1 わたしと私

 フリッガにとっては、今となってはもう当たり前でしかないことなのだが——数ヶ月前のことを、考えてみる。

 父の真似をしたくて、弱い自分が嫌で、男を気取ってみたり。でも体の作りは当然違うから、いろいろな不具合が出た。それを全部見えない、気づかないふりをして、そんな暮らしが数年続いているうちに、体のほうが諦めて言うことを聞くようになった。

 そんな状態を好ましいとは思っていなかったけれども、それを変える勇気もなく、鏡を見るのが嫌なまま、国を出た。

 でも、今はそんなふうには思っていない。

 


 スペクトの目抜き通りで、ユーレでは王宮くらいでしか見られない歪みのないガラスに映る自分を見ていた。ランティスとすれ違う直前のことだ。

 隣にはヴィダがいて、彼はフリッガより軽く頭ひとつ分くらい背が高かった。確か軍の中でも長身のほうだったと認識している。その彼の、ガラスに映った後ろ頭をまじまじと見てから、少し視線を下ろして自分の顔へ。

 写り込んだ影では色ははっきりと判別できないけれども、この青の強い紫の目は父から受け継いだものだ。空を映した海の色、と誰かが褒めてくれた。垂れた目尻にかかる髪が風に揺れている。


 うなじでひとつに括って、後ろに垂らしている髪。腰に軽く届く。

 ユーレでは(たぶん、アドラでも)長い髪をしているのはほとんどが女性だ。でも自分は、男でありたいと願っておきながら、これを切ろうと思ったことは一度もなかった。正確には、そんなことを考える勇気も持てなかった。

 十五年前、父が切ってくれて、あんなことが起きて。それから竜と契るたびにだんだん伸びるのが遅くなって、その後一度も切っていないから、この髪の先に父の手の感触が残っているような気がして、別れを告げられずにここまできた。

 今もまだ、その別れは告げたくない、と思う。

 


 緩く結わえた髪を後ろからひと房つまんで、目の前へ。

 ベッドの上で布団ごと膝を抱えて、その上で親指と人差し指との間の髪をるように弄びながら、フリッガは向こう側に見える外の景色に目をやった。


 窓はそんなに大きくないけれども、高い建物の少ない街並みはよく見える。この部屋もスペクトの燦の部屋よりはずっと低いところにあるようだ。

 ドロッセルやスペクトと違って空が広くて安心した。それでも夜に虫の声が聞こえないから、やっぱりユーレとは違うな、と思った。

 遠くに大きな川が流れている。茶色く濁っていながらも悠然とした流れは、ここが祖国のような小さな国ではないことを改めて思い出させた。

 あの流れがアドラとファルケをわかつのだという。ここは国境の町だ。アトロポス家が統治する、アドラ三大都市のひとつ。


 フリッガたちは今、拘禁名下にナハティガル市庁舎の一角に身を寄せている。あてがわれた部屋は来賓用だったが、それにしてはこざっぱりとした内装で(それがランティスの趣味なのかどうかについては、フリッガとヴィダとは意見がまったく分かれた)、色調は白と温かみのあるグレーで統一されていた。

 清潔で広く、何より柔らかなベッドが有難かった。先日までいたスペクトの宿のベッドは酷かったから。とはいえあそこで首が痛んだのは、慣れないうつぶせ寝に挑戦した彼女の責任だったのだが。


 ナハティガルに着いてから一週間以上が過ぎている。

 燦の体調はすっかり回復していて、爛と一緒にいるところをよく見た。燦は目が合えば笑顔を返すが、爛の視線は鋭い。もっとも、別に敵視されているわけではないようだ。

 処分の決定待ち、という名目で市庁舎から出ることのできないフリッガやヴィダと違い、竜には何の制約もないから——というか、制約は意味をなさないから——そあらはゼーレとともに国境の向こう側へ渡り、情報収集に当たっている。

 その前に彼女は、ユーレから引き上げた彼女の竜の虫をヴィダに委ねた。虫が携えてきた国内の情報を、ヴィダはフリッガには見せなかった。

 ヴィダはもう、彼らの出国が厄介払いでしかなかったことを確信している。そあらはそれを知っていたが、フリッガには話さなかった。彼らが何と戦うのか、決めるのは彼ら自身だからだ。

 だから彼女はとりあえず、この先も予定どおり進むのか、その価値があるのかだけは確認することにした。 


 うーは最初こそ燦と爛のいる場所に好んで同席していたものの、そのうち話に飽きて(というより、彼はそもそも話に入っていなかった)ナハティガル市街の散策を始めた。

 ここにもスペクトと同じように猫がたくさんいる。しかもおおむねが、野良猫ばかりだったスペクトよりかなりの好待遇を受けていた。

 グループの中で特別の地位を確立している様子の白い猫についていったら、その猫はとある家で人間に食事を準備させていた。ついでに仲間の分も。


 フリッガはランティスと面談を重ねている。

 まずはランティスの関心のある分野のあれやこれやを聞かれるばかりだったが、フリッガには残念ながら建築に関する知識はほとんどなかったので、彼女はヴィダを連れてきた。彼はフリッガよりは首都グライトについてはずっと詳しい。その彼がランティスから聞かれた交通事情をかなりぼやかした形でしか話さなかったので、フリッガは彼がランティスを必ずしも信頼しきってはいないことを知った。

 それ以後フリッガも少し注意深くしゃべるようになり、そうしてふたりの口が揃って重くなって、聞き出せる情報は全て聞いてしまったと判断したランティスはようやくウェバの話を始めた。


 アドラ軍の指揮権は、第一次的には——一応——アトロポス家当主ランティスの手中にある。とはいえそれはあくまで国から権限の委譲を受けているだけだから、一都市にすぎないナハティガルがどれだけ踏ん張ろうと、アドラという国自体が命令を下してくれば無視することはできない。この条件下、ありがたいのは、ウェバがあまり表に出たがらないことだ。

 彼女は自分の匂いや痕跡を消すため、建前上は手続きをきちんとみたがる。そのため動きが遅い。けれどもだからこそ結果として彼女は常に正しく、それに反抗するものは悪だ。


 翠嵐はナハティガルでも合流していない。フリッガが彼とまともに話したのは、彼を置いて部屋を出たあの日が最後だ。それ以後彼は主と意図的に距離を置いている。だからこの状態も彼が選んだものだ。

 ただ、行方をくらませたとはいえ、翠嵐は契約を一方的に切ることもできるのにそれはしなかった。

 彼にはきっと、時間が必要なのだ。これだけの時間を生きてきた彼にとってはほんのわずかで、それでいて一番長く続いてほしいと願ったその時間のことを、それを終わらせたものに彼が向ける憎しみを、今のフリッガは少しだけ理解できる気がした。

 ともに歳を重ねられないということが、どれほどに残酷なことか。


 隣で寝返りの気配がして、膝を覆っていた布団が引っ張られた。さみいよ、という声がくぐもっているので、フリッガはヴィダの方を見はしなかったけれども、彼が相変わらずうつ伏せ気味なのだと思った。

 十五年前少年であった彼は、こうしてそれなりに立派な大人になった。では自分はどうだろう。体は年齢相応に成長しているけれど——フリッガは自分の手のひらをまじまじと見、それから隣の寝顔を見下ろした。

 そうして瞬きをして、左手で自分の頰を軽くつねってから、彼女はもぞもぞと体を寄せて再び布団に包まった。

 


 ウェバの部屋から見える景色は、今日は少し暗かった。空の高い位置に雲がある。

 窓から少し離れたところに、小さめの丸テーブルが置かれている。その上に何かしらの画面を備えた端末。ちかちかと光って持ち主に新しい情報を知らせた。

 ノヴァがテーブルに頬杖をつき、それ、と端末を示すが、向かいのウェバは頭を振った。興味がないのだ。ノヴァは肩をすくめながら画面を見た。ナハティガルが燦を収容した、という知らせだった。

 ウェバは立ち上がり、壁際まで歩いていった。

 外を見下ろす。上層階に位置する彼女の部屋の壁は一面ガラス貼りで、そこからは足元の街がよく見えた。行き交う人々の顔は、この高さからでは到底判別できない。それどころか背の高さも。大人か子どもかさえ。


 ほんの少しの時間過ごしたユーレでは、人の顔はほとんど彼女の目の高さにあった。人の声は意味のあるものとして聞こえた。

 通り過ぎていくものを、それぞれに別の価値を持つ人間なのだと思った。そしてその価値をどう感じるかが人によって違うことも、知った。


 周囲からサプレマと呼ばれていた夫は、その地位にふさわしい膨大な知識を得ていた。例えば「韻文律」。かつてはコードと呼ばれていたそれは、一般民には存在すら伝えられることはなく、ごく一部の限られた者、具体的には聖職者だけが代々口伝するものだが、もともとは意味を持つシンボルを組み合わせた図形と併せ、ジオエレメンツを呼び出し、ときには命令を与えるために開発された言語である。現代風に言うならば魔法陣と呪文のようなものだ。

 そんなものがなくてもジオエレメンツに干渉できるキャリアが開発されると、それらはやがて廃れていったが、キャリアを持つ経済力のない国では細々とコードの知識が継承されており、それは現在は聖職者に集約されて、今もなお受け継がれている。

 もっともウェバは、サプレマとしての夫にも、キャリアとしてのそれにも大した評価をしてはいなかった。彼女にとっては珍しいことでも何でもなかったからだ。

 それでも彼女は彼に、これまで見てきた何よりも得難い価値を感じていたし、それを超えるものなどもう手に入らないと思っていた。

 


 この世の空気を初めて肺に吸い込んで、そのとき、自分のことを評価してほしいと思っていた相手は自分に銃口を向けていた。それからは、そんなことは馬鹿馬鹿しい営みにすぎないと、愚かなことだと思うばかりだったのに——テルトに会って、彼の隣で驚くばかりの経験をした。

 何度も嬉しいことがあって、そのたびこれ以上の幸せはないと思い、それを知ってしまった後のこれからのことを考えて、怖くなった。


 嬉しくて涙が出る経験は、それでも一度だけだった。

 生まれてきたのは簡単に壊れてしまいそうな小さくて未熟な人間で、それなのにその手の力強さに驚いた。

 子どもの成長は目を見張るばかりだった。毎日変化があった。それが嬉しくて戸惑った。戸惑って、でも嬉しくて、そして考えた。自分は、歳を取らない。


 ウェバは顔を上げ、ガラスに映るノヴァを見た。こちらを見ている。笑っているような顔だが、目は冷たかった。

 ウェバは考えるのをやめた。その先に彼女が絶望を見たことを、ノヴァに知らせるつもりはなかった。

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