3 再び竜の舞う日
「さて、どうするね。ナイト=シュッツ・コンベルサティオ、いや。コンベルサティオ卿」
キュルビスは両脇に軍人を、背後に弓兵を従えて、片足を投げ出すように姿勢を崩し、腕組みをしながら言った。
デュートが隣を見ると、彼は相変わらずどうでもいいといった風情でそこに立っている。常から表情のあまり変わらない(デュートの前では、という意味だ)男であったが、それはこんなふうに相手を小馬鹿にしたような顔ではなかったはずだ。
なんなのだろう、この違和感は。デュートは視線を下に向けた。
靴を脱ぎ捨てて裸足になってしまったから、壁のガラス沿いに敷かれたタイルを踏む足の裏には床の感触が直に伝わった。わずかに、とんとん、とんとんと、誰かが階段を上がってくる音。軽やかな音も、少しゆっくりしたものも。
誰だろう。顔を上げる。弓兵の列の向こうになっていてよく見えないが、扉は閉じられていて階段の方の様子はまったく窺えなかった。
「実を言えばな。私は、貴官にはこれでも期待していたのだ」
デュートは手前に目を戻した。キュルビスが見ていたのは彼女ではなく、その隣だった。
「我々としてもかなり冒険的なプランだったのだよ。陛下が列騎を決めた後、それに見合う肩書と
デュートは眉を寄せた。キュルビスの話は、この計画が何年も前から準備されていたことを意味している。そしてそこで、デュートがなした叙任は計画のトリガーのひとつとして利用された。
「しかしそうして、我々がお膳立てした地位に貴官はそれなりに応え、それなりの成果も出した。貴官はくどいほどに部下を見捨てないから、貴官を評価する者も、慕う者も思った以上に増えた。だからね、私は貴官が、自分の部下が捨て駒にされかけているのを見れば、その場で最低限の対応を図ることを優先して国境に残り、ここには来ないと踏んで、それ相応の準備もしていたのだよ。貴官が帰国したときの部下はいじらしかったろう? ところが貴官は戻ってきた。部下を捨て置いて」
キュルビスは一歩踏み出した。デュートたちは動かない。ただ彼の話を聞いている。
「我々の本丸は王権を失墜させることであり、貴官の処遇は本質的には重要ではないのだ。むしろ未来の話をするならば、有能な人材は確保しておきたい。どうだね、こちらと手を組まないか。国境に残らなかったところを見る限り、貴官はもう合理的な犠牲は甘受するつもりでいるのだろう。それは我々に近い考え方だ」
一拍置いて隣からため息が聞こえ、デュートは横を見上げた。彼の瞬きは緩やかだ。それだけで人を煽り立てるほどに。
「どういう返答を期待している」
「どうだろうね。ただ断れば陛下と合わせて不名誉をかぶってもらわねばならない。その場合、若きナイトの苦悩と凶行の動機は我々が考えることになる。政権の奪取、横領の隠蔽、痴情の
キュルビスの声もまた、淡々としている。デュートは唾を飲み、ふたりを見守った。
断続的に伝わってきていた足音は、もうかなり前から消えている。デュートは顔を上げ、扉のほうを見た。開いた様子も、誰かが入ってきた様子もない。ならばさっきの足音の主はどこにいるのだろう——彼女が眉を顰めるのとほぼ同時に、隣の「若きナイト」が口を開いた。
「お前の推測はおおむね正しかったよ。だからそれに敬意を表して、どうすれば『それらしい』のか意見を聞こうと思ったが、そこに答えを持っていないということは、そういう選択肢は実際にはないのだろう。ならこれからすることは変わらない」
キュルビスが目を細め、足を引いた。つがえた矢を一度は下ろしていた弓兵が再び構えたが、それを意に介さず彼は続けた。
「正確に言うなら、お前の推測は方向としては正しかったが、前提事実が間違っている」
「どういう意味だね」
正面から睨みつけてくるキュルビスの視線を往なすように、彼は肩越しに視線を落として外を見た。
確認できる範囲に人はいない。再び前へ目を向けて彼は続けた。
「お前のいう『若きナイト』だが、お前の考えたとおり国境に残って部隊の再編に駆けずり回っているよ。アドラは今の配備状況を所与のものとして派兵するだろうから第一陣の迎撃はどうにかしてみせると言っていたが、詳しくは知らない。何か考えはあるのだろう」
キュルビスは眉を顰めた。それを尻目に話は続く。
「グライト郊外で演習中の連中のところには、国境までの輸送訓練の指示が出ている。調べれば出処不明の指示なのでどれだけの数が応じるか知らないが、まあ演習自体もやや不興を買っているようだし、
「何の話をしている」
「お前の事実誤認を正しているだけだ。聞きたくないならやめる」
キュルビスは答えなかった。
「では本題に入るが、お前は相手の手駒を見落とした。だから相手の採れる選択肢も見誤った。もっともその見落としは恥ずべきものではないよ。お前たちが動き出したのが十年前、こちらの仕込みが十五年前、それだけのことだ」
「十五年前だと」
これまで眉を寄せながらも平静を保っていたキュルビスの声がわずかに揺れた。しかしデュートは彼ではなくその後ろの弓兵のほうを見ている。そんなデュートをふいと見下ろし、話は続いた。
「サプレマだが、見晴らしがいいからといってここで水源管理について市民と話をするつもりだったらしい。能天気なことだ。呼ばれて苦労して階段を上ってきたというのに、まさかこんなことに使われていて中に入れないとは思っていなかっただろうな。客人は」
弓兵の数人が弓を下ろし後ろを振り返った。扉の向こうは静まり返っている。
キュルビスの喉がごくりと鳴った。彼は緩やかに右手を上げながら口を開いた。
「お前が誰かは知らないが、出頭要請に身代わりで出てくるとはいい度胸。あるいは本人が国境に残っているというのが嘘か、いずれにせよ処分を免れるものではない。陛下、こちらへ。そこにいては危険です」
キュルビスの言葉は扉の後ろを意識したものだ——ならば。
デュートは
「いいえ、断ります!」
閉じられていた扉がごとりと鳴り、その向こうからざわざわと声が聞こえる。
もう少し、そう、もう少しだ。もう少し保たせれば味方が来る。デュートは己を奮い立たせた。
「キュルビス」
彼女は顔を上げ、毅然とした声で言った。弓兵は動きを止め、キュルビスは目を細めた。
「後ろの皆も聞きなさい。確かに私は頼りない国王です。ですがだからこそ、この国のあるべき形を決めるのは私でも一部の軍人や議員でもなく、国民だと思っている。今もそれは正しいと考えています。少なくともこんな形で決めるような話ではないはず」
キュルビスは目を細めたままそれを聞いている。
自分の弁では彼の手を緩めさせることはできない。デュートは唇を噛んだ。
自分がここで死んでしまえばシュナベル朝は途絶える。ならば投降するのか。隣の男だけをひとまず犠牲にすれば、扉の向こうにいるであろう人間への建前からキュルビスはデュートを立てるだろうし、それで彼女も一旦は死を免れることができるだろう。でもその後は?
重い扉ごしに、陛下、と声が聞こえた。聞き覚えのある、ああ、これは。
サプレマだ、と思った瞬間に扉が開き、そしてキュルビスの手が振り下ろされた。
幾本もの矢筋が撃ち出された。デュートは強く目をつぶった。しかし彼女に届いたのは背後のガラスが粉々に割れ散り、金属が擦れる耳障りな音だけだった。
おそるおそる目を開くと、目の前を赤い膜が覆っている。黒い金属の骨組みの間に張られたものだ。顔を振り向けると、それは耳に刺さる音を立ててしなった。矢がばらばらと落ちた。翼だ。
デュートが見上げた顔には、もうあの傷痕はなかった。
これは「本人」ではない。ならばさっきの話は全て、真実だ。
「あなたは一体……」
「後で」
デュートが言葉を飲み込むと、彼は一歩前に進み出た。
もうその背にさっきの翼は見えないが、警備兵もキュルビスも見ていたはずだ。そして背後にはフリッガが招いた市民。老いたものも、若いものも。それはデュートを勇気づけた。
あの市民たちは、あの足音の主たちはきっと、ここでの話を扉の向こうで聞いていた。ならばキュルビスに逃げ場はない。そこまで考えて、デュートは息を飲んだ。
弓兵が次の矢をつがえている。その間から抜剣した警備兵もにじり寄ってくる。
追い詰められているのに変わりはない。後ろに壁はない。ならば先に退場させられるのは——後退ったデュートの踵が窓枠にひっかかった。
「プレト!」
フリッガが叫ぶのと、矢が放たれるのとが一緒だった。
再び羽搏いた翼が風を巻き起こし、それは無慈悲にデュートを空に押し出した。
ぐらりと頭が揺れた。デュートは前に手を伸ばした。でもそれを取るものは誰もいない。あの男の姿もなかった。
そうか、暗愚の王だったのだな、そう思って彼女は目を閉じた。自分の、かつて助けてもらったという、そんな私情からの失策が全てを引き寄せたのだ。底抜けの青空が見えた。
宙に舞ったデュートを、室内の誰もの目が追う——フリッガを除いて。
彼女は市民をかき分け、床を蹴って飛び出した。急激に伸びていく温室の蔦が警備兵を足元から引き摺り転がし、キュルビスまでの道を空ける。フリッガは腰に手を回すと、彼女の得物を引き伸ばし、その柄を思い切り振り上げて、キュルビスを背後から殴り倒した。
動ける軍人が走り寄りながら剣を構えている。フリッガはキュルビスの背を膝で押さえ、衣装から飾り紐を一本引き抜こうとしていたが、やばい、と呟くと屈んで切っ先を避けようとした。もっともそれは振り向けられることはなかった。市民の後ろから、涼しい顔をした水竜がすたすた歩み出た。
「マスター。紐は足りますか?」
そう言いながらそあらは両手にじゃらりといくつもの手錠を示して見せた。
転がったままの警備兵の間を縫って、老人が
女王が落ちて、そして直後に警備兵と軍人とが引き倒されて、その喧騒で何も——おそるおそる這いつくばって覗き込むと、覚悟していたものはそこになかった。その代わり老人は、地面を大きな影が滑っていくのを見た。
十五年ぶりにユーレの空に現れた黒い竜はデュートを乗せ、今度は静かにしなやかに、かつてのあの河畔に降り立った。
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