4 あしたの正義
ここの連中の対応を見る限り、少なくともヴィダは現場のレベルでは特別お尋ね者扱いというわけでもないらしい。いきなり処刑はないと言いつつ、捕縛される可能性くらいは十分にあるからと言い含めて翠嵐に後方支援を任せたのは杞憂に終わったわけだ。
フリッガはすれ違う軍人から都度都度敬礼を受けるヴィダとジェノバに数歩遅れて歩きながら後ろを振り返り、肩をすくめてから再び前に目を戻してふたりについていった。
通り過ぎたいくつものテントにはそれぞれに役割が振られている。その間を歩き進めながらフリッガはネコを抱き上げたまま、少し前を行くヴィダとジェノバの話すのをなんとなく聞いていた。
出国前、フリッガがイ爺(と呼ぶのは士官養成所出身者だけで、「イザーク=ジーガ・チェンバレン」という立派な名前を持つ老人)と会って話をしたころ——今ではずいぶん昔のことにも思えるが、実際はそれほどでもない——あのころジェノバは王宮警護官という立場で、こんなふうに前線に出てくる業務ではなかった。それが今こうなっているのにはいくつか理由が考えられるが、少なくとも人手不足というわけではないはずだ、まだユーレに実質的な被害はないから。
そうであれば今、ヴィダが世間話のふりをして促しているジェノバの話も、別の目的があって聞いているのだろう。フリッガはそう思い、ネコを抱き直しながら耳をそばだてた。
「そんで王宮警護官の昇級試験どうなったの。受けるつってなかったっけ」
「お前が留守してる間に受かったよ。今は主任」
「まじで。あれ一回目だとほぼ落ちるだろ、すげえじゃん」
フリッガが一歩下がっただけで、ジェノバはヴィダの気軽な(少なくとも、見た目はそうだ)問いかけに簡単に答えるようになった。視界に他人がいるかどうかがジェノバにはかなり重要らしい。
答えたジェノバが少しだけ顎をそらしたのが後ろからでも分かる。たぶん彼にとって誇らしいことだったのだ。そういう仕草がほとんどないヴィダを見慣れていたものだから、それはフリッガにとってはなかなかに驚きだった。
同じ軍人でもいろんな人がいるのだ。これまでほとんど気にしたことはなかったけれど。
周りより一回り大きいテントの前にたどり着くと、ジェノバは立ち止まって振り向いた。彼はヴィダに目配せをし、それにヴィダは、ああ、と呟いてフリッガに後方を指差した。
「悪いんだけど、こっから先は俺たちだけで」
「あ? そう? ネコ要る?」
「なんでだよ」
いやあ一応、とフリッガは言葉尻を濁しながらジェノバを見、彼が興味なさげにしているのを確認してからネコを地面に下ろした。
ネコは尻尾をぴんと立て、とことことテントの中に入っていってしまった。フリッガはそれを見送ると、じゃあその辺にいるから、と別のテントを指差した。食事の準備をしているテントだ。用意する人数が人数だから、多少は手伝うこともあるだろう——味見以外で役に立つかは別として。
フリッガと別れたヴィダはジェノバに促され、司令部のテントをくぐった。ネコは入ってすぐのところで彼を待っており、彼の足にまとわりつきながら進んだ。
たぶん護衛のつもりなのだな、とヴィダは思った。フリッガと別れたら即座に捕縛されるおそれでも考えてくれたのだろう。一応、見た目よりは頼もしい相棒である。何せただの猫ではないので。
司令部とはいえ後方本部の出先にすぎないここは備品がそんなに充実しておらず、中央にでんと据えられた机は、ジェノバが地図を広げるとほかに何も置けなくなってしまった。
「これ俺見ていいの?」
「見てはならない自覚があるのか?」
「ないよ。ないけどそういう話じゃなくて、俺今ここの指揮系統から外れてるじゃん」
そう言いながらヴィダは机を回り込み、出入口からは一番遠い場所にある椅子を選ぶと、人差し指で机の周りを指しながら腰を下ろした。
その仕草が示すように、ジェノバのほかにはここにはヴィダしかいない。それに理由があることに彼は気がついている。
ヴィダの「叛逆」を知らされている人間が少ないのは分かった。それはおそらく疑問や異論の出ないうちにことを進めるためだ。
ジェノバは尋問が下手だ、あまりに素直だから。
ヴィダはジェノバにも座るよう促し、ジェノバはそれに従った。ヴィダの向かいの出入口を塞ぐ位置だった。ヴィダは腕を組み、ため息をついてから首を傾げた。
「お前、俺に言うことあるんでしょ。当ててやろうか」
「なんだよ」
「『すぐ星室庁に出頭しろ』か。いや『弁明期日は明後日』かもしれない。伝達ご苦労」
「そこまで分かっておいて、それでも自覚はないと」
眉間に皺を寄せたジェノバに、ヴィダは肩をすくめてみせた。
「そりゃそうだよ。アドラが色めき立ってるのは事実だし、それに俺の関与が影響してるって言われれば否定はできないけど、別に俺が好んで招き寄せたわけじゃないし、俺は上が言う以上に十分な働きをしたぞ。なあ?」
ヴィダは足元のネコに向かって首を傾げて見せ、ネコはそれにねちっこく鳴いて応えた。
怪訝な顔をしたジェノバにヴィダは書くものを寄越すよう促し、ペンを受け取ると地図に書き込みを始めた。まずはユーレ軍の現在の展開状況。この付近にはないものまで正確に、ジェノバが知っている実際の配置と一致している。
ジェノバは書き込み続けるヴィダを見ながら口を尖らせた。
「これをどこで?」
「俺が知ってるってことはアドラも知ってるよ」
ネコが驚いて顔を上げたが、ヴィダはそれに目配せをしただけで先を続けた。
「つうか、もともとこの配置案を作ったのが俺なんだよ。出先に手土産がほしかったから、俺が自分で組んで、そんでそれを持ってった。偽の情報渡したって見破られるリスクが取り去れないし、どうせ総力戦になったら神頼みなんだから、一旦は実際クソみたいな配備にすることにして、何か適当にもっともらしい理由つけて、有意な情報ですっつって献上したっていいだろ。我ながらよくやりましたよ俺は」
ヴィダはそう言いながら書き込みを終えるとペンを投げ出した。それは転がってジェノバの手元に当たったが、ジェノバは地図の上で組んだ手を微動だにせず、眉間の皺もそのままだった。
「お前は国を売ったのか」
「かもね。でもそれを元手にアドラからいろいろ買い込んできた。アドラの連中がこっちに着くころには、こっちの配備は俺が渡した情報から既に大きく転換。対して向こうが差し向けてくる規模は、当該情報が陳腐化しないうちに到達することを優先したらどうしても機動性重視になるから、俺がくれてやった情報に対応できる限りの最低限。それならこっちにも勝ち目があるだろ」
「アドラは全軍を差し向けてくるわけではない?」
「そうだよ。少なくとも第一陣はな」
ジェノバが短くうなり、黙り込んだ。沈黙。
うーは心細くなりながら、ふたりの様子を机の下で丸まって窺っていた。
ヴィダは嘘をついている。このあまりにもいい加減な配備状況にヴィダは関与していないし、もちろんその情報をアドラに渡したりもしていない。ヴィダがナハティガルにいる間にアドラ軍について何か調べてきたのかは分からないけれども——少なくとも、どんな形で侵攻してくるかを知ることなどできなかったはずだ。
でもそんな嘘をつくということは、彼には何か目的があるのだ。
息を吸う音がして、うーは耳をぴんと立てた。口を開いたのはジェノバの方だった。
「お前の任務は結局何だったんだ」
「偵察」
「そのついでに相手の派兵プランを誘導してきたと?」
「おっ、そう言うとかっこいいな」
フン、と短い音がしたが、うーの位置からではふたりの顔は見えない。しかし次の言葉でうーは、ジェノバが笑った音だったと察した。
「アドラの侵攻自体はお前の出国時点で既定路線だったんだな」
「いやあ? 俺はそこまで言ってないけど?」
ジェノバが深いため息をついた。
うーは立ち上がり、いつのまにか椅子の上で胡座をかいていたヴィダの膝に飛び上がった。テーブルの端から向かいのジェノバに目をやると、彼もうーを睨みつけていた。うーは思わず身震いし、それからヴィダの膝の上で向きを変えて丸まった。
「昇級した、と言っただろ」
「うん」
「その関係で、お前が出国した後に急に有力議員の警備が多くなって。そこでちらっと、十年前の話が出たのを聞いた」
「は?」
十年前のだ、とジェノバは繰り返し、ひたとヴィダを見据えた。うーが見上げると、ヴィダは今までにない険しい顔をしていた。
ユーレで十年前に起きたクーデターは、当時の国王の急逝をきっかけに議会内の親アドラ派が先導したものだった。ウェバがアドラ政治に今ほど強力な影響力を得るようになる前、アドラやその軍の動向に、アトロポス家先代当主の影響が色濃かったころのことだ。
ユーレ沿海に沈む遺物は、現当主であるランティスには興味がまるで湧かないもののようだが、その父親である先代当主は違った。
ユーレで事件が起きたのは、彼の意向で比較的小規模とはいえ国境侵犯が頻繁になり、グライト市民にも漠然とした不安が広がり始めた時期のことだった。
結論から言えばこの事件でサプレマの権威は大きな節目を迎え、一方でナイトは国民からの信任を厚くした。
ユーレには火竜がいない。火神を唯一にして至上の神と崇めるドラクマ派を国教とするアドラが隣にあるために、火竜は皆そちらに流れてしまうからだ。もっとも、ユーレにも存在したドラクマ派信徒は、必ずしもクーデターの最大の要因ではない。アドラを羨む向きは正派信徒の間であってもそれなりに根強かった。
ユーレは豊かな国だ。しかしその豊かさは資源においてという意味であり、アドラのそれとはまったく異なる。ユーレは技術的には圧倒的に後進国である。そしてそうあり続けることを求められている。それはユーレがあくまで庇護されるべき国、弱き者として存在し、それにより他国の宗教紛争を和らげ結束を深めさせるために作られた国だからだ。
それを「ユーレは他国の便宜のために犠牲となることを強いられている」と解釈するものは以前からいたが、技術力の差が広がるにつれ、その考え方は議会をも侵食し始めた。
このような積み重ねを経て外交のあり方を巡りユーレ議会が紛糾分裂し、冷戦状態となったのをアドラは見逃さなかった。
アドラはユーレにも少数ながらいたドラクマ派信徒を使って急進派の議員に働きかけた。その結果、国王イスタエフが逝去し、遺された王女デュートはまだ即位ができない、その空位時代を待っていたかのように王宮ではクーデターが勃発した。
王室の血を絶やし、王政を廃する。その後は議会主導で国民を教化し、アドラの一部となって——そんな段取りであった。
王妃は混乱の中で行方をくらまし、今に至るまで安否は確認されていない。そして王女は奇跡的に生き延びた。
王女が当時、あるナイトに言われるまま逃げ込んだのは、王宮と敷地を同じくするシューレの寮であった。体の小さな彼女はそこで、ひとりの少年寮生の指示に従い、床下のごくわずかの空間に丸くなって隠れ、灯りのないその場所で三日間、自分を探しまわる足音に怯えながらも泣くことも声を上げることもせず、ひたすら耐え続けた。
その五年前、つまり今から十五年前に当時のサプレマであったテルト・フェンサリルが死亡して以来、サプレマ位は彼の幼い娘が引き継いでいたが、彼女は(もちろん年齢のせいもあるだろうが)父とは違い国政への関与を避けており、グライトを去っていた。このためクーデターに主として対応したのはイザークを筆頭とする複数のナイトで、彼らや軍の有志の指揮で混乱は数週間のうちに収束し、クーデターは百人以上の犠牲者を出したものの、結局不発に終わった。その後続いた王位空白期間は六年後、シュナベル朝正統後継者としてその姿を民衆の前に現したデュートが破り、現在に至る。
だから、十年前の残党などいてはならないのだ。それは過去の始末の不手際を意味する。
イザークの、別れ際の穏やかな顔がちらと脳裏に浮かんだ。そしてもうひとり、あのときデュートを寮に差し向けたナイトの顔も——ヴィダは舌打ちをした。
「いや、イ爺はうまくやっただろ」
ジェノバが言い、ヴィダは顔を上げた。
「それでも考え方自体が死ぬわけじゃないから。残党というより亡霊のような」
「そうか。そうかもな」
ジェノバだってヴィダと同じように、イザークを慕っているのだ。
咳払いをしてうなじをぼりぼり掻いたヴィダに、ジェノバは水の入ったボトルを一本投げ渡した。ヴィダはそれを受け取り地図の端に立てると、蓋をトントンと叩いて「後で」と言った。そしてその指でジェノバの手元を指差す。さっき転がしたペンだ。
ジェノバがそれを寄越すとヴィダは、地図の隅に小さな文字と数字を書きつけながら言った。
「ここに俺が残す落書きは、俺が国を売ってまで得てきた情報ってことでひとつ大目に見てくれ」
「いいよ。お前が正しければ、この後その数字を睨んで配備を変えることになるんだろ」
「そうだな。俺が正しければ」
ジェノバは目を細めている。ヴィダはそれには気づいたが、書き物をしながら下を向いたまま、言葉は重ねなかった。
女王デュートは十七歳で即位した数年後、一師団長の勇退を受けてその穴を埋める人材を用意することになり、その折、自身が初めて叙するナイトに「守護」を意味するミドルネームを与えようと決めた。
シューレ首席卒業とはいえ異例の速さでの昇進、その上史上最年少での叙任には当然反対意見もあったが、それでも彼女は押し切った。彼女が列騎させたのは、あのクーデターのときに彼女を匿った少年である。
彼女が床下に隠れながら見上げたその少年の右頬の傷は、今でもまだ消えていない。
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