4 砂煙の向こう

 背中に馬乗りのフリッガを振り返りながら、キュルビスは何か言った。フリッガは眉間に皺を寄せ、立ち上がるとキュルビスを引き上げた。

 後ろ手に縛られたままの彼の衣服は、倒されたときに土で汚れている。それでも、その地位を表す四本のラインで裾を飾られた彼の姿は弱々しくも、情けなくもなく、尊厳を保っていた。

 フリッガはそあらに後ろを任せて彼の前に回り、その土をはたき落としながら聞いた。

「何か仰りたいことが?」

「卿はどのようなお考えでいらっしゃるのか」

「どういう意味です」

「アドラを実際にご覧になってなお、この国が無為に今のままあろうとすることをどうお思いか、ということです」


 フリッガはキュルビスからあらかたの土や草を落とし終え、一歩下がって上から下まで彼を見てから答えた。

「わたしはそういう話題に意見する立場にないので」

「あれほど国防に利用されていながら。それをよしと思われていた?」

「それは、確かに……その、まあ」

「なのにこのような形で我々を止める」

 キュルビスはフリッガから目を逸らさない。縛られていることすら忘れるくらいに堂々として、卑屈さなど無縁だった。

 彼は自分が正しいと信じている。フリッガは一瞬気圧されそうになり下を向いたが、気を取り直すように、そうですね、と呟いて顔を上げた。

「わたしは信じるのが仕事です。そして、わたしが何を信じるかはわたしが決める。たぶんわたしは、あなたほどにはこの国の状況に絶望できていない。だからあなたとは信じるものが違った」


 キュルビスの頰がわずかに引き上がるのが見えた。

 その後ろに新しい足音がばたばたと聞こえる。ここに招いた客人のひとりが気を利かせて王宮警護官を呼んできたのだ。目を白黒させているその警護官には、そあらがことの次第を説明した。

 キュルビスのさっきの表情はたぶん、引きつったのではなく笑ったのだろうな——フリッガはそう思いながら、引き渡された彼がうつむくのを見た。


 彼のさっきの顔が、フリッガやヴィダの若さゆえの浅慮を嘲笑うものであったのか、それとももっと素朴な緩みであったのかも、彼が描いていた未来も、何もフリッガには分かりはしないけれども、彼は彼なりの正義をもってこの方法を選んだのだとは思う。そしてそれはうまくいけば、彼の言う「合理的犠牲」のほかには失われるもののない方法だったのだろう、とも思う。

 だからこれからすることは、彼の計画を潰して、そして彼の正義を踏みにじってでも成し遂げる意味のあったものでなければならない。

 フリッガは両手で頰を叩くと、そあらたちを置いて階段を二段飛ばしで一気に駆け下りた。


 玄関を出るとイザークが待っていた。

 王宮警護官がばたばたと出て行ったのでどうしたのかと思って、などととぼけた顔で言うが、たぶん彼はだいたいのことを理解している。フリッガが「すぐに総司令が連行されてくるので」と伝えてみても彼は驚いた様子を見せなかったからだ。それどころか彼はさも面白そうににやにや笑い、任されよう、と言った。

 フリッガは手を合わせてさっと礼を述べるや王宮の敷地を飛び出て市街地へ向かった。

 女王の下りた場所には今は黒い竜だけが残って丸まっていたが、その周りを市民がぐるりと取り囲んで人だかりを作っていたので、居場所を見つけるのはとても簡単だった。十五年前のこととその竜とを結びつけて考えている者がいなさそうなのは僥倖だった。


 デュートは近くの薬屋に招き入れられ、そこで傷の手当をされていた。幸い彼女の怪我は小さな切り傷がいくつかあるだけだったが、治療に当たった店主のオデッサ・シュバイカーは少し大げさなくらいに包帯を巻いた。

 デュートはオデッサの作業が終わるのを待つと立ち上がり、勧められた履物を断ると、オデッサそれから回りの市民に深々と頭を下げた。

 そこにいる者には王宮でのことの次第を詳しく知る由もないが、温室のガラスが砕け散り女王が落ちるところを見ていた者は複数おり、緊急事態であることだけは全員理解している。王宮に招かれた連中が戻ってきたら、詳細が知れ渡るのはあっという間だろう。


 デュートはフリッガが入ってくるのに気づき、それにも頭を下げた。

 フリッガは具合を尋ねながらデュートの前まで歩み出た。

「お怪我は大事ありませんか。ちょっと乱暴で申し訳なかったんですけど」

「大丈夫です、ありがとう。驚いたけれど、その……いろいろ」

 半ば笑いながらそう言ってデュートは扉のほうに目をやり、「彼は」と聞いた。

「彼?」

「形だけとはいえ聖地を統べる国の王をしていながら、目にしたのはもしかしたら初めてで……あれが竜?」

 フリッガは一瞬上を見て、ああ、と気の抜けた返事をした。

「置いていきます、念のため。これから王宮にお戻りになるでしょう? 残党がいないとも限らないので」


 デュートは瞬きをし、それから悪戯好きの子どものような笑顔を一瞬浮かべたかと思うと次の瞬間にはもう元の顔で、そうね、と答えた。

 フリッガは少し意外な気持ちでそれを見、それからもう一度女王を上から下まで眺めた。無礼かとも思ったが——踵の高い靴を履いていない彼女は、フリッガが思っていたよりずっと小さかった。

 一歩下がって胸に手を当て、フリッガは言った。

「わたしはこれから国境へ参ります。陛下はどうぞ、陛下のなすべきことを」

「分かっています。あなたがたはくれぐれも気をつけて、どうぞ。どうぞご無事で」

 笑って頷いたデュートは手を差し出した。フリッガはそれをしっかりと握り返した。

 


 星室庁で馬を借りたいと申し出たところ、フリッガに貸し与えられたのはイザークの選んだ一頭で、彼女はそれを有難く受け取り主の許へと急がせた。


 アドラ軍はナハティガルのランティス=トレンタ・アトロポスが司令官を務める部隊である。フリッガの覚えている限りではランティスはこちらに協力的だったが、その理由を彼女はウェバへの反感からとしか認識していない。そうであればそれはいつまでも抵抗を続けられる根拠にはならないだろう。

 ウェバは表向きには常に「正しい」のだ。人の作った社会の仕組みを、彼女はそうして利用する。


 ランティスの顔を思い出す。スペクトの店で爛と一服していた彼は朗らかで穏やかな青年だったし、その後ナハティガルで相見えたときも、そしてそこを去るときも、彼のフリッガの扱いは(外向きにはそうでなくても実際には)歓待といっていいものだったと思う。

 ナハティガルの市民が彼をどう思っているのかをフリッガはよくは知らなかったが、市内をほっつき歩いていたネコはあの町をとても気に入っていたから、たぶん雰囲気も悪くなかったのだろうな、という程度には思っている。軍事都市などという、ものものしい立ち位置に置かれているにも拘らず、だ。

 だから、ランティスとヴィダとの采配を戦わせたくはなかった。

 勝敗がどうあれ必ず犠牲は出る。そしてふたりはきっと、自身の目標のためにはそれを厭わない。少なくとも、そんなそぶりを見せない。本当はかなり気に病むくせに、表では気にもしていない顔をする。

 それが分かっているから、そうなる前に何かできることをしたかった。


 国を守るためなどという大義名分は、フリッガには何の意味も持たない。それは今も同じだ。けれど。


 ひづめのリズムに合わせ、彼女の背中で乾いた音を立てているヴィダの軍装は驚くほど軽かった。

 これもこの国の海底資源のひとつを利用して作られたものだ。建国のはるか前、ずっと進んだ文明の時代に墜落した星々を渡る船の残骸から削り出されたのだという。相当の強度を誇りながらこの軽さは確かに重宝されるのだろう。でもそれが人命を奪ってまで手にする価値があるものだとはフリッガには思えなかった。

 彼女は後ろを振り向くと、それが確かにそこにあるのを認めて前に向き直り、馬を走らせ続けた。


 国境まではまだ遠い。自分がこうして向かっている間にもアドラ側からは敵が近づいているはずだ。

 国境警備に当たっている部隊は、フリッガがそこを離れた時点では心許ない規模でしかなかった。あの状況に変化がなければ一日とて防ぐことはできないだろう。アドラはそれを見越した派兵をしてくるのだから。

 ただそれは自分の恐れているものとは違うな、とフリッガは思った。

 国境が破られることも、アドラ軍が攻めてくることも、それ自体としてはフリッガにとっては大した問題ではない。怖いのは、それによって永久に失われるものがあることだ。


 キュルビスは、ヴィダが国境に残ると踏んで「それ相応の準備」をしていた、と言っていた。ならばあの、彼の回りを囲んでいた部下たちやジェノバは、その全てを信用することなど到底できない。

 何を信じていいのか分からない、それならば全てが信じられない。そういうところに今、ヴィダはいる。

 手元に目を落とす。父もこの装束に身を包み、何度も戦場に立った。

 血の臭いにまみれ、うめき声を切り裂き、それでも彼は必ず帰ってきた。それを待っていた娘は、今はもう待つだけの子どもではない。

 フリッガは前を向いた。

「勝手に死ぬなよ」

 


 遡ること数日。ジェノバに見送られるまま国境警備隊の司令部を出たヴィダは、そのテントが見えなくなった辺りで馬を降り、翠嵐に少し頼みごとをして、フリッガには自分の馬を預け、別れた。

 荒れ地の真ん中で頭を掻いた彼の後ろにはうーがいる。ジェノバはこの間、最後まで怪訝な顔でその猫を見ていたが、うーはうーで見事に普通の猫を演じきった。何せ彼はあの司令部で一言も言葉を発しなかったのだ(人の、という限定はつくが)。

 その彼が久しぶりに口を開いたのが、こうである。

「よく分かったね」

「何が?」

 司令部のほうへ足を踏み出したヴィダに、うーは見上げるようにして話しかけた。

「水」

「ああ」


 テントでジェノバに渡されたボトルを彼はその場で開けなかった。うーが水を欲しがっても彼はそれを渡さず、翠嵐からは「飲まなくて正解」とお墨付きをもらった。詳しいことまで聞く暇はなかったが、特定する必要もない。

 ジェノバがそのことを知っていたかといえば——知っていただろう。王宮警護官である彼が、わざわざあの場を任されていたのだ。ヴィダの同期であり、親交が深いことも当然知られていて、その彼をキュルビスは敢えてぶつけてきた。油断を誘うためか、そうでなければ試すためだ。

 ヴィダは立ち止まった。追い風が砂煙を巻き上げていく。はるか向こうに、さっきまでいたテントがうっすら見える。それを背にして、そこにジェノバが立っていた。


「出迎えご苦労」

 ヴィダはそう言い、腕を組みながら首を傾げた。足元からネコが少し不安げに見上げている。

 ジェノバは抜剣していた。白い剣身は一振りというよりは一抱えという大きさの、取り回しの難しさからこの国でもほとんど使われない得物だが、軍装に使われている素材と似たもので見た目よりは軽い。

 その切っ先は、まるでそれ以上は進ませないとでも言うかのように、主の手でざくりと地を突いた。剣の主が問うた。

「どうして行かない。なぜ戻ってきた」

「なんか気に入らなかったから」

 ジェノバは黙り込んだ。ヴィダは続けた。

「総司令か」

 ジェノバはヴィダを睨んだままだ。それが否定を意味しないことはヴィダには簡単に分かった。

 太腿の裏側に回ったホルスターから得物を取り出しながら彼は続けた。

「お前は志が変わった。そういうこと?」

「違う」


 ジェノバの語気は迷いない。ならば彼はやはり、王宮警護官という職務に誇りを持っているのだろう。この後の重用を期待しているわけでもない。

 ただ確実なのは、今彼がヴィダを歓迎するつもりはないということだ。今分かるのはそれだけだ。それだけだが——

叛逆者なんだな」

「そうだ。だから処分する」

 ジェノバの口の端が震えている。ヴィダは瞬きをした。あれは、迷っている。それならばやりようもあろうもの。

「かかってきやがれ。返り討ちにしてやる」

 ヴィダは親指を立て、それを返して地を指した。



 地面をえぐるようにジェノバが剣を抜くより速く、ヴィダは大きく踏み出すとジェノバの背後を取った。

 ジェノバが抜いた剣を振り向きざまに薙ぎ払うと風を切る音がする。ただでさえ届く距離にかなりの差があるというのに、軍装のジェノバに対してヴィダはほぼ防具のない旅装のままだ。一撃たりとて受けるわけにはいかない。

 上体を反らせてそれをすれすれでかわし、そのまま後ろに手をつくと、彼の手にある光の刃が砂を焼く音がする。一瞬気を取られたジェノバの顎を蹴り上げ、よろめいた彼から少し距離をとった先でヴィダは体勢を整えた。

 ヴィダのほうが上背はあるものの、防具の差は見てのとおりだし、武器のリーチもジェノバに分がある。さてどうしたものかと見た先に毛を逆立てたネコの姿を見つけ、ヴィダは口元に人差し指を立てた。「黙っていろ」ではない。「手を出すな」だ。

 そのわずかの隙を突き、ジェノバは大剣を軽々と、掬い上げるようにして振りかざした。その突端が鼻先を滑り、ヴィダの短い前髪を数本払って頭上で陽光を弾いた。

 後ろ足を引いたヴィダはすぐに姿勢を立て直す。あの取り回しの難しい道具のは動きが単調になりやすいことだ——ほら、振り下ろされる。


 自らの剣でそれを受け止める。海底遺跡から掘り起こされたジェノバの剣は、同じ時代に作られたウルティマ=ラティオにもやすやすとは屈しない。

 白い刃が、交差した翡翠色の光に阻まれ焦げ付きながら、じりじりと下へ滑り始めた。ジェノバの一撃は重い。このまま押し返そうとするのは悪手だ。

 少しずつ間合いを取りながら後退り、ヴィダはすらりと両腕を引いた。振り下ろされたジェノバの剣が地を割った。


 ヴィダはすと息を吸った。仕掛ける。剣を抜き戻す隙を突き、一気に間合いを詰めて首元へ。

 不意をつかれた顔のジェノバに見えるよう、ヴィダは左に持っていた得物を後ろに投げ払い、空いたその手でジェノバの喉当てをつかんだ。

 ジェノバの軍装はヴィダが慣れ親しんだものと同じだ。その弱いところも知り尽くしている。

 ヴィダはジェノバの喉元を押し開け、広げた隙間に右手の刃を突き立てた——ように、見えた。


 仰向けに倒れたジェノバに馬乗りになり、みぞおちを膝で押さえる。

 ジェノバは見開いた目でヴィダを見、なんだよ、と呟いた。

「なんでここでやめるんだよ」

「人手が多いほうがいい」

「協力しろと?」

「文句言うなよ。俺が見逃して残った命だ」


 ヴィダの握る、黒銀に鈍く光る柄にはもう刃が続いていない。ジェノバはため息をつき、砂の上で両手を挙げた。

「俺を信じられるとでも」

「信じるよ。だってお前、俺のこと好きでしょ」

「は?」

「じゃなきゃ毒殺なんてまどろっこしいことせずにあのテントで斬り殺してればよかったんだ。そんなに死ぬところが見たくないのにこんなとこで頑張んなよ」


 ジェノバは目を泳がせたが、もう一度大きなため息をつくと両手で目を覆った。

「お前のそういうところ、昔っから思ってたけど、ほんっ……とうにむかつくな」

「おうおう、首席修了者様だぞ。ひれ伏せ」

「この体勢でどうしろっていうんだよ、本当に腹立つなお前。ああもう、俺は死んだ。立ち上がらせろ、クソ」

 ヴィダはジェノバの右手を取ると、思い切り引き上げた。

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