5 西日と影

 燦は普通の人間よりはずっと早く回復した。彼の体はキャリアのものだから当然のことである。

 もちろん竜には及びもしなかったけれども、人間であるヴィダには「俺の倍の倍か、さらに倍」と言わしめたほど。その怪我の治りはフリッガよりもまだ早かった。

 とにかく彼は翌々日には自ら背を起こして話をすることができたし、その次の日にはよろめきながらも立って歩けるようにもなった。そしてその間そあらは主を彼に置いたまま彼の隣に付き添った。ふたりの間に言葉はあったが、本当に話していることが何なのかはふたりにしか分からない。


 うーは猫のふりをして市街地を散歩してまわった。フリッガもヴィダも難しい顔をしていたので、それと一緒にいるのは息が詰まったからだ。

 ゼーレは姿を見せなかったし、翠嵐もどこにいるのか分からないけれども——なんとなく、そのふたりのことは、もし見つかっても一緒にいたいとは思えなかった。

 いつかそあらが言っていたように、彼らどうしは同じ建物に間借りしているという程度の関係でしかないが、それでも近寄るべきでないときくらいは分かる。


 路地裏に入れば意外に仲間は多く、その多くは恰幅のいい体をしていた。慣れたユーレとはまったく違う雰囲気の街ではあるが、ここでも猫に食事を提供したがる人間は少なくないらしい。

 人の数は多いものの、なんとなく無機質さを感じていたこの街の認識を、うーは少しだけ改めた。ここにはここの、ここに住む人々の営みがある。


 そんな路地裏社交場での盛り上がりを頭の隅に放り込まれながら、フリッガは眉間に皺を寄せて腕を組んでいた。目の前には食卓。あの共用室だ。

 向かいに掛けているヴィダの大きなため息に、フリッガは眉を解いて顔を上げた。

 先日やってきた別の宿泊客はもう出ていってしまったので、共用室はまた彼らの独占状態だった。遅い朝の光はこの部屋には入ってこなかった。隣の建物がそれほどまでに迫っている。


 卓上には地図が広がっている。ゼーレに頼んで取り出したものとは別の、支払いさえすれば誰もが入手できるものだ。ということは、軍事上重要なもの、そうであるがために公的には「ないもの」とされている拠点や道は書かれていない。

 前回はあまり気にせずゼーレの図面を広げたが、それはそあらやゼーレの協力あってのことだ。そあらの主が燦に移り、ゼーレもまた姿を見せない今の状態で、誰もいないからといって非公表の地図をでかでかと広げるつもりはヴィダにはなかった。

 ゼーレの出したあの図面の記憶と照らし合わせて、そこにはあったがここにはないものを思い出す。彼は別に人並み外れた記憶力を持つわけでもないから、その対照は決して正確無比とは言えないけれども、ある程度プランがまとまってから再確認するのでも遅くはないだろう。

 地形、天候。道ごとの輸送量。輸送されている荷物の、建前上の品目。警備の配置。場所と数。その目的、それに応じた装備。


 スペクトとナハティガルの間は国内移動だ。だから国境を越えるときほどの障害があるとは思えなかったが、それはあくまで道中に待ち構えている、もとより用意されているものの話である。スペクトを出た後に追ってくるものだとか、ナハティガルから迎え撃ってくるものだとか、そういうものは想定していない。

 少人数編成のほうがいい、というのはヴィダもフリッガも、そあらもまた一致していた。しかしスペクトに入るときと違い、今回彼らは燦を連れて出なければならない。

 スペクト中で顔を知られた彼を連れて、なおかつ特段の犠牲も出さずに(これは余計な口実をウェバに与えないため)、市内外を隔てるゲートの検問を突破するのは容易なことではないし、それができたところで彼は既にノヴァに襲撃された経緯を持つ。彼を同行させることが余計な危険を呼び込むのは自明であった。

 ノヴァの機動力は脅威だ。彼女は主と離れることをさほど厭わない。スペクトからフリッガたちが去ったならば尚更のはずだ。

 ヴィダはうなった。本当はもっとシンプルな任務であったはずが、編み込まれる糸がどんどん増えている。彼の使命だけを考えれば切り捨ててもよかったが、士気だのなんだのを考えると(ここで彼はフリッガを一瞥した)その選択肢は早々に捨てた。何より難題だからといって投げ出すのは、彼のプライドが許さない。


 図面の横には、また例の苦い液体が出てきたときのままの状態で置かれている。しかし今日はふたりとも砂糖にも牛乳にも手を出していなかった。そもそもそのカップは彼らのものではなく、今朝早くここを発った別の客が置いていったものである。

 フリッガはここ数日、宿の不思議な味のする食事に手をつけていない。食欲が落ちているわけではなくて、むしろ前より食べている。

 地元猫の情報網は人間にも有用だった。彼女の「スペクト市内の料理が美味しい店」に関する情報量は、うーが散歩をするほど加速度的に増えた。しかも宿側は、フリッガが二度目に食事をすっぽかして以降、それに便乗してか、ほかに客のない日には食事を出すこと自体をやめてしまった。その分の代金は支払っているはずなので、ヴィダは宿の主には何かしらの落とし前をつけてもらわねばと思っている。フリッガは気にしなくていいんじゃないと言ったが、翠嵐はヴィダに強く賛同した。


 ウェバの動きは何もない——少なくとも、察知できる限りでは。そのためウェバにとって燦を始末することがどれだけ重視されていたのかは計りかねたし、二度目の襲撃があるかどうかも分からなかった。それが燦だけを狙うものであるのかも、同行者をも巻き添えにすることを厭わないものなのかも不明である。

 推測もまともに立たないものをいくつも織り込んでプランをまとめ上げるのは至難の業だ。まずは無事にスペクトを出ること。それからナハティガルに向かうこと。ナハティガルに入ること、これはおそらくそれほど難しくない。ランティスはきっと、彼らを招き入れるだろう。


 スペクトから外へ通じるゲートは大きなものがふたつ、東西にある。西ゲートから出ればナハティガルへは数日程度の距離だが、東から出るとスペクトの外壁沿いを大回りすることになるから、かかる時間はそれなりに増える。スペクトは大都市だ。

 フリッガたちが次にナハティガルを目指すことは容易に知れるだろうから、当然、西ゲートは燦を逃さないために警備が強化されているとみるべきだ。ならば東はと考えるが、東から出るとスペクトの外壁沿いを西ゲートまで回り込むことになるから、壁の上からの狙い撃ちを避けて大回りするしかない。その場合距離も時間も伸びるが、ここでもノヴァの襲撃の可能性を潰すことができない。

 地図上の西ゲートを睨みつけたまま黙ってしまったヴィダをふいと見てからフリッガは振り向いた。誰もいないことを確認して、あのさ、と口を開く。

「燦を連れて出るの、簡単じゃないね」

「でも、やるんでしょ」

「やりたい。だけど、それも向こうの計画なのかなって気もしてきた」

 ヴィダは一瞬怪訝な顔をし、それから、ああ、と呟いて背もたれに背を預けた。ノヴァに燦を襲わせれば、フリッガたちは燦を逃がそうとするだろうと見越して——そして。

「俺たちを、守護竜をかどわかす罪人にするか、燦を裏切り者にするか、その両方かのね」

「うん。そういう演出」

「で、何のために?」

 フリッガは頭を振り、思いついただけ、と答えた。

「ただなんとなく、ここの人たちは思ったほどユーレには関心がないから。侵攻を考えてるなんて話を忘れるくらい……そのくらい、この国にとってはどうでもいいことなのかもしれないけど、だからこそ、わざわざそうすることにみんなの賛同が得られるような何か、後付けの理由」

「『みんなの』賛同?」

 ヴィダは意外そうな顔をし、それにフリッガは肩をすくめた。

「気にならない?」

「いや、継戦を考えれば民意の誘導は必要だと思うよ」

「ああ、ええと、そんな難しいことまで考えてなくて……」


 会ったこともない母の姿を、フリッガは瞼の裏に捕まえようとした。当然うまくいくはずもない。

 目を閉じたままうつむいてしまったフリッガを前に、ヴィダは後ろ頭を掻いて立ち上がった。少し高いところから地図を眺めてみる。敢えて焦点を外してみる。スペクトの輪郭がぼやける。それから目的地。ナハティガルは国境線を兼ねた川を挟んで隣国ファルケと接している。


 フリッガがそういうことを考えるとは思いもしなかった。彼女はもっと周りの目を気にせず気ままに行動しているとばかり。ちらと視線を向けると彼女のつむじが見えた。また地図に目を戻す。

 燦をどのように脱出させるか、その行動によっては自分たちが侵攻のきっかけになってしまいかねない。改めてそのことを思い、ヴィダはため息をつきながら左手で顔を覆った。

 目的が分からないということが、これほどまでに不気味だとは。後手後手の対応策だけ講じて切り抜けられる場面は、もう過ぎた。

 


 それから三日を数えた朝、フリッガはうーを連れて外に出た。少し歩いた路地裏で、うーはフリッガからごにょごにょと耳打ちをされ、かなり渋りながら姿を消した。言付かったことを伝えると、相手は緩やかな瞬きの後、諾の返事をした。これでうーのお使いは終わり。

 ヴィダは宿に残り、そあらを呼んでひとつ提案をした。燦も隣で聞いている。どう? と顎をしゃくって尋ねたヴィダに彼は、大丈夫、と返事をした。議会棟なら、燦は全階層にアクセスする権限を持っている。誰もそれを怪訝に思うこともないはずだ。


 フリッガの戻りを待ち、荷造りをした。発つと決めたら早いほうがいい。だから今すぐ発つ。

 翠嵐が、浮かせた食事代の還付交渉をするというので、フリッガは彼を自由にさせた。彼は用を終えたら簡単にスペクトを出ることができるし(消えればいいのだから)、何より彼のその申し出が、彼がフリッガたちとは別行動を望んでいるからだということも、彼女には分かったから。



 西のゲート近くの高い壁の上にはノヴァがいた。

 腰を下ろして膝に頬杖をつき、欠伸をするとため息をつく。いずれも人間の真似だ。人間であったことはおろか、生き物であったことすら数分しかなかった彼女が、生前したことのない動作である。

 彼女が燦を取り逃がしたことはウェバにはあまり愉快ではなかったらしい。その理由をウェバは説明などしなかったが、そこは盟を結んだ主と竜との関係である。


 ウェバにとって燦自身は、さほどの脅威ではない。しかし、アドラの三大都市を統括する燦、爛、そして熾とは、国祖ドラクマの遺産である。彼らはこの国の礎であり、この国そのものである。だからこそ彼らの行うことは常に、この国にとって、そしてこの国の民にとって「正しい」。

 人心はその「正しさ」を拠りどころに、どうとでも動く。

 だから彼らを、まとまらせてはいけない。国民をまとめあげさせてはならない。

 自分以外の「正しさ」を提示してはならない。自分に歯向かわせてはならない。

 おぞましい。おぞましい。あのくにのようにさせてはならない。あのひとのようにさせてはならない。否定させてはならない。そして、絶たなくてはならない。断ち切らなくてはならない。

 

 ノヴァはそこで、ウェバとの接続を切った。そこから先は理解する気もない深淵だと分かっていたからだ。

 

 スペクトの燦を抑えておけば、その両側に位置するナハティガルとドロッセルとの間は容易には結ばれない。ウェバはそれで、まずスペクトのクロト家に近づいた。

 燦の体は、ウェバの提案を呑んだ老いさらばえた主により、そしてその主と燦との間の愚かな情のために、竜たる特質を既に失った。燦に提供した体と同じものを、ウェバはいくつでも作ることができる。クロト家も途絶えた。

 燦の代役、それも意のままに動くものを、ウェバは容易に立てられる。当主は既に亡い。もう彼女に、燦を残しておく理由はない。

 ランティスも呼びつけた。彼を当主として戴くアトロポス家支配下のナハティガルは、おそらく爛の性格だとかアトロポス家の気質だとかもあるのだろうが、自身がアドラの軍事の要であるという自認の下、ウェバには否定的、反抗的である。

 釘を刺されたあの若い当主はどのように動くだろうか。少なくとも爛はウェバにつくことはないだろう、あの態度である。

 ナハティガルを通過するフリッガたちを彼らはどう遇するだろうか。どれくらいウェバの意向を汲んで見せるだろうか? 自身の延命のために。

 当主も竜も健在。ナハティガルの掌握は、最後だ。

 

 ノヴァは再び大きなため息をつき立ち上がった。

 厚い塀の上とはいえ、高さや幅を考えれば決して安定した場所ではない。しかしそもそも足をつける地を必要としない彼女にそれは何の問題ともならない。大袈裟に背伸びをした彼女は遠くを見るように身を乗り出した。

 眼前には抜けるような青空が広がっている。周囲の荒地を吹き抜けた風が砂を舞い上げ黄色く煙った空を見慣れた目には珍しい、透き通った青であった。

 今日は風がない。ノヴァは壁の上をゲートのほうに向かってすたすたと歩きながら燦を探した——さすがにそのままの姿で出てきはしないだろうから、探すのはあのふたり組だけれど。


 はたと足を止める。見つけた。

 ふたりは隠れる様子もなく現れた。足元に猫。

 影が東に向かって徐々に長くなり始めている。荷物は多くない。少なくとも燦を隠すことができるような荷物はない。市外に出る検問の列に素知らぬ顔をして並んでいる。

 燦を置いていく? まさか。ノヴァは塀の縁を蹴り、宙に舞った。燦は別行動だ。ならば東。


 ウェバは、さすがにそれはないだろうと言っていた。東ゲートから燦を逃すのは、無用の障害を経由させることになるだけだからと。

 合流を考えているなら、その危険はフリッガたち自身にも及ぶことになる。あの護衛の軍人は、それを良しとはしないだろうと。そう、信頼していたのだ。敵ながら。なのに。

 ノヴァは東を目指しながら舌打ちをした。あまりに簡単で、あまりに愚かだ。あまりに期待はずれで、そう、あまりに——


 ノヴァは眼下に東ゲートを捉えた。そあらの姿を探す。あの竜はまだ、燦を主にしているのだろうか。たぶんそうなのだろう、ここで彼女が死んでもサプレマに累が及ばぬように。せめてそのくらい考えてもらわなければ、目をかけていたウェバすら愚かになってしまう。

 しかしそこにノヴァの探した姿はなかった。

 翠嵐はまだ宿だし、燦はひとりで議会棟に入っていったとも報告を受けているから、おおかた東ゲートの守衛配備に口出しでもして状況を整えてから出都するつもりなのだろう。そう目星をつけて、市内中心部に目をやる。

 青い空に突き立てるような黒い議会棟が見えた。暗くなるのを待つのだろうか? どこで合流するつもりだろうか。


 つ、と塀の上に降り立って周囲を見回してみる。東ゲートはドロッセル方面からの人や物資が流入するので、軍都ナハティガル側の西ゲートよりも往来は多い。暗くなる前に着くようやってきた者たちが入市の列を作っていて、退市する者の手続きは慣れた者の手が足りていないのか、とにかく手際が悪かった。

 市外の、枯れかけた草がまばらに生える黄色い砂地を眺めながら、ノヴァは壁の上に腰を下ろした。

 そあらは燦を、どう外に出すのだろう? 守衛だけ相手にするつもりであればそあらひとりでも十分だろう、それはそうだ。しかし一度襲撃を受けていることを完全に無視したプランを立てるわけもないし、もしかすると、西ゲートから先に出たふたりは外周を戻ってこちらに来るつもりだろうか。それを待って、外からの応援を得て脱出するのだろうか。


 西ゲートに戻ろうかとも思ったが、ノヴァはまるで彼らの意のまま振り回されているような気がして気に食わず、一度立ち上がったものの再び膝を曲げた。

 ちょうどひとり、手続きを終えてゲートをすたすたと通過したところだ。

 足元まであるマントに身を包み、フードを目深にかぶった細身の旅人の姿。薄目でその姿を追い、ノヴァは眉を顰めて身を乗り出した。あれは。

 旅人が振り返る。それは壁の上、ノヴァを見ながらフードを下ろした。そあらだ。


 彼女の表情は変わらない。ノヴァは半ば反射的に飛び降りた。入市を待つ列がざわめきながら避けるようにうねった。

 地を捉えながらノヴァが歩を進める。そあらは動かない。マントの裾も動かない。ノヴァは目を細めた。彼女は歩みを止めた。


 遠くに羽搏く音がした。ノヴァは振り返った。

 議会棟の上、西日が強い。思わず眉を顰め、目を細めた。

 日を透かす六枚の紅色の翼を広げ、頭をもたげて黒い竜はしなやかに飛び立った。すぐにそれは陽の光に飲まれ、黒い点ですらなくなった。

 


 あの竜は、少年ひとりくらいなら簡単に運べる。

 追っても間に合わない。ノヴァは眉を解き、一度顔を伏せてからそあらのほうに向き直った。

「で、あなたが囮」

「そういうことね」

 そあらは涼しい顔で答え、身を覆っていたマントを滑り落とした。

「ご期待には沿えたかしら」


 ノヴァは思わず苦笑いをこぼした。

「もう一声ってとこかな」

「きっと大丈夫よ。私ももう行くから」

「そう。じゃあ、バドによろしく」


 そあらは胸に手を当て深く辞儀をすると、彼女を見ているノヴァと、黒い竜の行き先を指差しざわめく人々とを後に、するりと姿を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る