2 ふたりの魔女

「だから僕が思うにね。スペクトが官庁街を中心に描くシンメトリーは、秩序の体現というよりはむしろ……」

「うるさい。お前はもう黙っていろ」


 先を行く少女、火竜らんは主たる青年の胸ほどの背丈しかない。顎の線できれいに揃えられた髪の上に、水色のベレー帽をかぶり、服装も水色で統一されている。髪と同じ色の瞳はつり上がってはいるものの大きく、顔立ちはまだ幼い。しかしその立ち振る舞いや口調は、容姿に似合わず大人びている、というよりも尊大ですらあるものだ。

 その後ろを歩く青年がうなじでひとつにまとめた金髪は、かなり白っぽい色をしている。大きな眼帯が覆っているから目立たないものの、じっくり見れば相当に整った部類の貌をした彼は少女の歩幅にさりげなく合わせながら、その半歩後ろを歩いていた。少女の言葉に素直に従い口を閉ざすが、悪びれた様子も気分を害した様子もない。

 通り過ぎる者たちが振り向くが、ふたりともまったく気にかけていない。そんな扱いを受けるのが彼らには当たり前だからだ。

 彼の眼帯をしていない右目は、この国では支配者を表す色をしている。教祖ドラクマの子孫の証、紫。認めた誰もがぎょっとした顔をし、すぐさま立ち止まり彼に頭を下げた。彼はそれに人好きのする笑顔だけを返した。


 ランティス=トレンタ・アトロポス。アドラの軍事都市ナハティガルを統べる、教祖ドラクマの三男の家系の、現当主である。


 爛に先を遮られたランティスは、話し足りなさげな顔をして空を仰ぎ、目の前にそびえる建物に瞬きをしてから肩をすくめた。

 黒い金属質のタイルで覆われたその建物は、この国の司令塔である。下層階こそ市民がかなり自由に出入りしているが、上層は関係者でなければ立ち入りを禁じられている場所だ。そこに出入りができるランティスたちも、本来ならば厳重な警備に守られているべき立場なのだが、彼は町歩きが不自由になるという理由でそれを望まない。そして彼らは、それが許されるだけの自己防衛力を備えている。


 爛はその炎の苛烈さが故に、かつてドラクマが最も重用し、そして信徒が最も崇めた竜である。だからこそ彼女は、隣国ファルケを牽制する要として国境に配され、その膝元はこの国の軍事の中心として発展した。ナハティガルである。

 ランティスの家系は代々その都市を治め、軍を統率してきたが、もともと三分家の中でも突出して学者肌の者が多い血筋であった。より端的に言えば、関心が偏っている上、好奇心が旺盛すぎるのだ。そのため彼の祖父も父も、市政や軍務は周囲に任せてきたが、その者たちを選任するにあたり思想傾向の審査を慎重に行うだけの賢明さはあった。そのことが現在もファルケとの均衡を守るのに大きな役割を担っていることは言うまでもない。

 とはいえよほど個人的に食指が動いたときには、アトロポスの当主は周りの制止を振り切ってでも前のめりな行動に出てきた。それが彼らの家系が「学者」と揶揄される理由でもあるのだが——一番最近では先代。

 彼はユーレ沿岸の資源に大変に興味を示し、国境侵犯も頻繁に指揮した。しかし、未知の資源や失われた技術の獲得だとか利権だとか、そういうもっともらしい目的が建前に過ぎないことは周囲の誰もが知っていた。

 空ばかり見上げていた彼は、どこまでも学者な男であった。彼は前サプレマ、テルト・フェンサリルから受けた傷がもとで他界した。


 当主の座がランティスに移ってからは(ランティスの関心がもっぱら建築や都市構造にある、という理由がかなり大きいが)ユーレへの侵攻にはナハティガルは消極的である。もっとも、前当主に近かった者はユーレにいい印象を抱いていないし、アドラ軍の方針を最終的に決定する政府も、ユーレの海底資源獲得にかなり乗り気だと聞いている。

 そうした中で、侵攻については聞こえないふりをしてきていた、アドラ軍の指揮権を与えられている自分が首都に呼び出されたのだから、何か特別な理由があるのだろう、とランティスは思った。その「何か」の内容など分かりきっていたが、考えたくはなかった。


 今アドラの方向性に決定的な影響を与えているのは、議会や政府の議事ではない。

 もちろんそれらは形式的には、ないがしろにされているわけではない。だから手続上は何も問題はないが、そこに参集している者の大部分はあの「白い魔女」の意を汲もうとする。この国の舵取りは彼女に委ねられている。

 だいたい、偉い連中というのは、自分のように血統で決まるわけでもない限りは年寄りが選ばれているものだ——ランティスはため息をついた。

 そういった者が怖れるのは、老いと、死だ。だから白い魔女は崇められる。


 既にその痕跡すら残っていない、遠い遠い時代から生きてきたという彼女は、その技術の片鱗を数十年前、この国に持ち込んだ。

 彼女がこの国に現れて政府に接触するようになったころに政府や議会で小間使いをしていた者は、今やその組織の中では中堅以上を占め、中には重役になっているものもある。若かりしころに会った彼女と今の彼女が何ひとつ変わっていないことを、アドラの有力者は身を以て知っている。

 だから彼女は崇められる。そして、その唇が音をなす前にその意を汲もうと立ち回る者がいる。彼女からの恩恵を期待し、その歓心を買うためだ。


 こうして彼女はいとも簡単にアドラの実権を握った。彼女はもはや「なぜ」を説明する必要もない。もっともらしい理由は周りの者がいくらでも考えた。

 しかしランティスはそういう連中とは違う。彼はその血統だけを理由に生来、そして死ぬまでこの立場にある。せいぜい三十路の半ばに過ぎない彼には、老いへの恐れもまだそれほどない。そして彼は「なぜ」を考えるのが何より好きだ。

 あの魔女のことが気に入らない主な理由はそれだった。

 彼女がユーレ侵攻にこだわる理由が、彼女にとっての益が、彼にはまったく分からなかった。


 彼の父もまたユーレ侵攻を指揮したひとりだ。しかしその目的ははっきりしていた。

 父が語るユーレの海底資源の話は、それにさしたる興味のないランティスが聞いていても面白かった。その「資源」の実態は、もう記録もない古い時代、人間が星と星を巡っていた時代に墜ちた大きな大きな貨物船であるという。

 そこには人間が大地を離れ、瞬く星を手に入れてきた歴史と術とが眠っている。父が目を輝かせながらそんなことを話す様を見ているのは、その話があまりに専門的で退屈に感じられるときですら楽しかった。

 だから彼は二十余年前、父に同道したときの、かの国との国境でのこと、そして父の最期を今でも忘れていない。


 赤い衣を纏ったサプレマは、この地第一の聖職者であるはずのそれは、まるで絶望の化身のようだった。

 彼の失われた左目が最後に映した光景である。

 


 ランティスたちが通された部屋は天井が高く、そのくせ黒檀のようにも金属のようにも見える重苦しい壁に囲まれた圧迫感を感じる部屋であった。そこに置かれた大きなラウンドテーブルと、それを囲むベルベット張りの椅子は、彼が苦手とする厳かな雰囲気をたたえていた。

 しかし並べられた椅子には本来そこにあるべき姿はひとつとしてなかった。ただランティスの向かいにあるもうひとつの扉の前、一番離れた位置にひとりの女性が腰掛けているだけだ。

 頬杖をついた、抜けるような白い髪と肌の華奢な印象を与える女性。


「ようこそ。お会いできて嬉しいわ」

 女性は柔らかく笑って立ち上がった。その笑顔も口調も穏やかで上品だったが、ランティスは背筋に冷たいものを感じた。

 女性は嘘のように鮮やかな、赤紫の瞳をしている。魔女の目だ、とランティスは思った。

「お招きにあずかり光栄です」

 ランティスは思わず目を逸らし、彼女から一番遠い椅子を引いたが、掛けはせずに背もたれに手を置いたまま一礼した。爛はそれには追従せず、扉の傍で壁に寄りかかって腕を組んだ。


 女性——ウェバの位置からでは、背の低い爛の姿はランティスに隠れて見えない。ウェバは数歩右に寄ると、テーブルに片手を置いて肩をすくめた。

「このままだとそちらのお嬢さんにはご挨拶できないけれど、いいかしら」

「必要ない」

 爛はぶっきらぼうに答えた。


 統治のシステムに人材として組み入れられればキャリアには上下関係も生まれるが、彼らに仕える竜そのものには基本的に立場の差はない。

 熾や燦は、己の主に準じた地位で他人と接するのが最も軋轢を生まないことを知っていたし、そうすることに特段の抵抗もなかったから、そのように振る舞っていた。しかし爛はそうではない。三双の翼を持つ彼女は極めてプライドの高い竜である。


 ウェバは公式に何らかの立場や肩書きを与えられているわけではない。しかし彼女が、立場ある連中からどう扱われているかを見れば、その立ち位置や影響力は自ずと知れるし、爛もそんなことは分かっている。

 それでも目の前の女の背後に控えるもの、姿は今は見えないが確かにそこにあるものが、爛には不快で仕方なかった。生理的嫌悪に近いが、その実質が畏れであることも彼女は認めたくはなかった。

「それで? わざわざ呼んだからにはそれなりの用があるのだろう」

 爛は吐き捨てるように言いながらランティスの隣まで歩み寄り、そこでウェバを睨みつけた。ウェバは再び微笑を浮かべた。

「あまり長居したくないようだから端的に聞くわね」

 そう言いながら彼女は椅子を引くと、半ば斜めに座ってテーブルに再び頬杖をついた。それだけの動作なのに、ランティスは彼女に威厳のようなものすら感じた。

 脚を組み、親指で顎を支えた彼女は、立ったままのランティスに腰掛けるよう示しながら問うた。

「この先、ナハティガルはどうするつもりにしているの?」


 試されているな、とランティスは思った。眼帯のおかげで表情が少し読みにくいと言われる、そのことに彼は今は感謝した。怖気づいた顔に気づかれていないといいのだが。

 テーブルの陰になり見えない高さを選んで、爛が彼を小突いた。彼は大きなため息をつき、引いたままだった椅子に腰掛けた。

「失礼ですが、質問が抽象的に過ぎますので答えようがありません」

 爛はウェバを見ている。

 ウェバの表情はわずかにも変わらなかった。彼女は口を開いた。

「あなたがどう答えようと私は方針を変えるつもりはないのよ。そしてあなたをどうこうしようとも、まだ思っていない。アトロポスの若き当主と、老いさらばえたクロトやラケシスの老人とを同じようにはできないしね。あなたに与えられた竜を見くびってもいないし」

 ウェバは自分を睨んでいる爛を見ながら愉快そうに答え、テーブルの天板に人差し指を立てた。そこには平らに削り取られた木の節がある。

 重たい色の天板の上が、彼女の指の触れた部分だけ少しずつ薄い色に変わっていった。そしてそれはやがて生きた木の色となり、削り取られる過程を逆戻りする形で元の姿を取り戻し、そこから伸びた細い枝に瑞々しい葉が姿を現したところでウェバは手を離した。そこにはさっきまでの天板があるだけだった。


 部屋はしんと静まり返っている。

 自分の心臓の音が聞こえそうだ、とランティスは思った。この部屋は時間が止まっているようだ。彼はため息をついた。


 いずれナハティガルも、この女に従うことになるのだろう。けれども彼の背負うアトロポス家の誇りは、容易にそれを受け入れるほど軽いものではない。

 しばしの沈黙の後、ランティスは頭を下げ、立ち上がった。振り返って爛を呼んだ彼は、ウェバに改めて深々と礼をし、部屋を辞した。

 


「あれで終わりじゃないだろうなあ」

 議会棟を後にしたランティスは、爛に聞こえるようにそうひとりごちながら、後ろにそびえる建物を見上げてため息をついた。

 爛から返事はなかった。地上の玄関は開け放たれ、今でも市民の出入りがあるのに、ランティスにはその建物はもはや近寄り難く、また近寄りたくもなかった。


 あれは牽制だ。彼女がそれを他人を通じて行うのではなく直接出てきたのは、彼女がランティスに——あるいは爛やナハティガルの軍事力に、それなりに敬意を払っているからだ。だがそれは同時に彼女が、意に沿わないときには直接手を下すという意思表示でもある。

 ランティスはがっくりうなだれ大きなため息をついた。この数時間で何度ため息をついただろう。もともと決して悲観的な人間ではないのだが、こういう綱渡りは性に合わない。

 何はともあれ、いつまでもここにいても仕方がない。直接は市政には関わっていないにしろ彼がアトロポス家の当主である以上、ナハティガルでは議会や市井から上がってきた諸々が彼の決裁を待っている。つまり彼がいなければ市政が滞るのだ、それが形ばかりの署名であったとしても。

 めんどくさいなぁと呟いて、彼はもう一度ため息をついた。


 見渡した通りはスペクトではそれほど大きな道でもないはずだが、それでも行き来する人の数は多かった。ナハティガルのメインストリートよりもだ。それは首都たるこの街には当然かもしれないが、ランティスからすれば通り過ぎてゆく人々はなんとなく無機的に見えた。

 魔女に会った後だからかもしれない、と彼は思った。この街と、この国が、彼女の指先ひとつで操られる道具のように見える。さっきこの通りを今とは逆方向に歩いていたときは、そんなふうには感じなかったのに——これが、彼女が「魔女」と呼ばれる所以なのかもしれない。彼女は、会ったものの世界の色を一瞬にして奪い去る。

 あの店を出るときに、帰りも立ち寄って今度は甘いものを食べようと思っていたのに、今のランティスはそんな元気もなかった。まばらに並べられた菓子がガラス越しに見えるその店の前をとぼとぼと無言で通り過ぎようとすると、不意に爛が立ち止まり、ランティスはつんのめりそうになった。


 どうした? と尋ねる彼に爛が顎をしゃくった。その仕草に彼女の視線の方向に目を移した彼は、ふとした既視感に頭を振ってもう一度その姿を視界に捉え、先の既視感が気のせいではないことを知った。

 こちらを向いて立っている。紫の目が、最近はほとんど鏡の中でしか見ない色のその目がこちらを見ている。二十年くらい前に見た赤い衣装、薄茶の髪。腕の中にグレーの上掛けを畳んで、上背のある男をひとり連れて。それからもうひとり、ああ、あれはたぶん人間ではない。


 父とこの左目とを奪ったあれはもう死んだと聞いた。だから今そこにいるのは、その後継者だ。入国しているとは聞いていたが——どうも頭の動きが鈍い。

「サプレマだ」


 呆けた顔のランティスより先に口を開いた爛は、主の指示を促すようにその顔を見上げたが、彼がまだ口を開きあぐねているのを見、頭を振ると背後に消えた。

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