1 蛇と狼


 議員からいくつかなされた質問に淡々と答え終えて、フリッガは女王に一礼し謁見室を辞した。

 これからすることは決まっている。元来た方へ足を踏み出すと、今閉じられたばかりの背後の扉がまた軋んだ音を立て、フリッガは思わず振り返った。


 先ほど彼女に質問をしてきた議員らが出てきた。そのうちひとりと目が合い、フリッガは会釈をして、彼らが反対方向に消えてしまうのを見送った。

 これであの部屋に残っているのは、フリッガが残してきた連れのほかには軍人と女王だけだ。ヴィダの予想したとおりだったとフリッガは思い、謁見室の扉を睨みつけた。これからその中で行われることに、彼女は関与しない。


 ここまで来た道を覚えている。階段を下り、ホールを通って正面玄関を出ると、王宮が地面に落とす影は来たときよりも伸びて、外階段の全てを覆い尽くしていた。

 フリッガはまず退城し、市内に向かった。途中でそあらと合流したのは、彼女が建国前からこの地をねぐらにしていた水竜であり、ユーレでもっとも親しまれながらも崇敬を集めるものだからだ。だから彼女の言葉は人々に届く。

 フリッガは、かつてはそれを利用することをなんとなく躊躇していたけれども——今はもう、そんなためらいはほとんどない。今は自分にできることを、自分にできる方法でやるだけだ。


 そうしてフリッガはグライトの有力者を訪ね、その者が集めた数人に話を通した。水源地の管理のことで話があるのだと言うと彼らはそあらを見、そあらはそれに澄ました顔で小首を傾げて見せた。

 話をするのに国内を見渡せるとちょうどいいからといって、フリッガは王宮の温室での面談実施を提案した。通常は一般立ち入りの禁じられる場所ではあるが、異論を述べたものは「階段を登るのが大変だ」と笑っていただけなので、招き入れられさえすれば後は問題ないだろう。フリッガはそあらをそこに残して次の用に向かった。



 王宮に戻り、彼女はすぐにイザークを探した。彼に伝えるようことづかったことがあったからだ。

 老人は簡単に見つかった。それまで軍人と立ち話をしていた彼はフリッガを見つけるや、そちらを切り上げてにこやかに歩み寄ってきた。おそらく向こうもこちらを探していたのだろうな、とフリッガは思った。

「謁見は無事に終わりましたかな」

「ええ、わたしは」

 イザークは尋ねながらもフリッガの後ろを気にしている。そこにいるべき人間を探しているのか、それとも誰もいないことを確認しているのか——フリッガが口を開きかけると、老人はそれを手で制した。

「立ち話もなんですしの」

「助かります」

 先ほどまで老人と話していた男は詰所にでも戻ってしまったらしい。しんとした敷地内には傾き始めた日の光と水の流れる音、それと控えめな鳥の声しかなかった。

 老人は匂いを集めるように周りを見回し、それから目を細めて、では、と敷地の一角を指差した。シューレの寮のほうであった。


 イザークは現在、養成所寮の一番端で起居している。彼はそこで寮監のような立場を与えられていた。

 国を出る前の彼の立場をフリッガは詳しくは知らないが、本人によれば歳を理由に要職は解かれたという話であった。とはいえ本人を目前にするとそんな必要があるようには見えなかったので、フリッガは思わず「そういうものなのですね」と感想を漏らした。

 老人は苦笑いしていたが、それが彼女の世間知らずに対してのものなのか、それとも老人自身もそう思っているということなのか、はたまた別の理由なのか、フリッガには分からなかった。もっとも、ヴィダの話ではイザークは、過去の功績が大きすぎて非常に繊細な立場にあるという話でもあったから、案外自ら身を引いたのかもしれない。


 とにかく彼はその、自分の部屋にフリッガを招き入れた。

 フリッガは一礼して中に入り、室内の様子を見て、なるほど、と思った。出国前のことだ。この件について初めて女王に呼ばれた後、帰るに帰れなくて泊まる場所を探したことがあった。あのときヴィダは、質素な部屋がいいと述べたフリッガに、王宮内にそんな部屋があるなら物置かここくらいだというような話をした気がするが、さもありなんである。

 そうして室内を見回していたフリッガにイザークは、そんなに珍しいかねと笑いながら椅子を勧めた。フリッガは慌てて頭を振り、その固い座面に腰掛けた。

 椅子はテーブルを挟んで同じものがもうひとつあるのみで、ほかの家具もこの上なく質素な使い込まれたものだけの、禁欲的ですらある部屋であった。


 背を向けていた老人が、カップをふたつ携えて戻ってきた。

 彼が差し出したカップは厚手の不格好なもので、中身は水だった。フリッガは素直にそれを受け取り、両手で包むように持って膝の上に置くと揺れる水面に目を落とした。

 底が歪んで見える。ちらと老人を見たら、老人もこちらを見つめていた。フリッガは意を決したようにカップを持ち上げ、その中身を一気に飲み干しテーブルに置いた。老人は声を上げて笑った。

「わしには人に毒を盛る理由はありませんので。ご心配なく」

「よかったです」


 彼女の次の言葉を待つようにゆったりと微笑むこの老人は、彼女の考えていたことなどお見通しだったのだ。フリッガは思わず苦笑いした。


 フリッガはそれからイザークに、ヴィダから預かった伝言をそのまま伝えた。そあらの浮虫を通じて彼が得ていたユーレ国内の状況とアドラの動向との一致や、現在の国境の配備状況。

 それらはあくまで彼が認識した事実だけを慎重に選びとって伝えるもので、彼がどう思っているのかの評価は含まれなかったが、伝える事実の選び方を見ればそんなものは簡単に推測できる。

 老人は目を閉じたまま聞いているだけだった。フリッガは言葉を終えると老人の顔色を窺った。

 老人は続きのないのを確かめるかのように少し間を置いてからうっすら目を開き、それにフリッガは思わず居住まいを正した。

「あの、これで終わりです」

「ふむ。ご苦労でした」


 イザークの表情からは、彼の心中を察することができない。フリッガは居心地の悪さを覚えて下を向き、膝の上で重ねた自分の手を見ていたが、イザークの長いため息が聞こえ、そろそろと顔を上げた。

 老人の広い額(そのうちの一部はたぶん、厳密には額ではなくて頭だ)には皺も寄っていない。フリッガは不安を覚えたまま老人の次の言葉を待ったが、それはまさに彼女が恐れたとおりの問いに聞こえた。

「卿自身はその話をどう思われるか」


 フリッガは困った様子を隠しもせず、ゆっくり首を傾げた。

 イザークはたぶんヴィダとは違うふうに考えているのだ——こういうとき、どんな対応が正解なのか分からない。でも。

「正直に、思ったままでよろしい」

 老人が促すので、フリッガは言葉を選びながら口を開いた。 

「わたし……わたし。わたしは、政治のことは分からないし、分かりたいとも思わないんです。これまでもそうだったし、これからもそうであれたらと思っている」

「まあ、卿は宗教者じゃからの」

「それもあるんですけど、なんていうのか……誰にも色をつけて見たくない、という気持ちがあって」

「色とは」

 イザークが目を細めている。フリッガは小さくうなり、意を決したように口を開いた。

「人を疑うことが当たり前の世界があることを知りました。信じてはならない言葉があることも。でもそれを受け入れたくない気持ちをどうしても捨てきれないし、無視もできない。だからわたしは、そういう世界とは距離を置こうと思うんです」

「それは逃げじゃろう」

「そうです。それでもわたしはその生き方を選ぶ」

 老人は彼女の顔をまじまじと見つめ、不意に視線を下に向けてから顎を撫でた。

 髭のきれいに処理された、つるりとした顎だ。膝に目を落としたままのイザークを見ながらフリッガは続けた。

「わたしはそうして、わたしの直感を、信じたいと思ったものを思うまま信じようと決めました。ですからわたしには、誰かの言葉を嘘か本当か、信用できるのかどうかを判断する資格がありません。そうである以上は、彼の言うことを正しいと考えるしかない」

「卿はあれが、卿に本心を話していないとは?」

 フリッガは黙り込んだ。イザークの指摘は彼女の不安を的確に貫く。しかし。

「分かりません。でも正直に話してくれてると信じてます」

「もし騙されていたと分かったら、どうするかね」

「そうですね、そしたら」

 フリッガは懐を押さえながら少し考え、それから苦笑いとともに答えた。

「……怒るかもしれません。すごく」


 イザークは大きなため息をつくと、少し難儀そうに立ち上がった。

 彼はゆっくりした足取りで窓際まで歩いていき、鍵を開けると外の空気を部屋に入れた。吹き込んだ生温い風は湿った匂いを乗せ、さやりとフリッガの前髪を揺らしていった。老人はそこで外を見ながら口を開いた。

「のう、卿」

「はい」

 返事はしたものの老人の口ぶりは半ば独り言のようで、選ぶようにして紡がれる言葉が持つ重さはフリッガにはつかみきれなかった。

 老人は言葉の続きを待つ彼女を置いたまま、窓の外に見える塔をしげしげと眺めてから目を戻した。


 彼の顔は差し込む光の下、とても穏やかだった。

 鳥の声はいつの間にか消えている。あまりに静かなその部屋で、王宮を挟む運河を流れる水の音は、足元から聞こえているのではないか不安になるくらいに近く感じた。

 老人が口を開く。フリッガは息を飲んだ。

まつりごとの場など大抵は毒蛇の巣になるものじゃ」

「はい」

「とはいえそんな修羅の庭でしかつけられぬ決着もありましょう。それを牙を砕く力を持たぬ者がそうするならば、わが身の毒を武器とすることもやむを得なかろ」

 イザークの言葉は分かりやすくはなく、フリッガはそれを時間をかけて咀嚼しなければならなかったが、彼は待ってくれた。

「奴の思想をわしは知らん。そんなものには興味もない。ただ、そうさな。卿は皆がはらに毒包む蛇になるとき、敵味方をどう区別するか分かりますか」

「いえ……」

 言い淀んだフリッガに、老人はわずかに頭を下げて続けた。

「意地の悪い質問をいたしました。わしは人間を敵味方や善悪のいずれかに分けて考えることは、分かりやすいがゆえに大変魅力的でもあるが、いつか己の身をも裂くものだと思うのです。それでわしは、これでも人に敵味方の色をつけることは避けてまいりました。自分なりにという言い訳はつくし、もちろん好き嫌いはかなりはっきりあるがね」

 イザークはいたずらっぽく笑って見せた。フリッガは瞬きをして、続きを待った。

「あの子は自分の筋はたとえ独りになっても通すでしょうよ、昔からとびきり頑固だったのでな。じゃからあれの立てた道筋に異を唱えても無駄、あれの指示には理由がある。指示していない理由もです。あれの中では全て噛み合っていて、ほかのものは要らん。あれは指揮を執るべき者として、全てを駒とする盤の支配を学んできた。そういう連中がこぞって争う場に、甘ったれの卿が口を挟む隙などありはしませんでしょう」

 フリッガは目を伏せた。知っているのだ、そんなことは。

 イザークはそれをやや見下ろして、それからにまと笑った。

「でも卿は、言われたことだけして、というのは嫌なんじゃろ」

「え?」

「こういう場所に長くおるとね、卿のように分かりやすい人は貴重でな。大事にしたくなりますよ」

 フリッガは思わず、へへへ、と笑った。それに合わせるようにイザークも笑って続けた。

「卿はこれからも変わらず、疑うことを知らずにおきなさい。そしていつまでも、何があってもあの子を信じておやり。たとえそれが正義ではなくても」


 フリッガは息を飲んだ。それから老人の言葉を反芻した。そして老人の顔を見た。その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。

 信じよう、とフリッガは思った。自分の愛するものを、信じようと。


 彼女は立ち上がって頭を下げた。イザークが手を差し出すので握手をした。老人は彼女の手に自分のもう片方を添えた。それは年相応に皺が寄ってかさついたものであったが、それでも温かかった。

 フリッガはもう一度深々と頭を下げると、その質素な部屋を後にした。彼は扉まで見送ったが、そこから出てくることはなかった。



 イザークは、これからヴィダがしようとしていることに何の評価も与えなかった。けれども、これでよかったのだろう。

 あの伝言はただの報告だ。イザークならその内容を「ただの報告」として受け取ってくれるという、そんな信頼をイザークに伝えるためだけのものだ。フリッガは振り返り、背後にそびえる王宮を見上げた。

 謁見室は今どうなっているのだろうか。「修羅の庭」とイザークは言った。それはどこのことなのだろうか。王宮か、前線か、それとも両方か——あるいはそうした「場所」のことではないのかもしれない。

 国難のこの時、彼がナイトである事実そのもの。でも、そんなものはどうでもいい。


 さあ、自分の選んだ、自分のなすべきことをしなければ。フリッガは足を踏み出した。

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