1 繭と秋津
エレアの主はもともとの居場所が比較的出口に近かったことが幸いし、ひとまず無事が確認できた。
エレアに続いて議場内に入ったそあらが見たエレアの主は、白く豊かな髭を蓄えた、年配の上品な紳士であった。しかし今その眉間には深い皺が寄っているに違いない。
議場内では前方の議長席を中心に幾人かが倒れている。そこから逃げ出した議員が後方出口に殺到して怒号が飛び交い背後は大混乱だが、我先にと詰めかけた人波を捌くには出口は狭過ぎて、このまま待っていてもいつ出られるか見当もつかなかった。
そのうちにも再び前の方でばたばたと人が倒れ、その波は後方に広がってくる。
漂ってくる異臭も相俟って、議員らは完全に恐慌に陥った。
そあらは前を見た。
ちょうど議長席の上だ。大きな光の輪が見える。息をするようにゆっくりと明滅しながら七色に変じて輝く、それだけであれば神々しいほどに美しいものだ。しかしそあらがそれを見て思い出すのは、スペクトで燦が呼び込まれたあの場所だった。
改めて周囲に目をやる。ここにいる者全員でどのくらいだろうか、百は軽く超えている。
これを守り切るにはあまりに手が足りない。ゼーレの庇護を受けたエレアと、そあらが守ることのできるエレアの主と。
あの光を浴びただけで何もかもが腐り落ちる。ノヴァはじわじわ犠牲者を増やすつもりなのだ、ほとんど何もできないそあらを嘲笑うように。彼女はタイミングを見計らっていたのだ。
これを利用されたら、ユーレは孤立する。
「ノヴァ……」
そあらは思わず歯噛みした。それを知ったかのように前方の光輪が笑むように明るくなり中心へ集約していった。
次の波が来たら残っている人々は大半が死ぬだろう。そあらは祈るような気持ちで出口を振り返った。そのときだ。
出口の扉に殺到した人々の頭の上をひょいひょいと飛び越えて、黒い猫が議場に飛び込んだ。呆気に取られたそあらの前で、ネコは顎をしゃくり何者かを議場内に呼び入れた。
すいすいと流れ込んできたのは数十を数える蜻蛉であった。もちろん、蔦虫である。まだ無事な人々にまばらに取り付いて、それらは淡く光った。
前からの光が息を吸うように暗くなり、そしてひときわ輝いて、光の波が頭上を通り過ぎていった。
蔦虫から遠いところにいた人が数人倒れたが、多くはひとまず、命は無事だ。竜の虫の加護など竜そのものに比べたら随分小さなものではあるが、これだけ数がいれば少しは時間稼ぎができる。そあらは思わぬ助っ人に胸を撫で下ろすと、大きく息を吸い、声を上げた。
よく通る声だ。怒声が不意にしんとした。そして外から風が吹き込む。すう、と議場の温度が下がり、少しずつ人が流れ始めた。
光の波も五、六を過ぎて、最後のそれが議場を舐め付けて去ったころには、生きて議場に残っていたのはエレアとその主、そあらそしてネコだけであった。
開け放たれたままの出口はもはや守衛も退避してしまい、無人である。エレアは主を避難させようとしたが、その男性は断った。彼の視線は前方に注がれている。
さっき大殺戮を行った神の光は、その輪の中から少女をひとり産み落として消えていた。細く伸びた手足に尖った耳、輝く白銀の髪を持った、まるでおとぎ話の中から出てきたような姿のノヴァだ。
そあらはノヴァからエレアの主を隠すように前に進み出た。
ノヴァはエレアとその主を片付けようとするだろう。ユーレとファルケを分断するには、外の面々にこの狼藉を、何としてもサプレマの使いによるものと勘違いさせなければならない。そのためにはサプレマの竜とノヴァとの対峙を目の当たりにしたものが残っていては具合が悪いのだ。逆に言えば、そあらは——いや、サプレマ、そしてユーレは、何としてでもエレアとその主を死守しなければならない。
ノヴァの見開かれた眼は瞳孔が針のように細く、人ならざるものの形をしている。
そあらはそんなものは見慣れているはずなのに、それでも思わず身震いした。
背筋が凍りつくようだ。今度はスペクトのときのようにはいかない。一歩後退ると背中に何かが当たった。当たったというより、叩かれた。しかし後ろにはエレアとその主しかいなかったはずだ。そして彼らはうずくまっているからそあらの背中になど手が届くはずもなく——つまり今のは。
そあらは顔は前を向いたまま、すいと横を見た。見慣れた顔があった。
蔦虫の主だ。目を細めてそれは彼女を見、それから顎をしゃくった。
雇い主に退避の説得を続けていたエレアが口を半開きにし、目を白黒させた。知れているサプレマの竜が全てここに集まっている。そしてサプレマもアドラに。エレアは混乱した。ユーレに何が起きている?
ノヴァが歩み出てきた。その足取りはゆっくりではあるが重くはない。足音もない。彼女は目を細め、ねえ、と首を傾げた。
「日和見の結果はそっちになったの?」
「ああ。おまえがむかつくからそうした」
「わたしのほうがよりむかつく?」
「分かってンじゃねえか」
ノヴァは高らかな笑い声を上げ、首をぐるりと回した。それからもう一歩進む。すいと頭が下がる。
それまでの彼女の足は地についていなかった。爪先が床に触れた。そのまま歩みを止めず、近づいてくる。一歩、二歩。
足跡は腐り落ち、議場の木製の床が
すぐさま四方八方から彼女目掛けて槍のように
「きりがないでしょ……」
ノヴァの声はこれまでより少し低い。苛立っている。
翠嵐がそあらに目配せをした。そあらはそれに瞬きを返し、背後のエレアたちの様子を窺った。ふたりにはネコが付いている。少しの隙さえ作れれば。
避難者について場を離れていた蜻蛉が一匹戻ってきた。翠嵐は人差し指でそれを呼び寄せた。それからノヴァを指差す。
蜻蛉がノヴァに向きを変えた。ノヴァは息を吸った。その刹那だ。
翠嵐がダンと床を鳴らし、大声を上げた。
「走れ!」
彼の足元から石の柱が列をなして突き上がり、黒い床板を勢いよく音を立てて裂きながらノヴァに迫った。ノヴァは思わず飛びすさり、その瞬間エレアたちを見失った。
彼女は舌打ちをしながら石柱を睨みつけた。それはあっという間に砂礫になって崩れ落ちた。しかし砂埃がひどい。収まるのが遅すぎる。風竜もいたからだ。本当に面倒な者ども。
砂礫が床にあたるばちばちいう音が収まり視界が確保できたころには、エレアと主はそあらとネコとに守られながら議事堂を出るところまで来ていた。
ノヴァは悟った。もう追っても無駄だ。サプレマの竜はファルケから「善」と認識されるだろう。
取り残されたノヴァは大きなため息をついた。そして彼女は言う。
「計算ミス。あなたはもうそっち側には行かないと思ってた」
彼女の目の前には翠嵐がいる。ノヴァより頭ひとつ分は背丈のある彼の、侮蔑の浮かんだ顔を見ながら、ノヴァは続けた。
「ドロッセルでウェバのログを見たでしょう」
「ああ」
「羨ましくなかった?」
ノヴァの問いは、とても素直なものだった。心から素朴に、そう疑問に思っている。翠嵐は目を細めた。
ノヴァは重ねた。
「気に入る歴史ができるまでやり直す。最高だと思わなかった?」
「俺たちの価値をお前が決めるな」
翠嵐は親指を立て、自分の喉元をかき切るようにそれを滑らせた。
ノヴァは翠嵐を睨みつけると、不機嫌な顔のまま無数の白い蝶となって消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます