3 空と雫

 ランティスは爛の消えた方をしばらく見送っていたが、ため息をついてから視線を前に戻した。

 向かいにはフリッガとヴィダがいる。ちらちらとではあるが無遠慮にこちらを気にしつつも真横は避けて通っていく通行人に肩をすくめ、ランティスはふたりに苦笑してみせた。

「どうもあんまり心配してもらえなくてね」

 フリッガも笑った。

「ほかのふたりとは少し雰囲気が違いますね」

 熾と燦のことだ——ランティスは思った。半ば呆れてその姿を眺める。


 よくもここまで無傷で来られたものだ。ドロッセルでの振る舞いは聞いていた。己の身分を報道にまでさらしたのだからある程度の覚悟はあったのだろうが、それにしてもスペクト、それもウェバのいる議会棟からもほど近いこの場所で、これほどに隠れもせず堂々と姿を現すとは。

 装飾の多い、一目で聖職者と分かる赤と黒の衣装。時代がかった格好を好むランティスに言われる筋合いはないのだろうが、目立たないとは冗談でも言えない。しかもその目は紫色をしている。

 腕には畳んだグレーのケープを携えている。それで衣装を覆うこともできるのに、敢えて。

 ふと不安になってランティスは後ろの建物を振り返った。あまりにタイミングがよすぎるように思った。


 ウェバが自分を呼びつけた理由が、本当はここにあったのだとしたら。自分のフリッガに対する態度を、彼女は試金石と見ているのかもしれない。そのあり方次第で、今後彼女がナハティガルをどのように扱うかが大きく左右される。

 爛の姿を探すが、見当たらなかった。いよいよひとりで決断しなければならないのだ。ランティスは肩を落とした。

 何をするにせよ場所がまずい。ここが自分の町ならばまだ花虫が——火竜爛の眷属であるところの竜の虫が——多少の目くらましはしてくれるだろう。しかしいやしくもスペクトは彼女のお膝元なのだ。直接見られてはいないにせよ、町を出るまで程度の範囲、何らかの監視がされていると考えて間違いはない。ただでさえウェバの竜は未定義、得体が知れないのである。

 どうする、と自問したランティスが顔を上げると、その目の前でフリッガは軽く会釈をし、足を踏み出した。


 ランティスは思わず後退った。フリッガはその脇を立ち止まることもなく通り過ぎ、彼女の少し後ろに付いていた黒髪の男が、片眉を上げ目配せしたように見えた。

 振り向いて確認するわけにもいかなかったが、心当たりがある。割に最近叙勲を受け、ナイトと師団長とを兼任するようになった男だ。列騎も昇任も先例に照らしてあまりに早いというのでナハティガルでも少し話題にはなったし、経歴にも目を通した気がする。士官学校上がりの生え抜きだったはずだが、ナイト位すなわちユーレ女王から寄せられているひとかたならぬ信頼が、主にその(女王と近い、という)年齢のせいもあっていろいろに憶測を呼んでおり——要するにアドラ軍においてはその能力よりは、かの国の王家の醜聞に繋がりうるものとして不名誉な評価を受けている男であった。だからこんなところで目にするのは意外も意外であったが、珍しい色の髪に赤い瞳。それから目立つ頬の傷、それだけ揃えば間違うはずもない。


 ふたりが先の角を曲がってしまっただろうころ、ランティスは大きく安堵のため息をついた。

 彼はそこでようやく、自分が息を止めていたことに気がついた。まだ通行人はこちらに目配せをしているが、さっきほどの好奇の目は感じない。

 爛が行ってしまったほうに向かい、少し大股で歩きながらランティスは考えた。ユーレのナイトは各々独任制と聞いている。しかし組織の幹部を兼ねていれば、いくら独任とはいえ手前勝手に動くことは容易ではあるまい。ああ、この路地はまだ入ったことがなかった。サプレマだけならまだしも、与えられた肩書きを考えれば国を簡単に空けられるはずのないあの男までが何故、こんなところにいる? サプレマの能力を考えるならば、護衛をつけるとしても適任者はあれに限らずいくらでもあるだろうに。おっと、ここは前回は別の店構えだった気がするな——歩いていると目に入るもので気が散る。ランティスは立ち止まり、腰に両手を置いてうつむいた。

 足元はグレーの、凹凸の多い石畳だ。往来ですり切れてだいぶなめらかになっている。この道だけはウェバが現れる前から変わっていない。

 この国は、ウェバは何を仕掛けているのだ。そしてサプレマは、あの国は何をしようとしている? ランティスは顔を上げ、周りを見回しながら声を上げた。

「爛」


 通行人が振り返る。ランティスが顔を前に戻すと、爛がすとんと降り立った。水色の大きな帽子を揺らして主を見上げた彼女は、主が「行こう」というのに頷いて、その半歩前を歩いていった。

 その先にはスペクトのゲートがある。ナハティガルから彼らと同行した護衛もその辺りに詰めているはずだ。

 おそらくあのふたりは早晩ナハティガルに至る——それまでに考えなければ、とランティスは思った。

 そうだ、考えなければ。最強の火竜を従えたアトロポス家の当主、今残るほぼ唯一といっていいドラクマの正統な継嗣として、この国の舵取りのあり方と、排除すべきものとを。

 

 

 スペクトの建物は、議会棟には及ばないにしろ高い建物が多く、その大半は黒っぽく冷たい手触りの建材で覆われている。

 多くの屋上には通信系の設備が置かれていて、一般の立ち入りが規制されているところが大半だがノヴァには知ったことではない。彼女は手すりに腰を下ろし、組んだ膝の上で頬杖をついた。

 ついさっきまで下方にウェバの娘と、それに少し先立ち近所で生まれて、そのときには育たないかもと言われていたあの子どもが見えていた。

 いずれもちょっと見ない間に元気に育っていたようだ——おめでとう、と呟く。しかしどうせ両方ともすぐに死ぬのだ。老い、病、不慮の事故。どんな事情であろうとノヴァからすれば瞬きの間ほどもない時間であることに変わりはない。

 だからウェバがその人間にこれほどまでにこだわる理由が、彼女には理解できなかった。

 ウェバは嫌がっているわけでも、面白がっているわけでもない。ただ観察しているのだ。娘と、それ以上に、国が娘を任せることにした、あのバドに生き写しの「子ども」の動向を。


 彼の行動は決して突飛なものではない。むしろその思考過程はどちらかといえば理屈っぽいから、彼の手元にある情報さえ見誤らなければ予測はかなり容易である。

 だからウェバも当然その動きは、ノヴァの助けなどなくても簡単に推し量ることができるし、そういう意味では彼女にとって、彼には何の面白みもないはずだ。それでもウェバは敢えてその行動を注視している。

 それはたぶん、。彼女を作り、そして彼女を歓迎しなかった者。彼女よりレイを選んだ男。これまでのキャリアを全て過去にするキャリア=ノイのベースとなった、あの出来損ないのキャリアを。

「わたしはそろそろ飽きたかなあ」

 ノヴァは薄く笑いながらそう言い、振り返った。


 置かれた設備が場所を取り、そう広くはない屋上もまた、壁と同じく暗い金属質のタイルで覆われている。

 腰掛けたノヴァからやや見下ろす形になる少年もまた穏やかな笑みを浮かべているが、それはノヴァよりどことなくぎこちなかった。燦はノヴァの見ていたほうに目をやり、また視線を前に戻すと口を開いた。

「そう? 僕はもう少し見ていたいと思うけど」

「あ、そう。残念だね」


 ノヴァは勢いをつけて手すりを降りた。しかし音はしない。彼女のつま先も踵も、地についてはいないからだ。ただその足元には影が渦巻き、彼女が進めた歩みの下で範囲を広げていった。

 その影は、燦にとっては今は懐かしい場所であった。今の彼が自力では戻れない場所だ。体を持ってしまったがゆえ、それを捨てるということが「死」と切り離せないがゆえの、戻れるかどうかは保証ができない場所。彼岸とも呼ばれる場所だ。


 全ての主なき竜の居場所。広さも時間も無限であり、だからこそゼロである場所。

 ノヴァがぱちんと指を鳴らした。「いいでしょ」と笑いながら。

「『ゴースト』、割と気に入ってるんだよね。神出鬼没な感じがさ?」

 燦の背筋をぞわりと寒気が走り抜けた。彼が影に飲み込まれるのは、それよりも速かった。

 

 

 ウェバは頬杖をつき、小さな瓶をテーブルに置いた。

 いつもの彼女の部屋。足元に薄い絨毯を従えただけの、小さめの丸テーブルが置かれている。はめ殺しの窓の外にしか彩りのない、殺風景な部屋だ。

 その瓶の中には赤紫、彼女の瞳と同じ色をした液体がわずかに入っている。薄い円筒状のガラスでできたそれは、過去は厳重に密封されていたもので、蓋には糊の跡も残っているが、今は外の世界を映し抱いて卓上に光を落としていた。

 懐かしいでしょう、と彼女は言った。部屋には彼女のほかには誰もいないけれども——「それ」は、彼女のいるこの建物の上で彼女の声を聞いている。そのはずだ。だから彼女は続けた。


 その瓶の中身はずっと前、ウェバがまだガラスの筒の中で「生まれる」のを待っていたころ、彼女を抱いていた培養液である。

 今まで変質することなくあり続けたのは、ウェバを通じてノヴァが与えた恩恵を被っていたからだ。みるみるうちに茶がかった色に変色を始めた今は、もはやその庇護下にないことは明らかだった。

「大事に取っていたのよ。私を生んだものだから」

 そう言いながらウェバは瓶を通して卓上に映る光が濁りきってしまうのを見届け、それから瓶を人差し指で弾き倒した。小さな瓶はテーブルの端まで転がって、絨毯の上に落ちた。


「ねえバド」

 ウェバは天井を見上げた。返事はない。しかし彼女は気にも留めなかった。

「言われたとおりのものを作るのは簡単だったはずでしょう? 私ですら、この程度の設備しか揃えていなくても似たものを作ることができた。そういう都合の、使い勝手のいいものをどうしてあなたが作らなかったのか、その上どうしてこんな面倒な仕様を敢えて選んだのか私にはよく分からなかったけれど……」

 すいと窓の外に目をやる。ランティスがフリッガたちとすれ違ったのは、ノヴァを通して見た。その後のノヴァのことは知らない。おおかた燦と遊び始めたころだろう。主とは切れた、この世ではない場所で。

 終わるまでは戻ってくるまい。その間、ノヴァとウェバとは主と竜としての共有関係から離れる。ウェバは、そういうふうに作られた唯一のキャリアだ。そのことはプレトも、誰よりも承知のはず。けれども頭上の黒い竜は何も応えなかった。


 ウェバはため息をつくと立ち上がり、床に転がっていた小瓶を踏み割った。

 それは高く小さな音を立て、絨毯にわずかばかりの染みを作った。

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