1 小さな恋のうた

 フリッガが先日うーと訪れたあの店の場所は割と覚えやすく、彼女はそこを難なく再訪することができた。

 今日は三人連れである。外からガラス越しにショーケースの中を確認し、この前食べたものがあるのを確かめて入店したら、前も対応してくれた感じのいい店員はフリッガとうーのことを覚えていた。この前来てから何日も経っているわけでもないし、それ以上に水色に近い色の髪をした少年と紫の目のふたり連れなどそうそういないので、当然といえば当然である。


 店内は前回よりも混んでいて、そのとき座った席にも既にふたり組の客がいた。そこにはまだ何も運ばれていないらしく、テーブルの上には大きな水色のベレー帽が置かれている。

 長い金髪をひとつに束ねた青年と、赤い髪を顎のラインで揃えた十歳かそこらの少女だ。不思議な取り合わせだな、とフリッガは思ったが、よく考えたら前回の自分たちも似たようなものだった気がする。彼女は店員に導かれるまま、一番前を行くうーの背を軽く押しながら店の奥に向かい、そこで窓のほうが見える席についた。


 あの帽子は見た覚えがある。メニューを熟読していてそれどころではないうーを横目に、フリッガはちらちらと窓際のふたり組を見た。青年の顔はよく見えない。こちらから見える左側は顔の大部分が前髪と眼帯で隠されていて、ほとんど確認ができなかった。

 混んでいると見えた店内は、そのふたりの周りだけさりげなく席が離されていて、その分余計にほかの席が詰まって見える。かといって特にふたりが迷惑な客だという雰囲気はない。注文を取りに来た店員への応対を見る限り、青年の雰囲気はどことなく上品でありながらも朗らかだったし、少女も無愛想ではあるものの行儀はよかった。しかし若い店員はかわいそうになるくらい緊張している。

 あの少女は確か前回、うーと一緒にショーケースを見ていたときに、外からふたりのほうを見ていた子だ。振り向いたときにはもうどこにも姿がなくて、あのときは気のせいかと思ったけれども間違いない。


 不意に少女がこちらを向いた。意思の強そうなきついつり目が真紅に彩られている。赤い髪と、赤い目。

 フリッガはどきりとして思わず顔を背けた。同じ色の目をしたヴィダが、向かいで怪訝な顔をしていた。

「何? 知り合い?」

「いや、たぶん違うけど……」

「たぶんってなんだよ。で俺連れてこられたはいいけど、どれにしたらいいの」

 ヴィダは、うーの手元のメニューを指差した。

 彼のこの手のものへの知識はどうやら以前のフリッガと大差ないようだ。フリッガは気を取り直し、前回仕入れておいた情報を余すところなく披露したものの、「全然想像がつかない」と一蹴され、結局ヴィダはうーに引っ張られてショーケースを見に行ってしまった。


 ひとり取り残されたフリッガは、メニューを読んでいるふりをしながら再び窓際のふたりの様子を窺った。

 青年の着ているものは、この辺を歩いている一般市民よりはどことなくフォーマルな雰囲気で——というよりやや時代がかっていて——でもそれが、男性ではあまりいない長髪とはそれなりに噛み合っているので、彼本人だけで見れば全体としてそんなに違和感を感じさせない。もちろん、周りからは浮いている。

 その青年と少女のところには、注文したものがすぐに運ばれてきた。だいぶ待ち時間が少なそうなのはやはり特別待遇なのだろう。少女は店員がトレーを運んでくると無言で卓上の帽子を膝の上に移し、店員はそれに礼を述べ、少女の前に小ぶりの焼き菓子と飲み物を、青年の前には飲み物だけを並べた。

 店員が辞すると、青年はおもむろに少女の焼き菓子に手を伸ばし、少女からぴしゃりと手を叩かれた。その瞬間を目撃してしまったフリッガは、思わず開いたメニューの間に顔を埋めるようにして視線を逸らし、それからまたおそるおそる顔を上げてふたりのほうを見た。

 ふたりがこちらを気にしている様子はない。ヴィダとうーとが戻ってきたので、フリッガはメニューを閉じてテーブルに置いた。ついでにもう頼んできた、と聞いて、フリッガは店員を呼ぶと自分の分だけ注文を終え、メニューを渡した。

 店内はそれなりにざわついているから、窓際のふたりの会話は聞こえないし、たぶん向こうにもこちらの声は聞こえないだろう。ヴィダはフリッガに、あれ同業者? と聞いてきた。

「同業者? なんで?」

「え? いや、なんか気にしてたろ。で目が紫だったから。さっきこっち戻ってくるときチラ見して」


 フリッガからでは見えないほうの目の色を聞いて、彼女はもう一度青年のほうを見た。特徴ある衣装ではあるが、プライアのものではない。店での待遇も特別だ。

 ということは、とフリッガがやや引きつった顔を戻すと、うーはこともなげに答え合わせをした。

「あれ爛とランティスじゃん。なんでこんなとこにいるんだろ」

「え? ナハティガルの?」

「そうだよ。ランティスはオレが会ったのは二十何年か前だから、まだそのときは全然ガキだったけどね。アトロポス家の当主だったあいつの親父がまたクセモノでさあ、爛もまあまあできるやつだから、そんなのが攻めてきたらオレとマスターのお父さんが大活躍なわけ。あのときは……」

 得意げに話を続けようとするうーの声が高くなってきたので、ヴィダは無言で彼の口を塞いだ。

 そうしてフリッガとヴィダとの注意がうーに行っている間に、窓際のふたりは席を立った。一瞬、店内がしんとなる。当のふたりはそれを気にも留めず、青年は相変わらずにこやかに店員に礼を述べると店を後にした。店内にはまた喧騒が戻ってきた。


 うーはヴィダの手を引き剥がし、なんだよお、と彼を睨みつけた。

「声が大きかった」

「あ……ごめん」

 濡れた猫のように縮こまってしまった彼は、しかし、注文したものが運ばれてくるや元気を取り戻し、勢いよく食べ始めた。

 今日彼が選んだのは前回フリッガが食べていた、白くて丸くてつるんとしたものだ。彼は今日はショーケースの前で、それともうひとつ別の、黒っぽいソースのかかったものとを散々悩んで、結局もうひとつの方をヴィダに任せて半分ずつにするという作戦を立てた。しかし運ばれてきたものは思った以上に口当たりが軽く、全部食べ切ってしまうまではあっという間だった。

「半分交換するんじゃなかったっけ」

「そうだった気もする」

「気がするだけならもういいな」

「ごめんって。味見させてよ」

 どうしようかなあ、とヴィダが意地悪い顔で言うのを向かいに見ているとなんとなく嬉しくなってしまい、フリッガは笑いを堪えるように無言で下を向くと、自分の器の上のものにフォークを差し入れた。

 

 

 かざした手は光を遮ることもない。ゼーレは深いため息をついた。

 実体を持たない彼女がどこにいるかということは、本人が今どこを見ているかだけで特定されるものだ。彼女の足元には影もできないし、触れようと思ったものもすり抜けていく。

 誰も彼女を認識しない。だから彼女は他人からすると、どこにでもいて、どこにもいない。


 今彼女の眼下に広がっているのは、スペクトに入ってすぐフリッガたちが連行された場所だ。それをほぼ見下ろす形となるゲートの上で、彼女は足を投げ出して座った。

 ドロッセルではあれだけ、ユーレへの侵攻について市民の間で情報が出回っていたのに、スペクトではそれがほとんどない。情報端末を開けば、今その話題について議会でどういう扱いがされているのかを調べるのは難しくはないのに、アクセス数はとても少なかった。皆無関心ということだ。

 もしかしたら意図的に関心を集めないようにされているのかもしれないけれども——「白い魔女」ウェバの議会への関与は、政治家や富豪のスキャンダルなどを専門にしている下品なメディアが、あることないこと憶測を小さな記事にしているだけで、信頼できるソースではどこにも出てこなかった。当然だろう。ウェバの客は、そういう連中を抑えるのは得意なはずだ。


 市民の無関心には、もちろん地理的な理由もある。スペクトはドロッセルと違ってユーレからはかなり距離があるし、市民の多くが軍に関係して生計を立てているナハティガルとも違い、侵攻時の影響もさほど差し迫って大きくはない。

 辺境の小国のことなど、アドラ首都の民にとっては他人事でしかなく、経済的な負担が大きくなるなどの自身に直結する事情でも出てこない限り、どうでもいいのだ。

 だからこそウェバがどうしてユーレ侵攻を企てているのか、ゼーレは考えたくなかった。

 ウェバの夫や娘、そしてプレトに関係があるのだとそこまでは間違いなく分かってはいるのだが——ゼーレは、その理由を理解できてしまったらと想像すると怖くて、それ以上考えたいとは思えなかった。


 顔を上げると、高い建物の多いこの都市でもひときわ高い議会棟が目に入る。それは燦のいた市庁舎よりも更に天に近い。

 あれがウェバのいる場所だと聞いた。階層を数えるように上から下へと視線を下ろしていき、他の建物の陰になり見えない階までたどり着くと、もう一度上に目を戻していった。

 黒く艶のある、冷たい肌の建物。今その頂に陣取っているあの竜によく似ている。あたかもそのために設えられた玉座のようですらあった。その下にいるというウェバや、彼女の竜ノヴァはどう思っているのだろう。


 ウェバは、アルブレト博士のかつて開発した人工知能を元にSEELEというプログラムを生み出した人間であり、そして廃棄しようとした人間でもある。

 ウェバの選んだこの歴史で燦は、主なくして持てるはずのない体を与えられた。彼もそあらもそんなものは本来許されたものではないと考えていたし、フリッガも同様だったようだがゼーレは違う。

 手を伸ばしても何に触れることもできない彼女に、それは恩恵でしかない。彼女は人に近くあれと作られたがために絶対に人にはなれないもので、竜としても中途半端。それは彼女にとってコンプレックス以外の何でもなかった。

 あの人のところへ行けば。そう考える。体があれば地面を蹴って走ることもできるし、水の冷たさを感じることもできる。頬を撫でる風と戯れ、瑞々しい緑の息吹に触れることもできる。そうした当たり前のことが彼女には何よりも羨ましく思えた。自分と他の者たちとの埋めることのできない差だ。

 ゼーレを捨てたのがウェバだとはいえ、生み出したのもまた彼女である。今、母のもとで体を欲したとして何が悪いのだろう。


 あれだけ慕っていた、あれだけ会いたいと思っていたアルブレト博士にだって今はいつでも会える。なのにその一歩を踏み出すことが彼女にはどうしてもできなかった。

 きっと自分の存在を喜んでくれると思っていたのに、彼に必要とされたと感じてあれほどに嬉しかったのに、ふと考えてみたらそれはただの指示と応答という機械的な反応を、彼女が「嬉しい」と認識するように作られているだけなのではないかと思えてならなかった。

 自分は単なるプログラムであって、プレトにとって、いや、アルブレト博士にとっては、必要だから持ってきただけのツールに過ぎないのではないか。

 彼にとって自分はただのモノでしかないのではないか。

 ゼーレは両手で顔を覆った。

 思考がまとまらない。支離滅裂な思いばかり交錯している。全部同じくらいに重要で、そして同じくらいに瑣末で、優先順位をつけられない。全部事実だ。そして、全部思い違いだ。

 そんな不安定な自分のことがあまりに安っぽく見えて、悔しくて、なのに涙すら流すこともできなくて、どうしようもなく、情けなかった。

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