第9話 帰ってくるところ

瑠宇るう!」

 走らないでください、と言われながらわたしの王子様は現れた。白馬は置いてきたらしい。

「瑠宇、ごめん。ほんとごめん。怖かったでしょう? 救急車」

「瑠宇は救急車の中で意識が混濁してたから、ほとんど覚えてないよ」

 れいは口を開けたまま、事を理解しようと努めていた。


「……また世話になって、ごめん」

「今回は俺に責任があるからいいんだ」

「責任て……?」

千寿ちずと別れたら、あいつ、瑠宇を呼び出してあれこれ言ったらしいんだよ。……瑠宇には関係ないのに」


 黎は巧を引きずるようにして、病室を出て行った。ふたりに何も無ければいいと思いながらも、わたしは点滴と酸素マスクをつけられて、とても行けそうになかった。

 戻ってきたのは黎ひとりだった。

「話は済んだよ」

 覚悟を決めて、こくん、とうなずいた。


「言いたいことがないわけじゃないんだ。でも言わない。心の中で自分るうを責めて。それから……オレのそばを一生離れないって誓って」

 いろいろなことが頭を渦巻いた。

 黎は、たったそれだけでわたしを赦してしまうのかしら?

 黎の気持ちも聞かせてくるないのかしら?

 いつの間にか、夫の気持ちがわからない。

「検査入院だって。完全看護だってから、看護士さんに捕まる前に帰るね。みんな忘れて、よく寝て」


 翌朝、巧は来なかった。

 連絡しても既読無視のままだった。


 黎は退院するために有休を取ってくれた。何も無かったかのように、いつも通り、紳士的で優しい。

「帰ろうか?」

 うん、とうなずいてタクシー乗り場に向かう。


 でも、どうしても……。

「聞かないの?」

「聞かれたいの?」

「……」

 膝の上に置いたバッグを握り直す。この人の優しさにどっぷり浸かってしまったら、一生、嘘をつかなきゃならなくなる。覚悟を決める。


「巧のこと、聞かないの?」

「聞かないよ。瑠宇の方が聞きたいんじゃないの? 巧の話」

「え?」

 黎は窓の外を見るでもなく、視線だけを窓に移していた。端正な横顔が、ガラスに映って見える。


「ただのセフレなの? オレじゃ足りなかった?」

「そんなことないよ。……セフレ、でもない」

「だよなぁ、巧はずっと瑠宇がすきだったのに千寿ちゃんなんかとつき合ってさぁ。瑠宇がとばっちり食らったじゃん? やっぱり不倫かー」


「不倫……だと思います。許されると思わないけ

 ど、ごめんなさい」

「許すよ。……許さなかったら、瑠宇、巧とどこかに行っちゃうでしょう? オレは意地悪だから、ふたりを引き裂くよ」

 黎は怒らせると怖い。まったく巧の言う通りだ。

「大学のときから薄々気がついてた。でも、瑠宇の気持ちはオレにあるってわかってたし。……オレのセックスじゃ不満なのかなって、悩んだことはあった。かなり」


「巧と会えなくなるのはさみしい? 隣にいて欲しいのは、ほんとは誰?」

「えと……巧がいないのはさみしいかもしれない。でも前に会わなかった間、大丈夫だったから……。隣にいて欲しいのは……ムシがいいのはわかってるけど、何度考えても黎しかいないの」


 ポンポン、とうなだれたわたしの肩をたたかれる。

「結婚てそういうことじゃない? あの人いいなと思っても、いちばんは、帰ってくるところは家であり、夫婦なんじゃないの?」

「……かもしれない」




わたしの目眩の原因ははっきりわからなかったけれど、検査でわかったのは「妊娠」だった。


「そんなにがんばったつもりじゃなかったのに、すぐできるものだなぁ」

 というのが黎の感想で、わたしは、お腹の中にごく小さな子供がいるのかと思うと不思議な気持ちになった。


 黎がまだ数ミリの赤ちゃんを撫でる。毎日、挨拶を欠かさない。ああ、この子は父親っ子になって、わたしに懐かないんだろうなぁと憂鬱になる。

 そんなわたしを彼は、

「24時間一緒にいて嫌われるわけないよ」

と朗らかに笑った。




 





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