黒い羊を数える夜に

鹿遊

黒い羊を数える夜に

エメラルドを壊死させたみたいな、黒混じりの緑青色の空に、ぢりぢりと散らばる星が見えるか見えないか、そんな風になるまで汚れてしまった。

たしかもともとは鮮烈の青に染まる部屋のはず。

僕の目が退化したのか、空気が悪くなったのか。そんなものはわからないが、君は黙秘を貫いていた。


「メア」

僕が、君の名前を呼んだ。

透明な音は砕けてまばらに飛沫をあげるはずだった。

しかし水張りの床は歪まない。波紋さえなくてああそうか、もう死んだんだなあとわかった。足元がふあふあ心地いいんだ。頭のてっぺんは冷えているのに爪先だけはぽかぽか温かいみたい。妙な浮遊感にぎこちなくて、面映ゆそうに笑んだ。

「ねえねえ」

なんて挨拶も届かないようだ。


ソファもベッドも、洗濯機が嘔吐して、家具の大半が冷たい水に浸っていた。洗剤の匂いが浸透している。麻薬にでも手をつけたみたいだ。

くらくらと偏頭痛だけを呼び覚ます。

幾数のモビールがランプにくくりつけられていて、その金魚が千切れて落ちた。

水面にゆありゆあり、粋な小赤が遊泳している。

それはなんだっけ。「コメット」って君は言った。

ああ、彗星。ここには必要ないものだね。


とうの本人、メア。君は水に沈んでいる。

まるで狂った男のせいで死んでしまったあの子に相応しい。美しさと官能を纏って、精巧な造花と海外の官能小説が、君を覆い隠すように埋まっていたから。

ああ、卑猥だ、吐息、寝顔。

そのまま死んでしまえばいいのに。


両手で銃を作り、手を伸ばして構えてみた。

言うこと聞かない指先が、君を捉えて離さない。柔らかい皮膚のフレームの奥。

時計の針がお揃いに、中指立てる真夜中。

小さな合図を皮切りに君は、踊り出す。


それは毎夜のことだった。

部屋にいるだけで当たり前の事象。

鹹水湖に夜な夜な啜り泣く音だけが虚しく響く。

「悲しいかい。メア」

僕が死んでしまったことを。

仕方ないなあ。こればかりは。

どうにもならなくてそっと視線をそらした。

部屋には吊るされた多くのガラス製ランプシェードがある。赤、青、黄色様々な色が散らばった埃を被って惨めな姿。丸形、円錐形、ひし形。

どれもこれも歪。同じものなんてひとつもなかった。君の考えることは素晴らしかった。君は将来小説家になるだろうね。だってこんなに綺麗な感性を持っているのだ。



讚美歌にのせて踊り出す。どこからともなく聞こえる天使たちの声。皮肉だな、僕の叫びは聞こえないってのに。こんなにちゃちな気休めには反応するのだ。

動かしたくないのに動かされている。

だからかいつも前衛的な舞いは、観覧者には飽きないけれど。


君は相変わらず目を閉じている。

眠ったまま操られている。

可哀想だと思うことにさえ罪悪感を生んで、僕が早く消えることを示唆するようだ。


この部屋には、終始僕と君しかいなかった。名前なんてない空間。君の逃げ場所だという認識だけで充分だった。でも年を重ねるごとに窮屈になっていった。そうして、悩まされるようになる。僕の存在に必要性がなくなるとういうわけだ。

ランプはあとからあとから増えて、僕のことを殺すためにあるのだ。と、知ってはいたけど、あまりにもこれじゃ辛いと思っていたかった。

せっかく君に貰った命だ。すぐに消えるなんて嫌だ!という本音混じりの意地。支えていた魔法は、心と身体の矛盾を生んだ。

メアは僕を拒み始めた。僕も彼女を助けたかった。こんな分際で愚かしいとはわかっていても。


そおっと触れたのは、指先の釦。

スイッチひとつで、この幻想は壊れる。

自分で灯す方法を放棄した、今の医療技術ってすごいだろ?

それとも太古からのおまじないかな。

「ああ、僕は出会えて良かったと思っているよ」

お願いだ、忘れてくれ。

ランプの電源を繋いだ突起を指で弾いた。



薄気味悪い世界に、ひとつひとつ灯る光。

幾重もの彩りが床に浸透してダンスホールさながら、ミラーボールを壊して散らしたみたい。カラフルで目に痛いよ。これで僕は本当にやられてしまう。

虹色に染まるソファ、ベッド、本棚、書き物机。洗濯機から溢れ出る人工的な甘い香り。あちこちをすいすい泳ぐ金魚。

酔いそうだ、夜に。

僕は夜と共にある存在である。

なんてのは昔の固定観念だ。

今はどうだろうね。


やがて、マリオネットの糸がぷつんと切れたみたいに刹那、その場に倒れ込む君。

花と紙が受け止めて、悪い少女にやっと本物の眠りを与えてあげるのさ。

夢の中ならなんだってできる。だろう、オフィーリア?


肉眼では可視不能な星たち。

それは子供心に漁ったひきだし。

大量に入っていた煌めきを君は脳内に埋め込んだ。

「ここなら君と私が生きられる」なんて。やめて、悲しいだけだ。

この褪せたエメラルドグリーンの壁。

薄黒く煤けて盲目の君は気づきもしないだろう。いっぱい荒らした。

君の愛した僕は、害悪な存在だったんだ。

愛を知らなかったんだ。まさか共存できるなんて思っちゃいなかった。

だけど、メア。

君だけはお気に入りの絵本を読み直して、僕の名前を呼んだ。

眠りについたワンダーランドで、毎夜「会いたかった!」と抱きつくの。

鮮やかな青をぐちゃぐちゃに塗りつぶした黒をなんて呼ぶのさ。

stress。皆はこの壁のフィルターをそう名づけた。


もう。僕の世界で生きていなくていい。

小さい頃の思い出を忘れて良い。

パンクしてしまった洗濯機は、もうその乱れ溢れた記憶に浸らなくていい。魘されなくていい。




「メア」


どうか幸せで。

独りぼっちの君が造り出した僕は、いつのまにかここの亡霊になって君を苦しめていたこと。



「メア」


痛いくらいわかっていたよ。


「大好き、愛してる。

さようなら」


頭の中はたくさんの下世話な話で、ごちゃまぜ十七歳。

僕を神聖でいさせてくれた。否定しないでくれた。いつのまにか会話も減って、声を出しても、君は自分勝手に踊っているばかり。シンデレラみたいだね。

悲劇に踊って誰よりも幸福を貪るお姫様だ。


おやすみ、そうしてもう起きないように封印だ。それは怖いことじゃない。

この水の量をちゃんと調節するだけだ。



僕はとっても楽しかった。

僕の名前はtrauma。

誰の中にでもいて、誰からも愛されない存在だ。

まあ、君は少し違ったみたいだけれど。


「おやすみ」





☆☆☆






「あれ、おはよう・・・・」

起きたけれど台所じゃなかった。

ベッドの向かい側、ママが泣いている。

はつらつな元気さをゼロパーセント、顔を真っ赤にぐしゃぐしゃにして、嗚咽の音が煩わしいくらい。

「メア!昨夜はずっと、ここにいたのよ。」

喜びの証。朗らかな表情が、久しぶりすぎて理解に時間がかかった。

「うなされていたけど、途中から普通に寝ていたわ!」

「どうしたんだろう。」

「さあ、きっとポプリのお陰よ。あと聖水、あと魔除けの道具かしら、あとお薬ね」

「ママの宗教的なところ、私はあんまり好きじゃないわ。病院からのお薬よ」



私は幼い頃に、ひどく傷つくことをされたらしい。内容は曖昧で今更思い出すようなことではないと、けっこう前に紛失した。精神状態が異常になってしまった私は、架空の友人とそのしがらみを乗り越えていたらしい。

私は恩人さえ記憶に残しておけていない。真実と証明するのは、古びた日記のみだ。

薬を飲み始めるようになってからは、段々と症状が収まっていった。比例して過去の出来事も夢か現か境目が溶け合っている。

だけれど私は浅い眠りがなくなって、今日なんか、ママが泣くほど安静に一晩過ごせた。完治も過言ではない。

「メア、もう大丈夫かしら」

「うん」

こくんと頷いたとき。

首の真ん中がずきりと軋んだ。

目覚めはいいはずなのに何故か大きな喪失感に襲われる。

すっからかんだった、頭が。

普通の人だったらこう言うんだろうな「すっきりした」なんて。

なにか、とても枢要なことを置いてきぼりにしているような。

葬ってはいけないような。

ゴボゴボボボボ。

浴槽の栓を抜いて、水が、穴に吸い込まれてく。

一瞬、似た音がかすかに鳴った。




・・・・思い出した。


彼のことを。私を唯一、肯定し続けてくれた優しい少年だ。


「ママ、紙とペン!早く!」

慌てて、叫ぶ。


待っていて、君を、幸せにしたい。彼はいつも私に寄り添ってくれた。

だから、そうだなあ旅に行こうか。

皆の話を聴いて人を救うような冒険に出よう。

ああ、今までの恩を返すよう、君の未来がどんどんと脳味噌に溢れだしていくよ。


ほら、瞑すると広がる。

暗闇に極彩色のアイデアが。

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黒い羊を数える夜に 鹿遊 @kikipop123

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