第8話 そばにいて欲しい
「ただいま……」
黎の足音が大きく響く。
わたしは氷枕をして、寝かされていた。
「瑠宇! どうしたの?」
「お前、今日は残業だからって泣きながら電話来たから、代わりに来たよ。勝手に上がって悪かった」
「メッセージ入れてくれたらすぐ帰ってきたのに」
「黎、お前、瑠宇のことしあわせにするって言ったじゃん? なんで俺のとこに電話きたりすることになるんだよ」
「ごくたまに、仕事遅くなるんだ。本当にごめん! 巧にも迷惑かけちゃって」
「頼むから、瑠宇のこと、もっとよく見てやって。俺……もらっちゃうよ」
「だってお前、千寿ちゃんが」
「冗談だよ」
「じゃ、帰るわ」と言って巧は帰って行った。黎は本当に心配そうな顔をして、
「瑠宇、今の具合はどう? 仕事、遅くなってごめん」
と言ったので、わたしは半身を起こして彼に飛びついた。そうしたら、ポロポロ涙がこぼれて、わたしの方がビックリした。
黎は、わたしの頭をそっと撫でて、髪の生え際や、耳元や首筋にキスをしてくれた。
「黎……怖かったの」
「うん」
「わたし、どうしたのかなぁ?」
「……少し、実家に戻る?」
「黎と離れたくない」
それは本音だった。
「どんどん仕事も忙しくなって、大学のときみたいに一緒にいられなくて、さみしくさせてごめん。辛いよね」
「そばにいて欲しいの、できるだけ……」
「ここは瑠宇の実家も近いしいいかと思ったんだけど、やっぱり引っ越そうよ。もっと会社に近ければ、早く帰ってこられる」
「そうかもね……」
彼はわたしの頬を撫でた。
もっと遠くなれば、もう巧とは会わなくなるだろう。そうしてわたしは、黎の子供を産んで、毎日を騒がしく過ごす。
「夕飯、食べたの?」
「秋刀魚、買ったの。食べないと美味しくなくなっちゃう」
「あとは?」
「肉じゃがにしようと思ったんだけど、粉吹き芋とかでいいんじゃないかなぁ」
「わかったよ。ささっと作るから、シャワー浴びたら? あ、具合悪くなったらこの前みたいに呼ぶんだよ」
「うん、そうする」
立ち上がると、うちの床はしっかりした平面で出来ていて、小刻みな揺れさえなかった。うれしくて、台所で秋刀魚に塩を振る黎に後ろから抱きついた。
「うわっ! 驚いたじゃん」
「なんかー、黎の顔を見たら安心したの、それだけ」
黎は何かを言いかけたけれど、わたしはお風呂に向かった。
千寿ちゃんから大学に来られないかと連絡が来たのは、その3日後だった。
「ゼミに顔出せばいいのかな?」
「いえ、プライベートなことなので、とりあえず学食で」
学食でプライベート……すでにそれだけで怖かった。
「こんにちは」
「先輩、こんにちは」
とりあえずどんな流れになるのかわからず、水を飲む。
「……瑠宇先輩って、何しても絵になりますね。ランチ、食べましょう」
千寿ちゃんの後についてランチを注文する。セルフなので、すきなものを取っていく。迷ったけど学生時代、さんざん食べたハンバーグのA定食にヨーグルトをつける。
「いただきます……」
細々といただく。
「この間のピザのときも思ったけど、先輩、ほんとに食べませんね。だから倒れるんですよ」
千寿ちゃんがくすくす笑った。
「誰に聞いたの?」
聞くまでもないことはわかっていたけれど、心の中の巧をボロボロにして、わたしの中から追い出さなくてはならなかった。
「巧くん。瑠宇は病弱だから仕方ないんだよって。この間、瑠宇さんが具合悪くなった日、わたしたまたま巧くんの部屋にいて、帰ってくるの待ってたんですよー」
「ああ、あのときは巧、借りちゃってごめんなさい。黎、残業で」
「気にしないでください。あの後、すごく優しくしてくれたから」
「そう……千寿ちゃんが誤解しないか心配だったから、よかった」
わたしはまた耳鳴りがして、両肘をついて、こめかみを押さえた。ああ、まずい。世界がブラックアウトしちゃう。みんなに心配かけちゃうのに……。
目が開くと、また巧がいた。
「巧……ダメ、千寿ちゃんが誤解する」
「別れたよ、お前のうちに行った日」
頭がまだよく働かない。ヨーグルトの白いカップを思い出す。
「あー、A定食、久しぶりだったのに食べられなかった……」
「バカだな。それどころじゃなかったんだぞ。お前、イスごと倒れて」
恥ずかしくてどこかに隠れてしまいたくなる。
「ここ、病院だけど、わかる?」
「あー」
そう言えば、救急隊と思わしき白いヘルメットの人が、何度も名前や住所を聞くからしつこくて、うるさくて……。
「ねぇ? もしかして点滴してない?」
「してるよ」
「あーもう最悪。痛そうだから一生したくなかったのに」
巧はわたしの前髪をかきあげた。
「もうすぐ、瑠宇の王子様が来るよ。そしたら俺は交代だ」
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