苦しむことはないと思うんだぁ」
空の色が、低く鈍い灰色になって下りてきた。
「雪が降りそうな天気だな」
「そう言えば冷えるね」
ふたりでどこかに入るでもなく、空をぼんやりと見上げていた。空なんか、見ていなかった。目には入らなくても、お互いの心を見ていた。
「瑠宇はそそっかしいから、今度からタクシー横付で通院すること」
「はーい」
「ほら、タクシー捕まえてやるから」
巧が手を取った瞬間、わたしの両頬につーっと涙の跡が残った。
「さよなら、なのかな?」
「なんだよ、出産祝い、考えておけよ」
「うん……」
わたしはうつむいて本格的に泣いてしまって、首都圏では珍しい雪がちらついてきたことに気がつかなかった。巧の胸にすがりついて、わんわん泣いた。この涙が涸れたら、きっともう、彼とは二度と会わないことはわかっていた。
好きで大切な人 月波結 @musubi-me
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