2 さよならを

 フリッガは周りを窺い、誰にも察されないように気をつけながらキャンプを離れた。

 誰も同行させなかったのは、ランティスに敬意を示すためでもあるし——ほかにも理由がある。


 指定された場所まではさほどかからない。キャンプからは高低差もないのでほとんど視認は無理だろう。そのことも都合がよかった。

 彼女なりには緊張はしているものの、状況に比べれば力の抜けた様子ですたすた歩きながら、フリッガはそっと腰の後ろに左手をやった。

 これまで本来の形で使うことを意図的に避けてきたその武器は、そこで短く畳まれたまま確かな存在感を放っていた。冷たい金属にさっきの指輪が当たって、きんと高い音を立てた。


 代々のサプレマが引き継ぐものだったから、彼女の父親もまた、それを頼みに戦地へ向かっていたはずだ。

 かつてこれが他のウルティマ=ラティオと同じように海底から引き上げられたとき、なぜその者はよりによって最も死に近い形のこれを軍人ではなく聖職者に割り当てたのだろうと思わないでもなかったけれど——古い時代の話では、命を刈り取る神がこんなふうな大きな鎌を持っていたという。

 古来からずっと、人々の暮らしの中で生と死は隣り合わせで、また表裏だから。その両方に関わるのが聖職者であったから。たぶんそんな、簡単な連想ゲームだったのだ。


 ランティスが指定したのは、向き合う双方のキャンプを結んだ線と国境の交わる場所だった。

 荒地の中に横たわるアドラとユーレの境は、アドラとファルケの境のように大きな川が流れているわけでもなく、また壁やフェンスで仕切られているわけでもないが、知らなければ見逃してしまうような小さな目印は存在する。

 特に急ぐでもなく歩いて近づいていくと、やがて向こう側に灯りが見えてきた。アドラ軍のものだ。その灯りを背後から浴びて手持ち無沙汰な様子で待っていたランティスは、フリッガに気がつくと組んでいた腕をほどき、やあ、と右手を上げた。まるで知己に会ったかのような気軽な挨拶だった。

 フリッガは軽く会釈をした。それも国境を挟んでだ。

「悪いね。書状に書いたとおり、ちゃんとひとりで来たかったんだけど、さすがに許してもらえなかった。あのくらい離れているし、人数も少ないから大目に見てもらえるかな」

 そう言いながらランティスは、後方の灯りの方を示した。

 数人が動く影が見える。フリッガは少しだけ目を細め、その様子を確かめてから返事をした。

「この程度離れた場所で、なおかつ手出しをしないのであれば構いません。そうでないなら都合が悪いので」

「悪いので?」

「ご想像のとおりです」

 ランティスは苦笑しながら「怖いね」と言ったが、フリッガは答えなかった。


 互いに手を伸ばしても、まったく届きはしない程度の距離が空いている。その向こうでランティスは深呼吸をすると、敵軍指揮官の顔になった。

「さて。すぐに応えてもらえてよかった」

「はい」

「ちょっと予想外の事態でね。こちらの兵力は現段階ではそちらには到底及ばない。僕ひとりでできることも、まあ、相手が普通の軍人であれば結構いいところ見せられるとは思うけど、きみではそうもいかない。でも僕は援軍など頼りにせずにさっさとなんとかしろ、と無茶振りされている。きみのお母上はスペクトに続いて、ナハティガルからもドラクマの血を絶やしたいらしい」

 フリッガは目を細めた。

「興味ありません」

「うん、それはそうだろう。でも僕にとっても彼女の目的はどうでもいいんだよ。重要なことは、僕の部下で無駄死にしたいと思っている者はいないし、僕も死ぬつもりはまったくないこと。もちろん部下を死なせたくもない」

「国境侵犯のない限り、わたしは一切手を出しません。当国の軍も同様です」

「ない限り、ね」


 苦笑を漏らしたランティスは、フリッガからも聞こえるような大きな深呼吸をすると足を踏み出した。

 そこから十数歩で国境に至る。実際に何かの線があるわけではないが、フリッガにはそこから光が立ち上っているかのように境がくっきり見える気がした。おそらくランティスもそうだろう。

 一歩一歩近づきながらランティスは右手を上げた。彼の衣装は以前見たときとは違うようではあるけれども、相変わらず少し時代がかった珍しい服だ。でもそれは、今の彼の立場を考えるとかえって似つかわしいように見えた。その袖の下から覗いた手の甲に、何か黒い金属質のものが見える。


 淡い青の光を帯び始めたそれを見、フリッガは場違いにのんびりした感想を持った。きれいだな、と。

 ランティスもそのまま、砂地をさくさくと音を立てて歩いてくる。そのつま先が、国境を割った。


 

 足元の地面を深く貫く一撃を背後に飛びすさってかわすと、フリッガはランティスを見た。鋭い、というのが最初の感想だった。身軽とは思えない格好なのに、見てくれから想像するよりずっと速く、そして重い。

 彼の構える武器は、メーヴェで襲撃者が持っていたものによく似ている。でもそれよりもたぶん、はるかに性能がいいものだ——彼女の竜たちの話では。鎖のような、爪のような。なんという名前なのかフリッガには知識がないけれども、とにかく相手にしたことがない形状のもの。うまくあしらえるかどうか、分からない。

 後ろに手をやり、フリッガは自らも武器を構えた。焦げるような音とともに、彼女の周りが紅色に湾曲した光に照らされる。右手だけに鎌を構えた彼女の後ろでは、満月が地面を照らしていた。


 かつてキャリアは兵器として開発された。それはジオエレメンツの能力を行使できることはもちろん、単体としても有能な兵であるようにと。そしてキャリア=ノイとの混血種であるフリッガは、開発者の言によれば既に耐用年数を超えている。しかしランティスはたぶん、まだだ。身体能力だけで言えばあちらに分がある。

 次撃はすぐだった。それもかわすのが精一杯だった。

 頰の横をかすめながら戻っていく鎖は、いやな匂いを残していった。これは髪が焼けた匂いだ。ランティスはあの武器での攻撃に火竜の加護を乗せている。そんな戦い方を見たことがない。

「先代のサプレマは」

 ランティスが言う。顔を上げたフリッガに、彼は自分の眼帯を示しながら続けた。

「迷いがなかったよ。子どもであっても生かしておけば、将来また来ることを知っていたのかもしれないし、もしかしたら君と相対することになることも分かっていたかも。それでも仕留め損なったんだよ、僕を。だからこうして」

 彼はすと息を吸った。決して小柄な男ではない。だがやはり、速い。


 ランティスが放った炎は円弧を描き、瞬時に辺りを焼き払った。フリッガはそれを避けずに正面から受けた。

 燃え上がった炎が消えると、地面に扇の形にえぐれた跡がある。奥で軽い咳の音。砂と煙が立ち上り、ランティスは相対者の姿を一瞬見失った。

 背後で数人の声がして、ランティスは思わず振り返った。後方で待機していた連中の灯りが見えない。声がするから生きてはいるのだろうが——風か、と呟くとランティスは前に目を戻した。


 フリッガの構えていた武器は、暗闇の中であればもっと主張するはずだ。なのにどこにも気配がない。

 目を泳がせた彼の脇腹を、煙の向こうから飛んできたいくつもの氷片が擦っていった。ランティスはその飛んできた方向にフリッガがいると見当をつけ、鎖を払った。

 その先に何か柔らかいものが絡まる感触がある。力任せに引くと、少しのひっかかりの後急にそれは抵抗なく戻ってきた。何を捕らえた? そしてどうなっている。

 ランティスは手元に戻ってきたものにこびりついた燃えかすを見、目を見張った。

 髪だ。あれだけ長かったものを、それもこれは敢えて切った跡だ——


 途端頭上で熱を持った音がした。その紅色の光に彼は目を見開き、咄嗟に体をひねった。

 振り下ろされた刃は今ランティスがいた場所を深くえぐった。ランティスが飛びすさると、フリッガは立ち上がりながら振り向いた。

 その顔にランティスはうすら寒さを覚えた。手にした刃の光に照らされた彼女の瞳は、あの魔女の目の色と変わらない。


 ランティスは息を整えた。服についた砂を払い、フリッガを睨みながら一歩ずつ、間合いを測るように距離をとっていく。フリッガもじりと後退った。目はランティスを捕えて離さない。

 獣のようだ、とランティスは思った。

 足を止めたフリッガはそこで大きく息を吸い、まっすぐランティスに襲いかかった。かわそうとしたランティスの頭がぐらりと揺れた。

 足元、いや地面だ。先代サプレマは地竜とは契っていなかった。油断した。ランティスは舌打ちをした。

 大きく足を引いて踏みとどまり、彼は片手をついて力を込めた。その周囲にごうと炎柱が立ち上る。相手の間合いに入るわけにはいかない。この壁は彼を守るためのものだ。ああ、しかし——魔女は、もう、真上にいた。


 ランティスからは、フリッガが彼の背後に降りてくるまではとてもゆっくりに思えた。

 背後から首に腕をかけられ、引き倒される。そこで急に、時間の流れが戻ったように感じた。

 フリッガはランティスの腕を踏みつけ、その顔を見下ろした。


「余裕じゃないか」

 仰向けに倒されたままのランティスがへらりとした顔で言うが、フリッガは表情を緩めない。

 彼女はそのまま少しだけ目を横にやり、再びランティスを見下ろすと、片手の鎌を握り直し、空いたほうの手を払った。

 炎柱がかき消えた。それでも彼女はランティスに直接手を下さない。

「早くとどめをささないと起き上がるよ」

 ランティスは踏まれたままの手を握ったり開いたりしてみせる。それを睨んだフリッガはもう一度、今度はさっきとは反対側を見て、不意に表情を緩めるとランティスから離れた。


 ランティスは訝りながら背を起こした。

 フリッガが動く気配はない。ランティスは立ち上がり、服についた砂を叩き落とした。その間もフリッガは少し困ったような顔をして、目の前に突っ立っている。

 彼女の髪は耳の下くらいでばっさり絶たれていた。

 ランティスは口を開こうとし、急に思い出したように足元を見、それから左右を見て、ああ、と呟いた。彼が今いるのは、国境のアドラ側である。

「そうか。僕はこっちまで押し戻されたのか」

「お迎えが来てます」

 ランティスが振り返ると、後方から歩いてくる人影が見えた。その真ん中に大きな水色の帽子をかぶった少女がいる。爛だ。後ろに引き連れているのは、そう思って目をこらしたランティスは思わず声を荒らげた。

 あれはさっきそこにいた人数とは段違いだ。ほとんど全員を、しかももれなく武装させて、これでは。

「馬鹿! ユーレは——」


 爛はランティスを一瞥だけし、無言で手を挙げた。背後の兵のひとりが白旗を掲げた。しかし彼らのいるのはまだアドラの領内だ。

 爛は呆然とした表情のランティスのところまで、急ぐこともなくいつもの足取りでやってきて、ぴったり国境の手前で止まるとフリッガに手を差し出した。

「殺さずにおいてくれて助かった。礼を言う」

「ええ? こちらこそ……?」

 事情を今ひとつ飲み込めないまま手を握り返したフリッガから目を外し、爛はランティスを見上げ、手招きをして彼をしゃがませた。


 耳打ちをされたランティスは声を上げて笑った。笑い声を直に受けた爛は、うるさくてたまらないといった顔をして再びフリッガに向き直った。

「スペクトが暴徒化した民の襲撃を受けている。我々はその鎮圧に加勢する必要があるので国境の戦線からは手を引きたい。幸いこれを私闘と看做みなせば両国間にはまだ開戦の事実もないのだが、如何か」

 鎮圧、と繰り返したフリッガは顔を上げ、遥かスペクトの方角に目をやった。

 あの黒い建物が林立する、重たい空気の淀んだ都市。ウェバのいるところだ。

「スペクトは今、どうなって……」

「ナハティガルとドロッセルの市民を中心に、議会の解散を求める連中が大挙して攻め上っている。ファルケも制裁の準備を始めたと聞いた。暴動に巻き込まれたくない者が郊外に避難し始めているから、いずれこの辺りまで来るかもしれない」

「ここまで?」


 フリッガは少し考え込み、ランティスに目配せをした。

 彼はその意図をつかみかねて一瞬愛想笑いを浮かべたが、爛から肘打ちを受け、すぐに真顔に戻った。

「そうか。では大変申し訳ないのだがサプレマには難民受け入れをご検討願いたい。宗教的な寛容の精神で、ここはどうかひとつ」

「それは正式な要請と受け取っていいんですか?」

「そう。少なくともナハティガルからの難民については、僕は同市の統治者として正式な申し入れをしても構わないはずだ」

 首を傾げて少し考えていたフリッガは、そうですか、と言うと頭を掻いた。

「じゃあ、わたしはそういう手続きとかよく分からないので、軍を通じて陛下に伝えておきます。それと、今さっきのわたしとあなたのは、宗教上の見解の相違に基づくただのけんかですので。寛容の精神で、そこも。よろしく」

「けんか。ただの」

 それにしては殺気立っていたが——半笑いで脱力しているランティスの横で、爛はまったく表情を崩さない。

 彼女は後ろに手を払い軍を引かせると、ランティスの裾を引いた。

「何をしている、しっかりしろ司令官。議会が待っている。鎮圧に向かわなければ」

「え? あ、はいはい。鎮圧ね」


 鎮圧鎮圧、と歌うように陣に戻っていったランティスと呆れた様子の爛を見送ると、フリッガは大きな安堵の息をつき、そのまましばらく下を見ていたが、不意に眉を上げてキャンプのほうを振り返った。

 

 彼女がキャンプに走って戻り、報告もそこそこに「ちゃんと言うから」をちゃんと言わせた数日後、ゼーレを介して連絡があった。

 スペクト入りした鎮圧軍は、市中に入るなりあっさり市民側に寝返った、と。

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