1 空と境界
爛の要請を受けた燦は、すぐに行動を開始した。
ランティスらを見送った後も身を寄せたままであったナハティガルの市庁舎を降り、彼はニンバスに向かった。
スペクトと違いナハティガルでは彼の顔はそう知られてはいないとはいえ、そもそも今回の戦端とされたのが彼だし、何より火竜を唯一神と崇めるドラクマ派を国教とするこの国である。人離れした鮮やかな赤い髪と目を持つ彼を、警備員は止めなかった。
燦はニンバスに火を灯した。ナハティガル市民はすぐにそれに気づいた。
その砲台は軋んだ音を響かせながら、実に数百年ぶりに向きを変えた。射線はファルケを逸れた。
そこまでの稼働をさせてニンバスを離れた燦は、それから市街地に向かった。それもファルケとの国境に近い、どちらかといえば低所得者層が住まうエリアである。
ざわつきながら集まってきた市民に向き合い、メディアを呼ぶよう呼びかけて、彼はこれまでの経緯を淡々と語った。燦がスペクトを離れたのは身を守るためであったことも、ユーレのふたりはそれに協力しただけであったことも。
それとは違う経緯を前提に派兵を決めたナハティガル議会は、間もなく混乱に陥った。
燦の手はそれだけではない。ファルケにはエレアがいる。
ノヴァの襲撃後、ファルケ議会は組織としての形を立て直すため即座に議員選を行った。反アドラの気を吐いた者が圧倒的に強かった。議場内で起きたことが全て記録され、公開されたからだ。
エレアが己の雇い主に提供したその映像は、ファルケでは一般にはもはやほぼおとぎ話のような扱いに落ちていた竜の存在を内外に再認識させた。
襲撃者は人ではなく、そうであるがゆえ、その悪意に対して人は無力である。そしてそれに対峙しファルケ議員を守ったのもまたサプレマの竜であった。その膝元であるユーレが侵略の危機に瀕しているという事態は、ファルケの今後の立ち位置について市井の意見を偏らせる絶好の理由となった。
そしてアドラのもうひとつの大都市、ドロッセルにも時を同じくしてファルケの映像データが流入した。
もとより侵攻については懐疑的な向きの強かった都市である。そのデータは即座にコピーされて増殖を繰り返し、あっという間に市民に浸透した。
アドラという国にあって、経済の中心たるドロッセルは言論も集会も比較的自由だ。それはこの都市を治めるラケシス家の代々の方針であり、熾もまたそれを愛していた。だからそうして育まれたこの都市の性は「自由」である。
市民は合意なきルールを受け入れない。暗黙裡に敷かれたコントロールであれば尚更だ。それはおおよその場合「悪」である。
正義を振りかざせる人間は強い。暴力的なほどに。そうして人間はいつも、対立する正義のひとつを選び取るために争ってきた。自らの正義に沿った平和を求めて。
ドロッセルはこれまで、振れ幅の大きいアドラの中で、経済力を盾に中立中庸を保ってきた。しかし国の中枢が破綻を
あれはどれほど前になるだろうか。さすがにここまでの急激に状況変化を予想はしていなかった。だからドロッセルの被る痛手も分析が済んでいない——しかし。
騒がしさがいつもとは質を異にし、物々しさすら感じさせる目抜き通りを見下ろす執務室で、熾は向かいに掛けた爛との話を終えると長いため息をついた。
「協力しましょう。我々はあれを切除するときです。後のことは後でも取り返しがつく。ここで立てばね」
爛はにやと笑った。一矢は報いることができる。そして、あわよくば。
ランティスへの増援決議が通って間もなく、燦の主導でナハティガル議会は機能不全に陥った。そしてそのころ市内で起こったデモは準備を整えた軍の出立を著しく遅らせた。
ランティスのもとには、戻ってきた爛が報告をした。
援軍は遅れる。爛はいつも表情が乏しいくせに今回ばかりはこの上なく残念そうで、ランティスはあまりのわざとらしさに思わず吹き出した。ドラクマに下る前には暴虐の限りを尽くしたなどと言われる、元来戦闘的な火竜である。白い魔女と竜を追い詰めるのが楽しくないわけがないのだ。
そうして笑ったまま、ランティスは考えた。面白いように進んではいるが、仮にもしまだ自分がナハティガルにいたとしたら無事で済んだだろうか、と。場合によっては当主の座すら危うかったかもしれない。決裁はするものの実質的な決定権はほとんど議会に委ねてきた自分だから容赦してもらえるだろうか。まあ、今の立場に未練があるわけでもないし、そうした煩雑な政務を全て忘れて都市構造や建築の研究に没頭できるならそれより幸せなこともないが——彼は頬杖をついて眼帯の上から瞼を掻き、遥か逆側の国境で、地平線の向こうのナハティガルを眺めた。随分のんびりと。
そういう彼を嘲笑うかのように、スペクトは伝令を寄越してきた。援軍を待たずに攻めよというものだった。
陣中はざわめいた。人数からして勝ち目がない。だからこそ追加派兵を要請したというのに分かっていないのか、と。
もちろん分かっているだろう。ランティスは落胆した顔は見せたが、それでも静かだった。
ウェバはドラクマの血を絶やそうとしている。ならばこんなことは想定の範囲内だ。
彼はテーブルに置かれたその通達に目を落とし、幾分黄色みの強い紙の下の方、アドラ議会の議長名が記された部分を人差し指でなぞると、手のひらを返して指の隙間からそれを眺め、そして肩を落とした。
不要な犠牲者が出る。そもそも必要な犠牲などあるのか自体疑問ではあったが、かといって指示を無視したら——ファルケで起きたのと同じことが、ここでも起きる。
ウェバにとっては、アトロポス家が途絶えるか、または建前どおりアドラ軍がユーレ国境を攻略するか、いずれかが成ればいいのだ。そして後者は現状、見込まれる犠牲に比べ望みが薄い。ならば。
ランティスは独断でユーレに申し入れをした。
同行していた部下らが猛反発する中、ユーレ側からの返事はすぐに、諾のサインとともに返ってきた。それを周囲にひらひらと見せつけるようにすると、見るからに落胆した周囲に苦笑して彼はその返事を改めて見直した。
あのサプレマは予想外の達筆だった。彼は口元を緩め、天を仰いだ。
後三日。猶予はそれだけしかない。
「人間はずっと昔、あそこから落っこちてきたんだと思うんだよね」
「は? どこ」
あそこ、とフリッガは濃紫の夜空に浮かぶ満月を指差した。
時折砂の舞う、キャンプの端のほう。国境を挟んでランティスらとは向かい側、ユーレの領内だ。
荒れ地に張られたいくつものテントから淡く灯りが溢れ、その内のひとつの裾を敷き込むようにして座っていると、中の声がくぐもった音となって背を伝ってきた。
「まさかと思うけどお前……」
眉を顰めたヴィダに、フリッガは肩をすくめた。
「分かってるよそんなん。そうじゃなくてさ、なんていうの、感覚的に、こう……」
なんかこう、じっと見てたらほら、などと続けながら彼女は広げた両腕で大きく半円を描くと、その先を閉じることなくすぼめ、上に逃がしてみせた。そうして、ほらほら、と同じ動作を繰り返す彼女を、ヴィダは頬杖のまま気の抜けた顔で見ていたが、しばらく考えてからぼそりと口を開いた。
「フラスコ……いや、タマネギ……?」
「ああ、そう、そういう形の……?」
首は傾げたものの、まあいいやと呟いたフリッガは続けた。
「空がそういう感じで壁でさ、そんで月が出口で。中に自分がいて、タマネギみたいな形の瓶の中に。で、落っこちてくるのはいいんだけど、逆にここからあそこに向かって落ちるってなったら怖いなあ、とか思うわけ。落ちるっていうか、吸い込まれるっていうか、そしたらもう戻ってこられなくて、ずっとひとりだし。そう思ったら、空見上げるの怖くない?」
「ない。というかまず考えてみたことがない」
そうなの? といかにも残念そうに返したフリッガは、それでもまたすぐに顔を上げた。
「竜がわざわざキャリアを探す理由を考えてた」
「そんなん連中それぞれなんじゃないの」
「それはそうなんだけど。でもやっぱり、みんなどこかで、ひとりは嫌、誰とも話せないのや触れられないのは嫌って思いがあるんじゃないかなあ、それでなのかなあ、とか思って」
ヴィダは、ふうん、と緊張感のない返事をしながら同じように空を見上げた。
この世界が瓶の中なら——そう考える。生まれて初めて、今、無理やり考えた。
あの明るい月は天の冠、蓋の裏側、瓶の口なのだと思い込むことにしてみた。そうして夜空を見上げると急に足元が不安になる。にわかに背中がざわついて、彼は思わず身震いした。
彼を呼ぶ声がする。急に仕事用の声に変わって立ち上がった彼を、フリッガはまじまじと見上げた。
これが彼の軍人としての、あるいはナイトとしての姿なのだ。けれどそれも彼であることには変わりがない。自分も呼ばれるのにはいつもどおりの返事をし、彼女も砂を
「そんじゃそろそろ行ってくる」
「ああ。しっかりやってこい」
フリッガは両手を腰に置き、大きなため息をつきながらうつむいた。
決して気が進むようなことではないのだ。これから彼女はランティスと、いわゆる一騎打ちをする。それが敵方の提案だからだ。
アドラ側の事情はなんとなく分かっている。ランティスは一番、犠牲の少ない方法を選んだ。そしてユーレもそれが一番、犠牲が少ないと踏んだ。
とはいえランティスも投降するわけではない。彼には彼の守るべきものがあるし、アドラという国のこれからを考えるなら、彼が自分の身を安売りしたがらないことくらいフリッガにも分かる。だから彼は可能な限り抵抗するだろう。
フリッガとて対キャリア戦など数えるほどしか経験していないし、それが爛のような強力な竜を従えた相手とであればなおのことだ。
こんなに張り詰めた気持ちになったのは戦地でも初めてだ——彼女は胸に手を当て、もう一度息を吐いて、ふと思い出して懐を探った。
スペクトで預かったままの指輪がある。彼女がそれを手のひらの上に置いて、それから横を向き口を開きかけたところで、遮るようにヴィダが言った。
「持ってて」
「え?」
「戻ってきたらちゃんと言うから」
「え? あ。はい」
じゃあ行ってこい、と言ってヴィダはフリッガの背中を叩いた。そうして前に押し出されたので、彼女からは彼の顔は見えなかった。
フリッガは踏みとどまった場でもう一度手のひらの上の指輪を見下ろし、無言で左手の指にはめると、振り向かないままその拳を突き上げた。
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