3 竜と逆賊

 うーが報告したとおり、翠嵐とそあらとは、ユーレの国境警備隊が展開する荒れ地を一望できる場所にいた。

 この辺りはほとんど高低差のない平原であるものの、時々切り立った崖が現れる。断面の地層は、翠嵐に言わせればなかなかに興味深く研究のしがいがあるものであるが、彼はこれに目をつけた人間を今のところ知らない。政情不安定の地でなければ違ったかもしれないが、残念なことである。


 彼らがその場所を選んで降り立ったのは、フリッガたちがメーヴェにつくより何日か前のことだった。

 そあらはフリューゲルを発つにあたり、道中を同行しなくていいのかとフリッガに尋ねたが、彼女は「ほかに頼みたいことがあるから」と言ってその申し出を辞した。そあらはそれを甘んじて受け入れた。


 フリッガの身に降りかかる危険は契約竜であるそあら自身にとっても脅威となり得るが、今のフリッガはプレトを連れているし、一応は指示を与えることもできる(というか、彼がそれを受け入れている)。

 未定義ゴーストである彼のことは、キャリアに必要とされる容量が桁違いであるということ以外には、その能力がどんなものでどの程度なのかも、そあらには計り知れないけれども——それでも主の安全確保を任せられる程度とは見積もっていいだろう。

 プレトは紆余曲折を経たものの、フリッガにとってはそあらとうーに続いての長い付き合いだし、キャリアだから体が丈夫だとか見た目より力があるとか、そんな程度を超えたフリッガのこれまでの何やかやも、彼の助力あってのものかとそあらは思っていた。


 フリッガとたもとを分かったゼーレも、そこまではしないにしろ今その立場を曖昧にしている翠嵐も、紐解いてみれば結局、意図的にしろそうでないにしろ、プレトが呼び寄せた竜だった。

 そして今回いよいよ彼本人のお手並み拝見といったところ。そこまで考えてそあらは、立ち上がって様子を見ている翠嵐を一瞥した。

「なんだよ」

「いいえ、別に」

「言いたいことがあんなら言えって」

「では聞くけど、あなたはどうしてここにいるのかしら」

 翠嵐は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐにそれを解いて答えた。

「道中しこしこ投げられた賽銭の分くらいは働こうと思ってさ」

 そう言いながら翠嵐はその場に腰を下ろし、胡座をかいた。


 彼の視線は眼下に展開するユーレ軍に向けられている。そあらはそれで、彼がこれ以上話すつもりがないことを十分に察した。

 彼は自分を絶対に語ろうとしないのだ、主であるフリッガにさえ。そあらはそれが彼にとっての、この世界との距離感なのだろうと思った。

「じゃあ、あなたはその、哀れな信徒に力を貸してあげるつもりなのね」

「そうだな。ただそれでまた貸しができそうな気がする」

 そあらは目を細めた。ということは、と彼女は考え、にんまりしながら翠嵐を見た。翠嵐は再び不服げに眉を寄せた。

「なんだよ」

「いいえ、別に」

 彼は今度は、尋ね重ねなかった。

 


 メーヴェから荒野を走り抜けてきたフリッガたちと合流し、そこで情報共有をする。展開している部隊の装備その他の詳細、ユーレ議会の動向(といってもそれは浮虫が認識できる程度のものだ)、国内の状況。

 ヴィダの国内での扱いは、少なくとも一般には彼が覚悟していたよりだいぶましで、庶民層には出国時とさしたる変化はなく、侵攻の話さえ伝えられていない気配であった。まだそこまで手が回っていないだけなのか、それともさすがにナイトの叛逆となれば国民が動揺するので公表は事後報告だけとするほうが円滑に進むという見立てなのか、それは分かりかねたがいずれにせよ、ふたりにとっては一応朗報である。

 その高台で今後の動き方を確認した上で、さて、とヴィダは腕組みを解くと部隊のひとつを指差した。

「あそこに展開してるのは俺の顔馴染みだけど、軍の中では俺がどういう扱いになってるのか確信持てないので。陛下の勅許でもないと、いきなり処刑なんて話はないはずだけども」

「処刑」

 呆れた顔で繰り返したフリッガにヴィダは肩をすくめた。

「だってたぶん俺、軍の認識では、サプレマの旅程に護衛なり監視なりとして同行させられたのをいいことに、他所の国の象徴を誘拐して、捕縛されたけど脱走して、国の端から端まで無傷で横断して逃げ帰ってくるついでに外患誘致したトンデモ野郎だぞ」

「すごい。有能」

「笑えない」

 笑えないと言いながらヴィダは半笑いで、それで、と続けた。

「まあそれでひとまず、俺だけで乗り込むのはちょっと気が引けるから、悪いんだけど、ちゃんと護衛の任を果たしてくれました、わたし何も知りませんってていで一緒に来て欲しいんだよ。そんで状況確認して問題なければ手はずどおり」

 フリッガは、分かった、と答えると、そあらと翠嵐に方角を示して指示をした。

 


 フリッガとヴィダ、それにうーとが合流した部隊は、指揮官不在のため臨時の者が後方の本部の指示を受けて統率しているという。不在の理由は問うまでもなかった。ヴィダは「顔馴染み」と言ったが、まさに彼の部隊なのである。

 その配置は彼に、この部隊が捨て駒として配備されたものであることを強く感じさせたが、彼はそれをおくびにも出さなかった。


 帰還の報せに姿を現した指揮代行にヴィダは少し眉を上げてみせたが、相手は初めて会うフリッガにそっけなくその肩書きと、おまけのように「ジェノバ・シュバイカー」と名乗っただけだった。

 ジェノバは金髪碧眼の、それなりに整った顔の持ち主である。

 ヴィダによれば彼には双子の妹がいて、性別は違うのに瓜ふたつであるらしい。その妹、オデッサは、親から譲られた家業の小さな薬屋を営んでいる。少なくない同業者の中ではとりわけ若く経験量で劣るにも拘らず、親譲りの知識に裏打ちされた的確な助言と親しみやすい性格とで、あらゆる年齢層から受けのいい女性である。そしてジェノバはヴィダより数年遅れて養成所シューレに入所し、少なくともフリッガたちが出国するときには王宮警護官の任に就いていた。よく言えば目標に一途で純粋だが、言い方を変えれば視野が狭く単純。愛すべき欠点。

 フリッガはシュバイカー兄妹に関するここまでの話を、翠嵐たちと別れてからこの司令部に着くまでに聞いていた。その場で共有すべき情報としては重要性の低い——というより、かなりどうでもいいことだったので、フリッガはヴィダがわざわざそんな話題を選んででも無言の時間を作ろうとしなかった理由を考え、少し神妙な顔になった。

 彼の不安を彼女はどうしてやることもできない。


 とにかくジェノバは十年近く、ヴィダと寮で寝食を共にした同期である。

 養成過程を終えた後、異例の抜擢を繰り返して今の地位を手にしたヴィダは、職場の違いもあって最近はほとんど会うこともなかったものの、しばらくぶりにこうして顔を合わせた幼馴染のような相手になら話すことはいくらでもあるはずだった。しかしヴィダはその場でのジェノバとのやり取りの中で特別親しげな様子を見せなかった。

 それがフリッガがあまり知らない、いや、おそらくは見ようとしてこなかった、彼の軍人としての顔なのだろうと彼女は思った。いかに幼馴染であろうとも、彼らの間には、そして彼と国との間には、また彼と女王との間にも、無視してはならない規律があるはずなのである。

 


 ユーレ王立軍はおよそ五百年前、建国と同時に設立された当初は警察組織を兼ね、主には国内の治安維持を目的とした集団であったが、アドラが国力を高めるにつれ、その主務は国境防衛へと変容していった。そこでアドラは建前上は仮想敵でしかなかったが、国境を接するのは同国だけなのだから実際は仮想も何もない。

 アドラの主力は火竜である。だからそれに相対するユーレ軍は多くを、沿海から引き上げられる遺物に、そして最終的には半島をねぐらとしていた水竜の加護に頼った。

 とはいえユーレの水竜は一柱、それに対してアドラの火竜は三柱。しかもそのうちひとつは首座に近しい三双翼の爛である。総力戦になればキャリアの数でも勝るアドラに、ユーレがどこまで抵抗できるかは分からない。キャリアや竜を度外視しても、国土の広さや人口といった国自体の規模も到底比較にならないので、人員数でもユーレにはアドラに敵う要素などない。

 だからせめて後方の備えを万全に、そして指揮官の戦略は綿密に。そうして持ち堪えている間に他国にアドラを諌めてもらうほかないのだ。ユーレはそうして国を守ってきた。


 しかし今回、その「他国」の協力は望めず、ユーレの国境警備隊の指揮系統さえもこれまでとは異なる。

 本来この部隊の指揮官はヴィダだが、今その権限はジェノバに移管されており彼には手が出せない。本部からの指示は、そうなっている。そしてその本部で、国境防衛とは畑違いの王宮警護官を指揮代行に任じたのはクラヴィト・キュルビスだ。すなわち軍の最高司令官は、ユーレ側でこの画を描いた張本人か、少なくともそちら側の人間である。

 どこまでが意図されたものなのか、目的も何もまだ分かりはしないが——


 帰還した叛逆者はこれから、祖国とアドラに戦いを挑む。

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