4 魔女の幕引き(下)

 フリッガの髪はランティスと一戦交えたときに、まとめた真上で切ったままだ。扉から伸びた廊下の光のほかには光源がないこの部屋ではグレーにすら見える、淡い茶色で短いけれども真直ぐなそれとは対象的に、ウェバの髪は闇に溶けずに浮いた。

 肩口まで伸びた彼女のそれはほぼ真っ白で、きついウェーブがかかっている。瞳は、紫というより紅に近い色をしていた。気味が悪いほどに鮮やかな、プレトの翼と同じ色だ。

 どうやら髪も目も、自分には受け継がれなかったらしい。フリッガは思った。自分のそれは、いずれも父親譲りのもので、だから自分の中では母の存在はおぼろげで、だからそれを見ずに来た。二十年以上。


 ノヴァに案内されるまま暗赤色の絨毯の敷かれた廊下を歩き、角をいくつか曲がった先のエレベータを使って上へ。

 そうしてノヴァに連れてこられた部屋は、見回してみれば照明器具はあるのに全て灯りが落とされ、暗かった。廊下は(彼女の国の常識から言えば驚くほどに)煌々と照らされていたのに、この空間だけはまるで光に嫌われているようだ。

 目の前にいる、色を忘れたかのように白いばかりのこの人は、いつもここにいたのだろうか——フリッガは思った。


 壁は外壁と同じ、暗い色の金属質の素材が露出している。向かいの広い壁全面を覆うガラス窓の前に、これもまた暗い色をした小さな丸テーブルと揃いの椅子があるだけ。床には黒に近い焦げ茶の絨毯が敷かれているようだったが、それは足を踏み出せば踵が音を立てるほど薄いものだった。

 後ろで扉が勝手に閉まり、廊下からのひとすじの光さえなくなると、灯りはいよいよ窓の外のものしかない。向かいの建物から漏れてくるものは、こちらの室内を照らすほどはない。

 混乱の中散発的に起きる火花、空を滑って行くサーチライト。そういう、頼りない灯りに照らされてウェバは、フリッガが想像していたよりずっと優しい顔で笑った。

「生まれたときも思ったけれど。テルトにばかり似たわね」

 フリッガは眉を顰めたが、それは嫌悪からのものではなかった。彼女はウェバの言葉の中に親愛の情を感じ取った。


 かつて我が子に指を握られて戸惑ったという彼女は、妻であり、母であったのだ。

 少なくともフリッガはそう思いたくて、だから、そう思うことにした。


 彼女は大きく息を吐くと口を開いた。しかしそれが声を結ぶ前に、ウェバは爪の整えられたしなやかな人差し指を立て、自分の口元に当てた。

 その動作はとても緩慢なものに感じられたが、事実であったかどうかは分からない。ただ、続けて発されたウェバの言葉に淀みはなかった。

「ここまで来たご褒美をあげましょう。ひとつだけ、どんな質問であっても答えてあげる」

 フリッガは目を泳がせた。言いたいことや、聞きたいことがたくさんあったはずなのに、ひとつ、と言われると頭が真っ白になった。

 彼女はしばらく黙り込み、意を決してウェバを睨みつけると声を絞り出した。

「質問は、ありません」

「あら、そうなの?」

「たぶん、どんな答えも信じられないので」


 それが正直な気持ちだった。

 聞きたいことはたくさんあるのに、何を答えられてもたぶん疑ってしまう。彼女の言葉を信じたいが、それに耐えられるほど彼女のことを知らない。知らないうちに彼女について、周りからの評価ばかり聞いてしまった。

 だからフリッガには、自分の本当の母親の本当の姿がどうしても見えない。

 それを知るために、もっとウェバの顔が見たかった。フリッガは続けた。

「だからわたしが話します」

「変な子ね」

「あなたの子です」

 ウェバは心底愉快そうに目を細めた。

 

「父は十五年前、死にました」

「知っているわ」

「それまで父は、あなたのことを一度も悪く言わなかった」

 ウェバが頰を緩める。一拍置いてから、そうでしょうね、と彼女は言った。

 フリッガはウェバの顔をじっと見ていた。見ていて、そしてその言葉を嘘だと思った。

 そんなはずがないと思っていたのだ、この人は。

 この人は自分の言葉を信じた。自分の言葉を信じて、そこから父がこの人の去った後もこの人を愛していたことを知って、だから今こうして、こんな顔をした。

 この人は、わたしの言葉を信じた。もうそれで十分だ、とフリッガは思った。


 ウェバが緩く結んでいた唇を開こうとしたとき、彼女の後ろにノヴァが現れた。

 ノヴァの目はさっき見たときとは違う。瞳孔は糸のように細く、体のところどころの痣だった部分は真珠貝のように、あるいはオパールのように光っている。あれは鱗だ、とフリッガは思った。

 つま先や手指の先から線を引きながら、鱗粉が光って溢れる。ウェバは後ろのノヴァを一瞥し、それからため息をつきながら首を傾げ、目を閉じて言った。

「質問はないようだから、始めましょう。私は、もうひとりのゴーストを殺すためにこの筋書きを書いたの。あなたは私の準備した台本を演じるための、ただの舞台装置。役者ですらなかった」


 フリッガは身構えた。ノヴァの鱗はだんだん広がっている。白い竜が、何の音もなく、作られたヒトの殻を破り顕現しようとしている。


 部屋の形が溶けていく。

 この場所がこの世でなくなる。

 


 背筋が凍りついて、思わず後退った。脚がうまく動かなくて後ろによろけ、肘が何かに触れた。振り返ったところにプレトがいた。

 この場所にあっても彼の様子は普段と変わらない。正負のいずれの情もない顔でノヴァを見ている。ノヴァの目がにやと細められた。

「下がれ」

 プレトはそう言うと、フリッガを後ろに押しやって前に歩み出た。

 ウェバはノヴァの前を空けるように横に避け、改めてプレトを見た。プレトは彼女を一瞥した。どちらも何も言わなかった。

 プレトが再び前を見る。ノヴァと目が合った。ノヴァが大きく息を吸い込んだ。

 


 何かが弾ける音がした。強い光に吹き飛ばされるようだった。フリッガは片足を引いたまま、なんとか耐えた。

 視界が戻ってくるまでは数秒のようにも、数分のようにも感じられた。そうして見回した部屋は、壁のガラスが粉々に砕けて、外の風が直接吹き込んできていた。

 ウェバはさっきのまま、窓辺に立って空を見ている。彼女はフリッガが自分を見ているのに気がつくと、いらっしゃい、と言って手招きをした。


 フリッガは素直にそれに従った。窓辺ぎりぎりまで進み出て、まず足元を覗き込んだ。たくさんの人が見える。

 みんな空を見ている。フリッガも上を見た。竜が二柱、そこにいた。


 美しい白い竜は、宝石のように光を散らして三双の翼を羽搏かせ、そのたび周りの建物は上から粉々に壊れていく。なのにその瓦礫は落下していかない。

 対峙する黒い竜の翼が瓦礫を巻き上げ、その場に滞空させていた。真下の人々は呆けた顔で見上げている。

 白い竜のほうが一回りは大きい。あれがノヴァだ。神々しいまでに光り輝く竜が、長い尾で、鋭い牙で、あるいは爪で、周りの全てを破壊しながら黒い竜を攻め立てた。

 高い耳障りな音が何度も響いた。黒い鱗が剥がれて落ちた。

 黒い竜が身動きを取ろうとすると、周りに浮いたままの瓦礫がいくつも当たる。しかしそれを落とせば、下で見ている市民に被害が及ぶ。

 ノヴァは手を緩めない。頭に直接響くような、高く澄んだ音が響いた。


 ノヴァが笑っているのだ。フリッガはそう思った。隣でウェバが口を開いた。

「見たくなければ見なければいいわ」

 フリッガが彼女を見ると、彼女はもう空を見てはいなかった。目を伏せて、それでも何も見てはいない。

「下の人間なんて気にしなくていいのにね。バドはああ見えて、いざというとき甘いのよ。だから私を殺せなかったし、あなたは死ぬ。怖いでしょう」


 フリッガは窓際から一歩離れてウェバの方に向き直った。そのままそこで彼女はウェバの言葉の続きを待った。

「私もいつも怖かったのよ。私はノヴァがいるからいつまでも生きていられる。でもそれは、ノヴァがいなくなればすぐに死ぬということなの。そんなふうに生かされていると初めて感じたときから、わたしは瞬きをすることさえ怖くて、不安を拭いたくて、できる限り全てを思いどおりに進めようとした。思いどおりにならないものは捨てられることを何度も確認した。そうして何もかもが私の意のままになると信じようとした。でもね」

 そこでウェバは大きく息を吸うと、空を見上げた。

 浮いたままの瓦礫が白い竜の光をいくつも拡散して、それはとても美しい光景だった。

「でもね。私は、あなたから指を握られたとき、それはまったく思いどおりのことではなかったけれど……それでも、その思いがけないできごとを、信じられないことだけど、どうしても嫌いになれなかった。好ましくすら感じてしまった」

 フリッガは眉を上げた。


「ねえフリッガ。あなたのお父さんは、本当によく勉強していて……いえ、それももとはといえば私が仕組んだものではあったのだけど。私はテルトから、数多の先人が長大な時間をかけて遺した有用なコードをいくつも聞き出したわ。もともとはあの黒い竜を拘束して、仕留めるためよ。それがこんなふうに役に立つなんて」

 フリッガは目を見開いた。

 口の中が乾いて、言葉が出ない。

 だから何も言わない娘の隣で、母は緩やかに口端を上げて目を閉じ、言った。


「本当におかしな話なのだけれど、あなたが私の指を握ってくれたとき私は、あなたが私の書いた筋書きどおりに生きるとしたら、それはなんてつまらないんだろう、と思った。私はあなたには、自分で未来を選択してほしいと思った。私はその礎となり、あなたの選択を守りたいと思った。だから、あなたから離れたの」

 

 

 彼女の作り出したものは、必ず彼女より先に壊れる。彼女が見つけ出したものも、必ず彼女を置いて崩れていく。それを分かっていて、それでも目を逸らすことを許されなかった。

 思いどおりにならないから。それだけの理由で黙々と歴史を作り直しては見守り続けるという行為は、人間にとって一体どれほどの苦痛なのだろうか——フリッガは帰国の途、馬の背に揺られながら考えた。燃え盛る廊下を走り抜けたときに負った手の甲の火傷が、まだひりひりと痛かった。

 

 ウェバの言葉を聞いた直後、大きな警報音が鳴り出したので、フリッガはウェバの動かした唇から続いた音は聞き取ることができなかった。

 頭ががんがんする。視界が小刻みに揺れる。大きな音のせいなのか、それとも何か別の理由か、よく分からなかった。


 フリッガを迎えたときにノヴァが裏口の警備員を排除したせいで議会棟の警備は手薄になっており、暴徒はそれに乗じてこの建物に火を放った。

 長い廊下では赤い絨毯が炎に悶える蛇のように燃え、あちこちでスプリンクラーが作動した。部屋が赤色灯で染まっている。警報音は鳴り続けている。けれどもウェバはもう口を閉じ、その横顔は落ち着き払っていた。

 フリッガはとっさに空を見上げた。ノヴァがもがいている。何かに拘束されているその前で、プレトが羽搏き、長い首をもたげてこちらを見下ろしていた。


 彼は主の指示を待っている。フリッガは眉を顰め、それから隣を見た。

 大きな警報音は続いているのに、「お母さん」の言葉は不思議と聞き取れた。

 だからフリッガは、その選択をした。

 


 フリッガは一度目を閉じ、寄せていた眉を解くと口を開いた。大きな声ではなかったが、黒い竜は確かにそれを受け取った。

 直後、夜空を揺るがす断末魔が響いた。喉笛を食いちぎられ、ノヴァは死んだ。

 そして、その主も。

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