見えない翼
鈴代
透明な羽
「『自分がしてほしいことを、あなたがたも人にしなさい』って言葉が通じる人」
わたしがそう言うと、たいていの人は理解できないと言いたげな顔をする。それでいい。誰にも彼のことを理解してほしくない。これは独占欲だろうか。いつだってわたしの手の届かない場所にいる彼に対する。
好きな人のタイプを問われるとそう答える。タイプというけれど、クリスチャンの男性がタイプというわけではない。わたしが心惹かれる人はただ一人だ。はじめて目にしたときから興味が尽きることがなかった人は彼だけだ。
いまより青くて未熟だった十代の記憶の中心に彼がいる。
彼と出会ったのは病院内。夏休み中だけのボランティアをしていたとき。週二回、水曜と土曜の午後二時から始まる紙芝居で二つの物語を届ける。院内にいるすべての子供たちのため、無味乾燥な日々をほんの少し彩る娯楽を提供する。
白く清潔な病院内で、彼はいっそう清浄な空気を纏っていた。彼に特別目を引く特徴があったわけではなかったけれど、十八歳という年齢に不相応な泰然たる態度は彼を特別にしていた。中学二年生のころのわたしの視点であるがゆえに、余計大人びて見えたのかもしれない。けれど、彼にはやはり彼以外の男性がもちえない魅力があったように、いまでも思うのだ。
わたしの心はいつまでも彼のもとから離れない。
自分がしてほしいことを、あなたがたも人にしなさい、と彼は言った。
彼がいつも手首に巻いているロザリオについて尋ねたときのことだった。五連のムーンストーンに小さな真珠がはめ込まれたシルバーの十字架が繋がっている。
わたしは彼の意図がわからず、ただ戸惑った。道徳の授業で似たような言葉を聞いたことがあるけれど、それとはきっと違う。少し緊張した視線がわたしを捉えた。
「今のはキリスト教の黄金律だよ。このロザリオは祖母の形見でね、小さいころに教えてくれた」
「神様を信じているんですか」
自然と口から出た言葉に誰より私自身が驚いた。彼はわたしの目を真っ直ぐ見つめた。彼の瞳が陽の光を受けて輝いている。
「信じてる」
彼の纏う空気が揺らいだ。彼は視線をそらさないで、問いかけた。
「変だと思う?」
「全然、どこも、変なんかじゃないです」
わたしはすぐに返した。少しでも間が開いたなら、彼からの信頼を多少なりとも損なう予感が確かにあった。よく吟味せずに答えたけれど、これはおべっかじゃなく本心だ。
「僕には必要だし大切なものなんだ」
彼の白いシャツが反射する太陽光が眼を焼く。それは私に向けた発言というより呟きに近く、夏の風にさらわれていった。
土曜日を迎えた。今日はどの紙芝居にするか選んでいると、紙芝居用の木枠を持った彼が近づいてきた。彼は準備をしながら言った。
「なんか緊張してるね。あれからずっと変に気を遣ってる感じ」
彼の目は穏やかだった。だからこそ、ありのままに話すことができたのだ。
「……自分から聞いておいてなんですけど、宗教のことは難しいですね。知らないことばかりで、言うべきじゃないこととか触れないほうがいい話題とか気づかないうちに言って傷つけるんじゃないかって心配になります」
彼がクリスチャンであるという告白のもつインパクトは大きかった。今までわたしの周りには特定の宗教を信仰している人はいなかったから。
彼はゆっくり瞬きをしてから口を開いた。
「そうかな。ほかの人と話すときと同じようにすればいいよ。伊織ちゃんのペースで話せばいいし、僕も僕のペースで話す。もし僕が言われて嫌だと思うことを言ったら、伊織ちゃんにはちゃんと嫌だって言うことにするよ。約束する。だからそんなに緊張しないで」
優しい声音。陽光に包まれるような感覚。やわらかい微笑み。
「んー、そうだ。僕の下の名前、知ってる?」
「
「そう。それね、仏教用語なんだ。永遠って意味」
彼の瞳が、わたしの意識を吸い取っていく。
「祖母がクリスチャンだったんだけど、母はキリスト教を毛嫌いしてて、この名前を付けたらしい。母が小さいころに、ミサとかボランティアとかに参加させられたのが忘れられないって言って、僕が教会に行くのも嫌そうなんだ」
「でも、それは個人の自由ですよね」
わたしは反発心をぶつけた。彼は眩しそうに少し目を細めてわたしを見た。
「それは正しいね。でも、正しくなくても愛していたい。母は、嫌な顔はするけど教会に行くことを強制的にやめさせたりしないから、僕もどうこう言わない」
途端に、彼が遠く離れていく感覚があった。嫌だろうに、どうして許せてしまうのだろう。どうして反抗しないのだろう。分かりたくなかった。だって、怒ったっていいはずだ。あからさまに嫌悪感を示されたら不愉快だって言っていいはずだ。そう伝えたくて、わたしは言葉を絞り出そうとした。
「そんなのって。それでも」
何といえば言いかわからなかった。もやもやとした思いは確かにあるのに言葉になってくれない。彼は、続きの言葉を待っていたが、言葉に詰まっていることが分かったのだろう。
「完璧じゃないからこそ祈りをささげることができるし、神の愛を信じることもできるんだと僕は思うよ」
そうであれば素敵だと思ったけれど言わなかった。あと数分で午後二時になる。子供たちが少しずつ集まってきている。
「嫌悪感があるならそれでもいいんだよ。そう気を張らないで。……でも、もしまだ気にするなら、知ってみるのもいいかもしれない。今度の日曜にでも、ミサに参加してみる? 多分、伊織ちゃんが思うより普通だよ、宗教って」
ミサへの誘いは、彼の心への立ち入り許可のように感じた。彼の心の扉が開かれて、招かれたような。
彼は、あ、と言って、少しでも嫌なら断ってね、と付け加えたが、わたしは間髪入れずに行きたいですと返した。
八時半にはもう、外にいるだけで汗が噴き出す暑さだった。彼と待ち合わせた公園には木が生えていないから影が少ない。遊具の下にわずかにできた影を子供たちが占領している。
わたしは首筋や顔に何度もタオルを押し当てて汗を拭いた。少しして到着した彼は、長そでのシャツに身を包んでいるのに、さほど暑そうな気色もうかがえなかった。院内で会うときと同じく白いシャツを着ていて、プライベートでも特別着飾らないのが彼らしい。
教会へ歩いて向かっていると、彼の首筋に滲む汗を見つけて、無性に確かめたくなった。その首筋に舌を這わせれば、本当に塩辛い汗の味がするのだろうか。たまに、彼が呼吸しているかどうかさえも分からなくて不安になる。
年齢に合わないほど落ち着いた態度と寛容さ、純粋な信仰心は彼をどこか浮世離れした存在にしている。だから、彼が現実に存在するただの人間であることを証明したくなる。彼が生きているのは、確かにこの世界なのだという現実を受け止めたい。
彼の背には、実は美しい羽をもつ見事な翼が生えている。純白の豊かな羽が風を受けて揺れる。天からのお告げを賜った彼は、翼を広げて大空に飛び立ってしまう。彼の後を追うあいだ、そんな想像が頭から離れなかった。今にもここを去ってしまいそうな気がして、思わず呼び止めると、彼は足を止めてこちらを見た。振り向いた彼の顎に汗が伝っていた。わたしは少し安心して、やっぱりなんでもないです、と言って、また歩き始めた。
ミサが始まる十分前にわたしたちは教会についた。教会は大きめの一軒家くらいのサイズの建物だった。白い壁に紺の三角屋根の教会には屋根のてっぺんに十字架が設けられていた。思っていたほど周囲の風景から浮いていなかった。むしろ、馴染んでいると思ったほどだ。
彼が白い扉を開けて、どうぞ、とわたしを先に入らせてくれた。
教会に入ると、まず、ステンドグラスの取り付けられた扉が目に入った。ユリをモチーフにしたステンドグラスから差し込む光が柔く床に落ちていた。
振り返ると彼が入り口近くの右手に置かれていた白磁の器に指を入れている。その指で額、胸、左肩、右肩の順に軽く触れた。
「わたしもしたほうがいいですか」
「やらなくても問題ないよ。伊織ちゃんの意志にゆだねます」
「やってみたいです」
「じゃあ、器の聖水を中指につけて、おでこ、胸元、左肩、右肩の順に十字を切る。上出来」
彼の視線がわたしの動作を追い、それに合わせて彼の声が心地よく響く。本当は彼がやっているのを見て順序を覚えていたけれど言わなかった。
彼は聖水の隣に置いていた器のなかにあったせんべいのようなものを一枚取って、もう一方の器に入れた。これは僕の特権、といたずらっぽく笑った。
「それはなんですか」
「ミサのときに、神父さまの手を通してご聖体に変化するパン。あまり気にしなくていいよ。洗礼っていうのは簡単に言うと正式に信徒になることをあらわす儀式なんだけど、その洗礼を受けてる人しかパンは受け取れない。そのかわり、洗礼を受けてない人は神父さまから祝福を受けることができる」
ついでだから一通り注意点を言っておくと、と彼は話し始めた。
「ミサが始まると献金袋が回ってくるけど献金しなくてもいいからね。あと、聖体拝領っていってさっきのパンを神父さまが配る儀式になったら列に並ぶんだけど、伊織ちゃんはパンを受け取らないで、神父さまに洗礼を受けてないことを言うように。ほかは周りを見て真似すれば大丈夫」
彼は冊子を数冊手渡した。
「ここに聖歌は載ってるから、歌うときは教えるよ。眺めてるだけでも、全然わからない歌聞いてるよりは気分的に楽じゃない」
言い終えると、彼が数歩進んで両手を扉にかけて両側に開いた。
そうして彼は緩慢な動きでわたしのほうへ顔を向けて、ようこそ、と囁いた。
どんな絵画もどんな文学も霞んでしまうほど圧倒された。あれからもう何年も過ぎたというのに、ふとしたときに思い出される記憶の一場面。その記憶を呼び起こすのは、眩しい朝の陽ざしであったり、ゆるく皺のついた白いシャツであったりする。そうしたものが、あの瞬間の彼を彷彿とさせるのだ。
彼が扉を開くと、詰め込まれた夏の日差しが一気に解き放たれ、強烈な光が目に刺さる。こちらを向いた彼の瞳が光を受けて金色に輝く。シャツの白さが眩しい。真正面にあるステンドグラスには幼いイエスを抱く聖母マリアが表れ、陽光を取り込んで教会内を優しく照らしている。
ステンドグラスを背景に光と彼が調和していた瞬間。それらすべてが共鳴して完全な美に到達するかのように思われた。しかし、瞬きをしたら、繊細な魅力は立ち去ってしまった。無欠なる美しさを見ることはかなわなかったけれど、世界に名だたる芸術家であっても、あの情景以上に神秘的で儚く麗しい作品を作ることなど不可能だ。
彼は少し横にずれて、わたしが入るのを待っていた。ふらふらと扉の先へ足を踏み入れる。
扉の先にあった聖堂は鮮やかだった。
曲線を描く天井。両側の壁にはめこまれたステンドグラス。そのステンドグラスから透けた日光が部屋に充満している。中央の通路を挟んで、木製の長いすが左右一列ずつ、縦に十列ほど並んでいた。奥には先ほど見た聖母マリアをかたどったステンドグラスがあり、その両側にある天使の石膏像が微笑んでいる。
すでに人が十数人座っていた。彼は、後ろのほうが全体がわかるかな、と言って後ろから三列目に座ったので、わたしもそれに倣った。
非日常が待っているかと思われたが、そこは日常の延長上にあった。日常から離れてはいたけれど、日常との断絶はなかった。
それから数分で、神父さまが聖堂に入ってきて祭壇へと進んでいった。ミサの式次第は冊子に載っていたので、困ることはなかった。ミサは順調に進められていく。
どれほどの時間が過ぎたかわからない。いつの間にか、わたしは無音に包まれていた。わたしの身体から遠く離れてしまったかのように、小さな音すら届かない。
その間もミサは滞りなく進められていたはずだ。
異様であったが、心地よい無音だった。そのうち、かすかに音が聞こえるようになった。意識を集中させると、それは心臓の鼓動する音であることがわかった。そして、意識は自己の内側へと深く没入していった。
わたしの視線は聖母の抱くイエスに吸い寄せられた。なめらかなはだのその奥から筋のように細い光が発せられた。その光は次第に広がり、室内にあるあらゆるものの輪郭を溶かしてしまった。すべてをあやふやにしながら、わたしを呑み込む。ああ、この光には命よりも原始的な力が宿っている。あたたかく、流動しながらわたしを優しく包み込むその光に、もう何時間も抱かれているような気がしてくる。
気が付くと、ミサは終わっていた。わたしを包んでいたあの不思議な感覚ももうない。慌てて横を向くと彼は静かにわたしを見つめていた。
「わたし、居眠りしてましたか?」
「居眠りっていうか、魂が抜けてるみたいだった。ミサが始まってしばらくしてから様子がおかしかったから心配したけど、調子が戻ったみたいだね。よかった」
「……なんだか、すごく、しあわせな気持ちだったんです」
「そっか。どんな感じ?」
「なにか、よく分からないけど、とても大きなエネルギーみたいなものを、ずっと感じていた気がします」
それを聞いて彼はおもむろに目を閉じた。わたしは言った後で、こんなことを言って変な子だと思われるかもしれない、と不安になった。彼がゆっくり目を開ける。
「そう。うらやましいな。綺麗なんだろうなあ。僕も同じ体験したかった」
「信じてくれるんですか?」
「信じるよ。僕には分からなくても、伊織ちゃんが感じたなら、本当だって信じる」
そう言う彼の視線がやわらかくわたしに触れる。
教会を後にしたわたしたちは歩いて五分の場所にあるカフェに入った。わたしの体調を心配した彼の提案だ。体調は問題なかったが、まだ彼と一緒に過ごしたかったから寄ることにした。店内はこじんまりとした外観のわりに広く、ゆっくりできそうな感じの良いカフェだった。
まだ十時半だったからか、客はまばらだった。薄いクリーム色の壁にはポップな色調の絵が数点飾られていた。耳に入るのは小さなざわめきと軽やかなリズムのクラシック音楽で、気分は自然と落ち着いた。店内には二人用のテーブルが四つと四人用のテーブルが三つ、ゆとりを持って設置されていた。そのオレンジ色のテーブルの表面はつやつやしていた。正面に設けられたショーケースにはケーキやタルト、パイなど豊富な種類のデザートが整然と並べられていて、どれも丁寧に仕上げられたことが見て取れた。
わたしたちはカウンターで注文を済ませた。わたしはアイスコーヒーと桃のタルトを、彼はホットコーヒーを頼んだ。自分の分くらい自分で払うと言ったが、彼は今日付き合ってくれたお礼と言って強引に代金を払ってしまった。ほとんど待つことなく、注文したものがプレートに載せられていった。そのプレートも彼が持って運んだので、わたしは申し訳なくなって背まで縮んだ気がした。
窓際の席につくと、バラの花を模した桃のタルトの表面に照明が当たり輝く。彼はミルクも砂糖も入れないで、湯気の立つコーヒーを一口啜った。
タルトを半分ほど食べたとき、彼が口を開いた。
「僕がクリスチャンになったきっかけ、聞いてくれる? なんでかな。伊織ちゃんには話しておきたい。僕のわがままだけど」
わたしでよければ、と言うと彼は目を伏せて、いかにも重そうに口を開いた。そうして、途中で言葉に詰まりながら、彼は過去を明かしてくれた。
小学三年生の夏、僕は天井を眺めていた。一日中ベッドに横になって。そのころ、現実を生きている感覚がなくて、ずっと広い映画館のなかで一人、放映されている映像を見ているみたいだった。母は日に何度も泣いていた。父はもともと厳しい人ではなかったが、僕に異常なくらい優しく接するようになった。
祖母は母をなだめながら、僕を安心させるように微笑んでいた。祖母は、キリスト教を嫌うようになった母のことがあるからか、僕を教会へ連れて行ったことはなかった。ただそばにいて、大丈夫、大丈夫、と繰り返していた。両親は仕事があるから僕につきっきりでいるなんてできないことはわかっていても寂しかった。でも、祖母がいたから耐えられた。
小児がんのことを、僕はそれまで知らなかった。がんだと言われてもぴんとこなかったけれど、母が身体中の血を抜かれたかのように青ざめた顔をしていたから、これは絶望なのだとぼんやり思った。どんどん現実は僕から離れていった。
治療は過酷で耐え難い苦痛を伴った。それでも、まだ死に直面している実感を持てずにいた。現実を受け止める暇など与えられなかった。死よりも、絶え間なく続く苦しみから逃れたいと思ったほどだった。つらくて泣いていたら祖母が背をさすってくれた。
その年の秋、祖母が亡くなった。祖母の死はあっさりしたものだった。朝なかなか起きてこないので、様子を見に行ったら布団のなかで祖母は冷たくなっていたという。
祖母が肌身離さず手首に巻いていたロザリオは、祖母とともに火葬するつもりだとベッドの上で聞いた。しかし、どうしても僕はそれを焼いてしまいたくなかった。祖母にはまだそばにいてほしかった。父に、形見としてロザリオがほしいと言うと、父は母と話し合い了承した。
葬式への参列はかなわなかった。吐き気が止まらなくて、服を着替えて外に出て長時間座っていることなど到底できなかったから。祖母のロザリオは父が持ってきてくれて、僕のものになった。不思議と、そのロザリオは生前の祖母の体温がうつったかのようにあたたかく、僕に馴染んだ。手首に巻いてみたが長すぎて不格好だったので、首から提げてみた。そうすると、まるで祖母に抱かれているような心地がして安心した。そして、そのときになってようやく僕は現実と向き合うことができた。
それから一年半経って、僕は学校へ通えるようになった。クラスはいくつかのグループに分かれていた。僕はどこにも属していなかった。みんなが話していることが分からなかった。授業中に先生が言っていることも、五年生向けの教科書に書いていることも理解できなかった。学校では小学五年生向けの勉強を、自室では小学三年生向けの勉強をしていた。治ってもこんなに苦しい思いをしなければならないのかと現実を悲嘆した。でも、祖母のロザリオを握りしめると少し楽になった。
しばらくすると、学校でいじめが始まった。何がきっかけだったのか分からない。もしかしたら、きっかけなんてなくて誰でもよかったのかもしれない。無視されたり、ものを隠されたり。ほかにも、いろいろ。僕は五年生の夏休み明けから学校へ通えなくなった。
ふと、教会へ行ってみたくなった。祖母に会いたかった。母に言うと、小言を言いながらも、その週の日曜に手を引いて教会へ連れて行ってくれた。母は外でミサが終わるのを待っていてくれた。一人で参加したはじめてのミサはわからないことだらけだった。けれど、ミサが始まると、ゆっくりとつらい現実から離れていく感覚があって、苦痛が和らいだ。最初はそれだけだった。神父さまや優しい信徒たちと話したり教会の行事やボランティアに参加したりして、キリスト教に興味をもつようになった。
「僕はすごく救われたんだよ。このロザリオにも教会にも、キリスト教にも」
わたしは、大きな感情の波に呑まれて少しも動けずにいた。恐ろしい? それもある。悲しい? それもある。それよりなにより、やるせない。彼は穏やかな人生を送ってきたものだと思っていた。重い沈黙が堆積する。汗まみれになったアイスコーヒーのグラスに触れると、冷たさが指先から伝ってきて現実に引き戻される。彼がコーヒーのカップを傾けるのに合わせて、私も一口飲み込んだ。不快な苦みが口の中に広がる。
「中学校は、知り合いのいない私立のところに入学したし、今はもう平気。こんな話されても困るだろうけど、無性に聞いてほしくなって」
タルトを口にすると、もそもそしていて口のなかが乾燥した。死の淵から脱し、そうかと思えば学校でいじめに遭い、順調とは程遠い彼の過去を想像しようとした。しかし、それは暗い場所にあってわたしには見えなかった。
顔を上げて見た彼は緩く口角を上げて微笑んでいた。いつにもまして穏やかなその表情は感情を心の奥に閉じ込めたように見えて、かえって痛ましく、目をそらした。
彼の背にある翼は過去の傷が原因で使いものにならないのかもしれない。空を飛ぶことができないのかもしれない。そうやって存在意義を失って透明になった翼は、それでも彼の背にあったと私は思うのだ。清く強い立派な翼が。
「優しいね、伊織ちゃん。優しい、本当に。そんな泣きそうな顔させたくないのに、僕のことで悲しんでくれることが嬉しい。宗教のことも、わからないからってないがしろにしないで、すごいよね」
「すごくないです、わたしは」
彼は一度コーヒーカップを持ち上げて、口をつけずにテーブルに置いた。取っ手を包む指先が小さく震えていた。
「僕はよく、……信じられないって反応されたり、怖がられたりした。神様なんているはずないのにって。たしかに実際に見ることはできない。それに、宗教はカルトと混同されがちだから、そういう反応をするのも分かる。その人が特別ひどいわけじゃない」
カップの取っ手を握る彼の手に力が入って、爪の先が白っぽく変色している。
「だけど、やっぱり寂しかったな」
剥き出しの心が彼の口からこぼれた。わたしはそれを掬おうとした。
「理由はあるかもしれないけど、そんなふうに拒絶するのは、十分ひどいことだと思います。わたしは嫌なこととか悲しいこととかを受け入れて肯定するなんてできません。自分の大切なものを否定されたら反論してもいいんじゃないでしょうか」
彼の目を見た。瞳の中にわたしがいる。
「伊織ちゃんの真っすぐなところ尊敬してる。見えなくても聞こえなくても、たしかに存在するものがあるってわかろうと努力してくれた。本当にありがとう」
やわらかい声がそっとわたしの耳に触れた。
彼がわたしに彼の過去を話した理由がわかる気がした。
彼とわたしは共有している。言葉になれないほど曖昧ななにかでわたしたちは確かに繋がった。わたしの心には一枚の透明な羽が刺さった。彼の背にある翼を成す羽の一枚。彼の心に、わたしの心は一体どんな形でどんな色で残ったのだろうか。
夏休みが終わる数日前に、ボランティアは終了した。ボランティア最終日、彼とは連絡先を交換することもなく、それまでと同じように病院の前で別れて帰った。それから、彼に再び会うことも見かけることもなかった。ときが過ぎるにつれて、彼との記憶は夢の中の出来事であったかのように溶け出し滲んでいった。
後悔がないとは言いきれない。想いを伝えればよかっただろうかと思うこともある。しかし、最終的にはやはりこれでよかったのだと思う。
彼は、わたしにはたどり着くことのできない場所にいる。でも、一枚の羽がわたしのもとにある。彼の記憶はいつでもわたしを守ってくれる。それはあの日見た忘れがたい光景と幸福な体験とともに、心の奥深くに大切に仕舞われている。
いつまでも彼は美しいままで。
見えない翼 鈴代 @suzushiro79
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