4 どこでもない、全ての場所のこと
——わたしたちは つねにあなたたちとあり
そうであるがためにあなたたちはわたしたちを知らず
そして知ろうともしない。
何もない、ただ白いだけの空間が広がっている。燦はまず上を見、次いで左右を見回して、大きな息をついてから再び正面を向いた。
アドラが今国の形に安定するまでに、何柱かの竜と対峙したことがあるが、こんなことをするものは一柱とていなかった。彼自身もできるとは思えない。
取り込まれた、と思った。けれども目の前の白い竜、人間の作った絵空事の種族のように尖った耳を持ったましろの少女は、少し驚いた顔で燦のほうを見ている。その視線の先は燦の背丈よりも上だ。
燦は振り返った。ああ、と彼は漏らした。
「間に合った」
心底ほっとした顔の彼に、そあらはいたずらっぽく片目をつぶって見せてから一歩進み出た。ノヴァはそあらを舐めるように見、それから「ふうん」と呟いた。
「歓迎はしないよ」
「承知の上です。でも挨拶くらいはさせてちょうだい。何しろ二十年ぶりだもの」
「そうだったかな。それよりどうやって入ってきたのか教えてくれる?」
尋ねながら膝を抱えたノヴァの肩の位置は変わらない。ただ白いだけの空間には影さえ落ちなかった。
「教えたら見逃してくれるかしら?」
「どうしようか。あなたについては何も指示を受けてないから、わたしが決めるよ」
「では、あなたのマスターに伝言を持って帰るといいわ。娘は立派に育っているから心配いらないと」
ノヴァは少し考え、それからにまと口角を上げた。
燦はキャリアの体を間借りしている。つまり燦は、竜であるとともにキャリアだ。
当然、容量の許す限りで竜と盟を結ぶことができ、そうした場合その竜は、主たる燦の体を足がかりにして、現れる場を選ぶことができる——つまり今、そあらの主は燦だ。
「それ、ウェバの娘には了解とってるの?」
「さあ。当ててごらんなさいな」
興味ないけど、とノヴァは頭を振り、膝を抱えていた腕を解くと脚を下ろした。
どこもかしこも白いだけ、境界も影も何もないここでは、歩いてくる様子すら地を捉えているかは分からない。
二歩、三歩。ノヴァが近づいてくる。そあらは右手のひらを前に据えると、ふ、と吹いた。一面が白いばかりだった空間の上空に、針で突いたような穴が散った。
風が吹き込むほどもない、少し見ていればきっとまた白く塗り込められてしまいそうなそれを見上げ、ノヴァは肩をすくめた。
「助けに来るんなら、もっと先まで見据えた用意しなくちゃ。いつ主を乗り換えたのか、乗り込んできたのは割と驚いたし、そこはまあ拍手を贈るけど」
そう言いながらノヴァは片腕を広げ、人差し指でゆるやかに円を描いた。その軌跡を点描のように黒い点が追っていく。くるくると回し続けたその渦はだんだん大きくなって、ノヴァの体を螺旋のように取り巻き始めた。
「あのね? わたし、ウェバからは『娘は最後』としか言われてないんだよね。だから、あなたを始末すると娘も一緒に死んじゃうから駄目だなって思ってたんだけど、これならそんな遠慮いらないわけでしょう。ここの主人はわたしだし、あなたが利用できるようなものはない。そんな最初から結末の見えてる勝負をあなたが仕掛けてくるとは思わなかった。もう少し賢いと思ってた」
「あなたから合理性を疑われるとは思わなかったわ。でも」
そあらは目を細め、形のいい人差し指を口元に当てた。
「あなたも、私が思っていたよりおばかさんね」
ノヴァは一瞬眉間に皺を寄せたが、頭を振ると一度天を指し、それからその手を大きく振り下ろした。
ノヴァの指先をついてくる黒い点は鱗粉のまぶされた幾本もの蜘蛛の糸のように、あるいは意思の通った金属線のように、一度大きく後ろにうねるとそあらの背をめがけて向かってくる。
そあらは少し身を捩ってそれを右手で束ねとった。触れた手のひらと指先が黒く染まっていく。「かたち」が吸い取られるようだ、とそあらは思った。
彼女は舌打ちをしながら左手で宙を払った。鍵盤を弾くような仕草の指先から繊細な水の幕が編まれ、離した右手ですくい取ると、黒く消えかかっていた手は再び白に戻った。
指の間からこぼれた水は落ちることなく、ぱきぱきと音を立てて凍りつく。そあらは不意に、フリッガがそれにいい顔をしないことを思い出した。
それはかつてこの氷が彼女の大事な人を傷つけたからだ。きっと今の彼女ならそのことをあっさりと認めるだろう。娘は大きくなった。そして強く。思わず口元が緩んだ。
すいと後ろを振り向く。ノヴァは燦を見逃しはしていない。燦は既に膝をついている。何とか防戦してはいるけれどもすぐに限界になる——たぶん、そあらよりも先に。
人の器を持ってしまったがために、彼はそあらよりもずっと脆い。彼も守らなければ、自分だけでなく。いずれが落ちてもふたりとも死ぬ。だというのに。
ノヴァは苛立った。この女の余裕は一体なんなのだ。力の差は歴然としている。燦だってほとんど使い物にならない。なのにどうしてこんなに絶望せずにいられる?
ノヴァは両手を合わせた。ぱんと乾いた音がして、彼女の背後からこれまでとは比べものにならない数の糸が放たれた。
まっすぐに、あるいは大きく弧を描きながらそあらに向かっていく。これで簡単に絡め取ることができる。黒く塗りつぶして、それから白の中に埋めて、それで終わり。そう思ったのに。
「ねえ」とそあらが口を開き、ノヴァは動きを止めた。
「ねえ。あなたはこんなところで遊んでいるけど、主をほったらかしておいていいの?」
ノヴァは瞬きをした。考えている。そあらは畳み掛けた。
「私の先の主は、まだスペクトにいるわよ」
「……だから、何」
「あなたの好敵手は、なぜだか知らないけれどあなたの主に直接手を下そうとしない。でも、彼と和解したその主はどうかしら? そしてそのお供は? その両方が、敵の頭を叩いた方が早いなと、そう思わない確証があって?」
ノヴァは息を飲んだ。ウェバの頭の中を探る。けれどもそこは曖昧模糊として、鮮明な像を結ばない。
今ウェバとノヴァとは、繋がりの極めて薄い世界に別々に存在している。これではウェバの状況が正確に把握できない。
「私はあなたを主から引き離せれば、それで役目は終わり」
そあらの語り口は穏やかで淀みなく、言い終えた彼女の顔には笑みすら滲んだ。ノヴァは舌打ちをすると指を鳴らした。
白い空間は霧散した。もはやノヴァの姿はなかった。
瞬く間に、陽の落ちて間もない街の景色が戻ってくる。そあらは、こんな時間だったかしらとひとりごち、後ろを振り返った。
燦を後ろから抱えるようにして翠嵐が立っている。あら、とそあらは呟いて、すたすた歩み寄ると燦を受け取り抱き上げた。
「見ていたなら手伝ってくれてもよかったのよ」
「見えてねえよ。それに外からどうこうできるとこじゃなかっただろ」
「あら、なら私たちがそういうところに招かれた、という時点から見ていたわけね」
「たまたまだ」
翠嵐はノヴァを観ていたのだろう、とそあらは思った。彼がやたらと嫌っている、黒いゴーストに対置されるノヴァを。
でもきっとそれは、今ここで確かめるべきではないことだ。そあらはだから、そう、とだけ答えた。
「戻りましょう。少し荷物が増えたから、今後のことを考え直さなければならないわ」
燦の体はキャリアを元にしているとはいえ、傷は竜に比べればずっと治りが遅い。そあらは床につく「兄」を見下ろしてため息をついた。
「容態は?」
「命に別状はありませんが……と、私たちが言うのも変な話ですが」
今しがた部屋に入ってくるなり問うてきたヴィダは、そあらの返事に「別にいいんじゃないの」と半笑いで答えた。そあらは立ち上がると、今まで座っていたベッドサイドの椅子を彼に勧めたが、彼はそれを辞して向かいのベッドに腰を下ろした。
実際にはフリッガもヴィダも、ウェバを討つなどということは一言も言っていない。そあらが認識できる範囲では考えすらしていなかったはずだ。もし提案したとしても即刻却下されていただろう。彼らの任務はあくまで、アドラを越えてファルケに至り、そこで他国の協力を得てアドラを牽制しながら国防を固めることにある。
彼らの相手はアドラという国であって、ウェバという個人ではない。ウェバが黒幕であるのは確かだが、中途半端な思いつきで彼女を襲ったとしても、アドラにユーレを攻める口実を与えるだけになるおそれすらある。だから少なくともヴィダは絶対に、検討半ばな現時点でのそんな突飛な行動は許さないだろうし、フリッガがその意向を無視するはずもなかった。ただでさえ彼女のウェバへの思いはあまりに複雑で、整理されていないのだ。
そあらが見下ろしているのに気づいたヴィダは、何? と首を傾げ、そあらはそれに首を振るだけで答えた。
一時的に主を乗り換えるというのは、もともとは彼の発案だ。キャリアは消耗品であると知った彼が護衛対象の延命のため負担の軽減を考えるのはある意味では普通のことだし、それにあたりフリッガがそあらを選んだ理由もそあらには分かる。
フリッガは彼女を誰よりも信用していた。キャリアとジオエレメンツという縁が切れても彼女はいなくならないと、そう。なのにそあらは「兄」のためとはいえ危険を冒した。ノヴァが引き下がってくれなければ、ふたりとも消えていた。
「私は……勝手なことをしました」
「そうだな」
そあらが燦を連れて戻ってきたとき、フリッガは驚いた顔をしたがすぐに慌ててベッドをひとつ用意した。
燦を寝かせた後、そあらの話を聞いた彼女は複雑な表情を覗かせただけで、これといって労いもしなければ諌めもしなかった。それはそあらと燦が無事であったという安堵と、絶対の信頼を置いていたそあらが何の相談もなくいなくなってしまったかもしれない、そんな重大なことが自分の
事情を聞いた後、彼女は、そう、と呟いたきり部屋に戻ってしまい、出てこないまま既に半日が過ぎている。
今、フリッガはそあらの主ではない。だからフリッガの考えていることは、そあらには分からない。
分からないことがこれほどに不安を掻き立てるとは。そあらは腹の底に冷たく重いものを感じた。ただのキャリアとしてであれば、もはや何の関係もない人間のはずなのに——なのにこんな思いをするのは、たぶん、フリッガは自分にとってそれだけの存在ではないのだ。
母親のような、と彼女に言った気がする。スペクトに来てすぐのことだ。それは「子どものような」彼女に言い聞かせただけの、ただの比喩のつもりだったけれども。
「マスターに謝らなければなりませんね」
そあらは目を伏せ、燦に目をやってから呟いた。
「随分失望されていると思います」
「失望はしてないよ。でも、手伝いたかった、つってプリプリはしてた」
「まあ……」
そあらは思わず頰を緩めた。まだフリッガは、信用してくれている。
「私は少し頭を冷やした方がいいですね」
「そうかなあ。いいと思うけど」
「少し空けます」
ヴィダは部屋を出て行くそあらを見送り、大きな欠伸をしながら埃の乗ったブラインドに近づき、その隙間から外を眺め降ろした。
ウェバの考えていることが分からない。燦はいずれ邪魔になるのだろうが、なぜ手を下すのが今であったのか。それに相手がどれだけ重要性を見出しているのか。
この状態のスペクトに燦を置いていく選択肢はもうないから、今後は道行の条件が変わる。それが自分たちに及ぼす影響も、そしてランティス、あるいはナハティガル全体との交渉がもたらす結果も。何もかもが希望であり、同時に不安要素でもある。
自分にできることなど限られている、とヴィダは思った。大げさな肩書きこそ持っているが、自分がそれにふさわしい人間だと感じたことはないし、国を出てからはなおのこと、この世界には彼の知らないことが、そして及びもつかないことが多すぎる。
それでも、そんなことが分かったからと言って彼のすべきことが変わるわけでもない。
彼の任務は単純だ。王命を受けたサプレマを、ファルケ首都フリューゲルの議場まで送った上で無事国に戻すこと。
しかしそれはあくまで、軍の人間としての彼の任務だ。彼は女王の信を得た、そして名を賜ったナイトである。
だから彼は必ず、ユーレに戻らなければならない。戻って国を、彼の考える「あるべき国」を、守らなければ。
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