2 ノヴァ
まっすぐに伸びた細い手足。長い睫毛と、薄く藤色に染まった目。尖った耳。皮膚は光を透かすようだった。髪は虹の色さえそのまま映すような白だ。四肢には瞳に似た色で、左右対称の文様のような痣。
その姿はあたかも空想物語に出てくる妖精のような——いや、「ような」という表現は正確でない。
彼女は確かにそれを模して作られた。人に似た形でありながら、それが人ではないことを知らしめるためにだ。
せわしなく情報が流れていくディスプレイや、その他いくつもの難解な機械が複雑に接続されて部屋の壁際を埋め、部屋自体が円筒の中のような様相を呈している。その部屋の中心に置かれたぶ厚いガラスの管の中にはなみなみと液体が注がれて、その内側でたゆたう彼女を何本ものケーブルが緩やかに繋いでいた。
彼女は何も見ていない。開かれた紫の瞳は焦点を結ばず、ほどけた唇からは歌も声も漏れない。
彼女は夕空を映す海の色をした液体の中で形作られた。ある天才が死に、そして黒い鋼の竜が生まれる、その少しばかり——そう、彼女からすれば「少しばかり」、前のことだ。
そこで研究されていたのは「ジオエレメンツ受容体」である。
ジオエレメンツが発見され、コードの開発が進んでからというもの、ジオエレメンツの利用はコードによる呼び出しや命令により随時行われていたが、それは実行者の力量や呼び出されたジオエレメンツの傾向、性質によって効果の予測が難しいもので、コストもリスクも高かった。これを解決してジオエレメンツを安定的に運用するための容器をこしらえるというのが、この研究の目的だ。
管の中の妖精の前に、正方形のシートが置かれた。円を等分する何本かの線の上に、いくつかの記号が繰り返し現れる図形が描かれている。同時にその部屋にはひとり客人が招かれ、そのシートの前で研究員と言葉を交わした。
その客の衣服が軍属のものであることを彼女は知らない。彼女はガラス管の中から研究員たちの様子をぼんやりと眺めた。瞬きは緩やかで、もう一度目を開いてしまうまでに両者の会話は終わったようだった。
不意に上で大きな音がして、彼女は天を仰いだ。そこにはいくつものケーブルを彼女に繋いでいる大きな蓋があるだけだったが、続く音とともにケーブルは抜け落ち、蓋裏から離れガラス管の底に当たってわずかに跳ねた。
蓋が開く。彼女は初めて研究室の天井を見た。白い、冷たい明かりが視界を満たした。まぶしくて目を細めると、次は管の中を満たしていた液体の水位が下がり始めた。排水音。目の高さを割る。世界の色が少し、変わって見えるようになった。濡れた体は上から冷えを感じていった。
足元まで水が抜けきってしまうと、今度はガラスの壁が下がっていき床面に吸い込まれた。彼女は外気に触れた。体を支える水がなくなった。これまでつま先くらいしかついたことのなかった底に、彼女はべったりと座り込んだ。
両腕をついて前を見る。先ほどの軍属が、図形の描かれたシートを挟んで彼女を見下ろしている。
研究員たちが一歩下がり、軍属は小脇に挟んでいた紙挟みから小さなメモを取り出して読み上げ始めた。不思議な音だ。研究員どうしが交わしている音とは違う、流れるような音階を伴った、聞き慣れない音の繋がり。
不意に頭上からの明かりが遮られた。しかし天井を見上げたのは彼女だけだ。もうそこにはもとのとおり煌々と照明が灯るだけだった。彼女は再び前に目を戻した。
シートの上に、竜が立っていた。暗赤色の、人の背丈ほどの竜。火竜だ。なのに研究者たちの目は彼女に注がれて動かない。彼らには竜は見えないのだ。
彼女は両手をついたまま身を乗り出し、まじまじとその異形の生物を眺めた。それは少し首を傾げると、燃えるような橙の瞳で視線を返した。
濡れて冷えた彼女にとって、その竜が発する温度は心地いいものだった。彼女は竜に向かって片手を差し伸べた。
研究者たちは満足げな笑みを交わしている。彼女は周りを見回した。シートの上の竜がフンと鼻を鳴らし、彼女の後ろに回り込もうとした。
研究者の目には竜が映っている。竜の足の黒い爪が、研究室の床に当たってカツンカツンと乾いた音を立てた。
研究員のひとりが歩み寄ってきて膝をつき、彼女の顔をのぞき込んだ。他の研究者たちはそれぞれいつもの持ち場に戻り、各々の任務の仕上げにとりかかった。
天井までかかる広いディスプレイには目で追えぬ速さで文字が流れ続け、それを記録する焦げるような音があちこちで響いている。
目の前の研究員が彼女に、手元の紙を差し出した。思わずそれを受け取ろうとすると、彼女が触れたところは黒く焦げた。後ろで竜が目を細めた。
研究員が立ち上がる。その顔を追うように彼女も顔を上げた。
研究員は後ろの者から何か黒いものを受け取り、それを彼女に向かって構えた。研究員は彼女の後ろの竜に退去を命じるように一度、その筒先を振った。
そうして振られた筒の縁がきらと光って、彼女は小さな穴の奥を覗き込むように瞬きをすると、もう一度視線を上げて研究員の顔を見ようとしたが——叶わなかった。
彼女の遺体が処分された直後、記録を終えたディスクは本部へ送られ、研究室は間もなく破壊された。
本部で若干の改良を加えられたディスクのデータを使い、その国はキャリアの生産を本格的に開始した。そうして作られたキャリアは各国が争うように購入し、軍備の革新をもたらした。
彼女はこの世界で初めてジオエレメンツと契約したキャリアである。
理論を確かめるためだけに作成されたそれには固有名がつけられることはなかった。new obedient venturous alternatives、略称NOVAが、そのプロジェクトの名称であった。
火竜のゆくえは分かっていない。
ノヴァは自分だったものが処分されていくのをじっと見つめた。
それが終わると次第に視界がぼやけた。その後、何も見えない白い空間に浮かんでいるような気配。自分の体の有無すらうやむやで、ただそこに認識が在るだけという感覚。
少しすると薄ぼんやりと周りが見えてきて、自分に腕があることは分かったが、その手は伸ばしても何もかもがすり抜けていった。
誰もいなくなった研究室。そこに置かれたままの機材とケーブルの残骸。
床に散らばった紙を拾い上げることもできない。何にも干渉することができない。すなわち、何からも干渉されることはない。ガラスにも壁にも、邪魔をされることはもうない。
それに気づいた彼女はその場にとどまることをやめ、かつては許されなかった外の世界を見て回ることにした。
各地で争いが起きるたび、自分を元に作られたキャリアが消耗品として投入されるのには心が痛んだが、すぐに無駄な同情にすぎないと悟った。製品化された彼らは哀れみを必要としない。
彼らは商品である。兵器として売られる以上、それに不適切なものは流通から排除される。たとえば、不合理な判断に傾きかねない自我や情動機能を強く残したものであるとか。あるいは、突然変異を来したり繁殖による商品価値低下を招きかねない生殖機能が残ったものであるとか。
そんな機能を残したものは、存在してはならない。それは「人間」であり、商品としてはならないものだからだ。
キャリアを使い捨てることを是とするために、その根拠としてキャリアは人間でないと位置づけるために、そのような機能を残したキャリアは生まれてはいけない。少なくとも、生まれていないことになっていなければならない。
方法は簡単である。
こうして結局ノヴァにとってキャリアは、自分を作り、そして殺した人間の道具でしかなくなった。
だから彼女は、それを壊して回ることにした。作り、壊す。それこそが、ノヴァの知っている人間の行いだからだ。
ノヴァは人間の上位互換種、その祖である。そう自負していた。そうしなければならなかった。誰とも異なる自分を、自分として保つために。
キャリアを壊すのは簡単だった。誰もが彼女を収容したがった。彼女は柔らかな笑顔でそれを承諾し、それだけ。
彼女の「容量」は誰も検証できなかった。そこに至る前に、容器のほうが壊れる。彼女はそうして、人間にその無力さを見せつけ続けた。
それが終わったのは、赤紫の液体の中で生まれた、ノヴァにいつかの自分を彷彿とさせたウェバが、彼女と盟約を結んだときだ。
今まで誰も成功しなかったそれをウェバは自分の開発者に知らせた。開発は成功だと見せつけた。さあ喜べと笑みを浮かべた。ああ、なのに。なのにまた。
人間は、せっかく苦労を重ねて作り上げたものを——そうして作り上げられたいのちを、壊そうとするのだ。この男も同じだ!
ウェバの絶望は、ノヴァには心地よかった。ほらやっぱり、わたしが理解者になってあげる、そう思った。初めて得た、「自分の
ウェバを開発した研究者が自分と同じく竜の姿を得たことをノヴァが知ったのは、その少し後のことだった。
人間の愚かさを象徴するかのような、あの男。ノヴァが重ねてきたキャリア破壊の手法を嘲笑うかのように、あっという間にいくつものキャリアの群れを絶滅に追いやった。
ノヴァは苛立った。自分と同じことをしているというのに——壊す。壊す。壊す。壊す。あれはノヴァに見せつける。ノヴァを誘い出すかのように。そうしてノヴァを挑発する。あれの罠に誘い込もうとする。
何のために? 何のために。
あれは害悪だ。
ノヴァはその黒い竜を、
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