2 帰投

 ナハティガルに逗留していたフリッガにゼーレが繋いできた通信は、ファルケの国会議員を名乗る男性を映し出した。

 その男性はフリッガに、今回のことでファルケが多くの国会議員を失ったこと、それによる議事運営への影響が避けられないこと、ひいては連合協議院への議案の上程も遅くなることなどを伝えた。そして「力になれなくて残念だ」とも。


 ウェバは、アドラ国内で適切に手続きをみ、ユーレへの派兵を決定した——いや、

 その誘因とされたのは、ユーレによる内政干渉であった。具体的には、ユーレ国王直属の配下による燦の拉致である。フリッガたちはそれを、アドラ国内の公営放送で知った。


 その「配下」が名と肩書きのみの報道となったのは、映像記録が残っていたのがドロッセルで報道されたフリッガだけだったからだ。今回実行犯とされたのはヴィダである。フリッガは隣でその報道を見ていた彼の顔色を窺ったが、彼に狼狽えた様子はなかった。

 燦を助けても、あるいは見捨てても、ウェバには結局どちらでもよかったのだ。

 ふたりがスペクトに入った時点で、彼女は既に全ての準備を終えていた。


 そうであれば助けるという選択をしたことに後悔のあろうはずもない。

 ふたりは別れを告げるため、燦の部屋を訪ねた。ナハティガルがスペクトから正式に派兵の要請を受けることが遠からず確実である以上、ランティスや爛とは距離を置いておいたほうがいいと考えて、そちらには寄らなかった。

 燦は「有名人になっちゃったね」と苦笑しながらふたりに椅子を勧めたが、ふたりはそれを辞した。することはもう決めていたからだ。

 帰国する。すぐにでも。

 


 そあらはフリッガの指示で、ナハティガルに戻ることなく直接ユーレ国境へ向かった。今更国境越えを隠す理由もない彼女の翼の前には、それが一番速かったからだ。人間が要する日数の四半分もあれば彼女は楽に国境に辿り着くことができる。

 翠嵐もうーをナハティガルで落としたほかはそあらに同道した。フリッガたちに同行しない理由について、彼は食費と路銀について深刻そうな顔で語ったが、それが本当の理由でないことくらいフリッガにも分かった。

 フリッガはプレトを連れている。翠嵐は彼女の側に戻ってきこそしたが、プレトと和解したわけでは決してない。


 そして、ゼーレはエレアと共にあることを決めた。それがアルブレト博士との永訣となるとしても、彼女は開発者であるウェバとの直接の対峙を拒んだ。

 フリッガはその選択を責めなかった。ふたりの別れはディスプレイを通して行われた。その最後にフリッガは右手を差し出した。

 映像が消える前、その手が少しだけ温かくなったような気がした。

 


 荷造りをしながらヴィダはフリッガに、あのなあ、と声をかけた。フリッガが顔を上げるとヴィダはそれに「耳だけ」と言い、フリッガは黙ってそのとおりにした。

 ユーレは最初から、女王デュートの信任を受けたナイトである彼を、そして軍の中でもそれなりの同調者のいる彼を厄介払いするため、名目をつけてサプレマに同行させた。そのことはそあらの浮虫が持ち帰った情報から確信を得ている。目的は推測するしかないものの、少なくとも、彼を同行させることを決めたユーレ議会にはアドラと通じた者がいるはずだ。その後ろで糸を引いているのが誰かは——そこでヴィダは不意に口をつぐんだ。


 思い当たる人物がいる。いるが、信じたくはなかった。

 嫌われているとは思っていたが、それとこれとは話が別である。商人の出でありながらあの地位まで上り詰めた男だ。こんな形でアドラを挑発して、その後を予想できないような愚かな人間であるはずがない。

 だからたぶん、ユーレで手を引いていた連中も、もっと穏やかな形でのアドラへの従属を考えていたのだと思う、とヴィダは言った。こんな多くの人死にを覚悟しなければならないやり方を容認していたとは思えない。いや、正確な表現ではなかった。そこまでの連中だったとはまだ思い切れないし、思いたくもない。

 話すにつれだんだん独り言のようになってくる彼の言葉を、フリッガはこれまでとは少し違う思いで聞いた。

 彼が迷いを隠さず口にするのを初めて見た気がする。これまで自分が気づかなかっただけなのか、それとも、そういうところを見せてくれるようになったのか、いずれなのかは分からないけれども。


「大丈夫だよ」

 フリッガは荷物の紐を結わえながら応えた。

「帰ろう。そんで、見て考えて、それから決めよ」

 ヴィダは返事をしなかったが、フリッガはそれをもう、不安には思わなかった。

 


 帰国はできるだけ急ぎたかった。

 ふたりが建前上拘束されていることになっている市庁舎を目立たないよう夜に抜け出したら、そこにはたまたま——そう、たまたまだ——馬が繋がれていたから、ふたりはそれを拝借してナハティガルを出立した。

 ついでに寄った軍の備蓄倉庫の前には、これまたなぜか、ちょうどいいくらいの物資が放置されたままになっていたので、それも失敬した。

 ふたりとネコがナハティガルを出る間際には、警報が鳴らされ、警備兵も数こそぞろぞろ出てきたが、深追いするものは誰ひとりなかった。

 逃亡者は遠ざかりながら、鮮やかな光の刃を振って見せた。真紅と翡翠のふたつの光は、ランティスの執務室からも少しの間だけ見えた。

 ふたりはこれからスペクトを迂回し、いくつかの中小都市と集落とを抜けて、ドロッセルを突っ切り、祖国に戻る。


 行きに比べれば簡単な道のりであった。情報を収集しながら道を模索する必要もなく、とにかく早く国境にたどり着ければよかったからだ。そのためには多少の強硬突破も辞さないとは思っていたが、ナハティガルの軍馬は彼らを期待以上の短時間でドロッセル郊外まで運んでくれた。

 とは言っても情報網の発達したアドラである。ふたりが往路で最初に立ち寄ったメーヴェまで戻ったころには、スペクト発の手配情報は既に辺境まで浸透してきていたが、その情報をこの町の者たちはかなり愉快なものと受け止めているようだった。

 国教たるドラクマ派に背を向け正派サンフト教を信仰し続けた自分たちを長年弾圧してきたアドラに対し、正派の頂点に立つサプレマが、積極的ではないにしろ対立の姿勢をあらわにしたのだから。


 メーヴェを抜けると後は国境まで一直線だ。ヴィダはそこで、一旦止まることを選択した。

 ユーレでも彼はきっと歓迎されない。アドラからの侵攻を惹起した張本人だからだ。それが事実でないことを知っている者もあるはずだが、どの程度の勢力なのかも不明である。

 だからここからは進み方を慎重に。ヴィダはフリッガを町に残し、うーを連れて塀の外に出た。かつて翠嵐が、ウェバの作ったキャリアと一戦交えた場所だ。


 彼は落ちていた木切れを手に取ると、砂の上に格子模様を描いた。

 前回ここを通ったときに子どもが遊んでいたゲームを思い出す。あのときは「総取りが狙える」と言ったが、今度はそんなに簡単ではないだろう——不安がよぎったが、それ以上考えるのはやめた。

 彼は木切れを放り投げ、祖国を遠くに眺めた。日はすっかり暮れて、紫の夜空に満天の星が瞬いている。

 ユーレ沿海から走ってきた海風は重たく湿っていて、砂は舞っていなかった。その足元で地平線を見つめていたネコが、吹き抜けようとした風を受け止めるように頭を振ると、片眉を上げたヴィダを一瞥してから、さっきの格子の上に足跡をつけ始めた。


 ネコが遣わした風は、ユーレとメーヴェの間に横たわる荒地の上を走り抜け、周囲に存在する人間の足を撫でるように数えてここまで戻ってきた。

 ユーレ国境を越えた国内である程度まとまった人数があれば、それは国境に展開するユーレ軍の部隊と考えて差し支えない。その主目的が反逆者の捕縛なのか、アドラの撃退なのかは分からないにしろ。足跡を増やしながらうーが言う。

「ここに百人単位の編隊がひとつ、こっちにひとつ。真正面にもうひとつで、国境沿いに並んでるのは全部合わせてみっつ。それと、真ん中からちょっと離れた奥に百人切るくらいのがひとつ、こっちは内部では人の動きがほとんどない。手前みっつはちょくちょく広がったり集まったりしてる。ときどき奥の方にひとりかふたりか行ったり来たりしてる。その南側のどっか高いところに翠嵐たちがいる」

 それ以外は、ここと、ここと。そう言いながら彼は格子の中に印を付けて顔を上げた。

「五、六人から十人ちょいくらいの小さいグループ。これは関係ないと思う」

「少ないな」

「手前両脇のふたつの動きもなんかおかしいよ。定期的に見回ってるっていうより中でバラけて勝手に歩き回ってる感じ、何していいか分かんなくて、それぞれとりあえずうろついてるっていうか……真正面のやつは割と落ち着いてるけど」

 先を促したヴィダにうーは、自分のつけた足跡を改めて見回して、続けた。

「国内だからアドラとは関係ないと思うけど、国境とは逆の奥の方にかなり重装備の部隊がいる。海の方とかかな、ひとつじゃない。そっちの方が人数も多いよ。なんでそんなところにいるのか分からないけど」

「十分だよ。ありがとう」

 ヴィダは礼を述べながらも、その目はうーを捉えてはいない。


 国境に展開されている部隊は、規模からすればアドラを撃退するつもりとは到底思えない。ただそれが即座に、ヴィダの捕縛のためだけの編成であると考えることもできなかった。彼は軍人であるが、ナイトの称号はときに軍規を超える。

 女王の直接の下命がなければ、少なくとも彼が国境で直ちに処分されることは考えにくかったが、先に戻ったそあらの浮虫からは、そんな情報は今のところ得ていない。そうだとすればこの編成は少し大げさだ。ならばやはり建前だけの迎撃軍だろうか? それなら彼らは捨て駒だ。

 ヴィダは舌打ちをした。どんなに目を凝らしても、ユーレは見えなかった。


 翌朝早く、ふたりはメーヴェを去った。休みなしに走れば、ユーレ国境まで二日足らずの場所だった。

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