5 「おはよう、愛するひと」

 フリッガが目を開けたときには、外はもう日が傾いて室内に届く光は赤かった。


 とても、とても長い夢を見ていた気がする。

 ぬるま湯の中のようなところで浮かんだまままどろんで、自分の心臓の音と、聞き慣れた心地よい声を聞いていた。

 声が止んで、ゆっくり沈んで、底に着いて止まって、それで目を開いたら、ここにいた。


 天井を見上げて瞬きをした。目を擦ろうと手を上げると顔の上にこぼれ落ちたものがあって、フリッガは転がっていったそれを枕の上で手探りし、拾い上げた。

「指輪だ」

 呟いて、顔の前にかざした。銀色の輪の向こうに窓が見えた。

 ブラインドは上げられていて、外の景色がよく見えた。黒い建物の隙間に、細長い夕焼け空。

 初めて見たこの指輪が誰のものかを彼女は知っている。それを、その日のことを、彼の知る限りのことを、全部知った。

 もしかしたら彼女がそう思い込みたいというだけの都合のよい夢でしかなかったのかもしれないけれども——それでもフリッガは、それをヴィダに返そうと思った。知らないと言われたら、それはそれで別にいい。


 背を起こすと頭がぐらりと揺れた。寝込む前の目眩とは違って、浮ついていたものがあるべきところに収まったような、その一度きりのものだった。

 指輪を握りしめたまま目を擦り、ベッドを降りようとすると、扉のそばに人影があるのに気がついた。フリッガは瞬きをした。

「いつからいたの」

「それの持ち主と入れ替わり」

 翠嵐はそう言ってフリッガの手のほうを指差した。

 フリッガはまだ半ば夢心地のまま、やっぱりこれは彼のだったんだな、と思いながら手を開いてもう一度指輪を見、それから顔を上げた。

「ヴィダは?」

「その前に聞きたいことがある。今回のはあの野郎の差し金だろ」

「プレトのこと? ……よく分からない。ていうか、違う気がする。たぶん、もともとはお父さんだと思う」

 フリッガはそう答え、まっすぐに翠嵐の顔を見た。


 彼女の目は鋭くこそなかったが落ち着いていて、翠嵐は彼女が「よく分からない」などと言いながら実際はほぼ確信を持っていることを察した。これまでほとんど見なかった顔だ。

 いつもはこんな沈黙があればすぐに自信なさげに目を泳がせたり、下を向いたりしていたのに。先に目を逸らしたのは翠嵐のほうだった。彼は咳払いをし、尋ねた。

「これからどうするんだよ」

「まだ決めてないけど……話をしてみようと思う。出てきてる?」

「ああ」

 翠嵐の答えはぶっきらぼうだ。

 フリッガは、彼がプレトのことを知りたがる一方で語りたがらないのをなんとなく感じてはいたけれども、それはやっぱり勘違いなどではなかったことを再確認した。

「そうかあ」


 フリッガは胸元にぽんと手を当てしばらく考えていたが、うなだれるほどに深くゆっくりと首を傾げながら、あのさあ、と言った。

「あのさあ。耐用年数って何かなあ」

「なんだよいきなり。使えなくなるまで何年って話じゃねえの」

「やっぱりそうなのかなあ。じゃあお父さんはそれで」

 フリッガはそこまで言って、ううん、とうなって目を閉じた。それからの沈黙を破ったのはまたも翠嵐だった。

「俺はマスターの親父殿と縁がないから遠慮せず言うけどさ、目的はよく知らねえけど実の娘をエサにする頭は理解できねえよ」

 フリッガは顔を上げた。怒っているわけでも、狼狽している訳でもない。彼女は頭を振った。

「あれはね、なんていうか……ただのおまじないだよ。少なくとも、わたしには」


 翠嵐が、おや、という顔をしたのにフリッガは気づかない。彼女は言い終わると深呼吸をして、膝に力を込め立ち上がった。

 長い時間眠っていたからか体が重く、思わずよろけたが翠嵐は手を貸さなかった。

 ため息をついてから体勢を整え、フリッガは翠嵐を見た。

「メーヴェでさ。都合いいことばっかり聞きたいわけじゃない、みたいな話、したじゃん。あれってね。言われない限りは都合よく誤解するから、それが嫌ならちゃんと言ってよねってことなんだと思う」

「なんだよ思うって、言ったの自分だろ。寝ぼけてんのか」

「そうかもしれない」

 フリッガは緩やかに笑いながら答え、それから扉を指差した。

「で、ヴィダは?」

 翠嵐はため息をつきながら扉を開けた。

「起きるなり吐き気がするっつって出てった。今はあっちの部屋で休んでるよ」

「そっか。行ってくる」

「へいへい、好きになさい」

 フリッガは振り返ることもなく部屋を出て行った。翠嵐はその背中が廊下の角を曲がって見えなくなっても、見送っていた。

 


 目覚めるなりひどい吐き気を覚えたヴィダは、ふたりを見守っていたゼーレに一応断りを入れてから、まだ眠ったままのフリッガを置いて部屋を走り出、然るべきところで然るべき処置を終えるや大きなため息をついた。

 どういう作用かは分からないが、他人と思考が直結するというのは決して気分のいいものではない——正確には、その最中は満足感というか昂揚感というか、訳も分からない包容感、安心感のようなものに支えられているのだが、その分我に返ったときの落差が酷かった。

 それに似た感覚は彼も未経験なわけではなかったから、そんなことを思い出してしまうのがいよいよいたたまれなくて、彼は重い足取りで部屋に戻るとゼーレに後を頼み、翠嵐が使っていた部屋を借りて布団をかぶった。


 そういうふうに、他人(正確には「人」ではない)と繋がっていることがフリッガの「普通」なのだと聞いた。

 たとえ許しがあったとしてもなお覗いてはいけないものに触れてしまった気がして、彼はまた思わず情けない声を漏らした。


 どんな顔をして会ったらいいのか分からない。そんなことを思ったのは今日が初めてだ。

 彼が感じたのと同じものを彼女が感じたのだとしたら、たぶん彼女は彼から臓腑に腕をねじ込まれ好き勝手かき回されたような感覚を覚えている。彼の手にそんな感触が残っているわけではないものの、腹の中を何度も撫で上げられたようなおぞましさはまだ消えていない。

 だとしたら最初にその非礼を詫びねばならない気がしたけれども——それは知人とか友人とか、それに準じるものとしてのこと。

 まずはその体調を確かめるのが任務中の彼としてのあるべき行動である。それを思い出してから頭が冷え切るまではすぐだった。


 起き上がるとまだ吐き気があったから、ベッドに横になったまま腕を組み、これからのことを考える。

 フリッガの体調が戻ったら、スペクトは早々に辞してナハティガルに向かうべきだ。しかしスペクトには熾や燦があれだけ言っていたウェバと、そのゴーストがいる。彼女たちとはまだ直接の接触はないし、その出方もまったく分からないけれども、何らの妨害もなくあっさりスペクトを後にできると考えるのはたぶん、楽観的に過ぎる。

 どこまでのことを予測してどこまで備えるのか、それを考えるにはゼーレはもちろんだがそあらに協力を仰ぐのもいいはずだ。彼女にはちょうど、ユーレの状態を探って欲しいとも頼んでいるし——ああ、そういえばたぶん、新しい手駒が増えている。そんなことをつらつらと考えていたら、扉を叩く音がした。それからよく聞く声。

「いる?」

「いません」

 フリッガが扉を開け、いるじゃん、と口を尖らせた。

 ヴィダは寝転がったままその顔を凝視し、案外本人は何でもなさそうだな、と思った。さすがそれが当たり前だと、たまたま人間と繋がったからといっていちいち気分が悪くなったりはしないのだろう。とすれば彼の感じた「やらかし」もたぶん、彼女にとっては大問題ではない。

 ヴィダは心からの安堵の息をついた。フリッガはそれに、失礼な奴だなと言いながら扉を閉めて近寄ってきた。

「お前にため息ついたわけじゃないよ」

「じゃあ何なの。具合悪いって聞いたから心配して見にきたのに」

 正直に答えるかはぐらかすか一瞬考えて、ヴィダは結局前者を選んだ。

「自分の寝起きが最悪だったから何しちゃったんだろ俺って思ってたけど、お前の顔見て安心した」

 フリッガは、ええ? と笑って隣のベッドに腰掛けた。

「よく分かんないけど無事ならよかった。忘れ物返しに来ただけだからすぐあっち行くよ」

 そう言ってフリッガは指輪を示した。

 

 ヴィダは不意に、あの森で出会った「あの日のことがなかった」フリッガを思い出し、かわいそうなことをしたな、と思った。だからというわけでもないのだが彼は「後でいいよ」と答えると、フリッガの返事を待ちもせず、ちょっと寝かせて、と呟いて目を閉じた。


 フリッガはなんとなくその場を任されてしまった気がして、初めてそうして彼女を置いて先に眠ってしまったヴィダの顔を照らす外の光がなくなるまで、ずっとそこに座っていた。

 なぜか嬉しくて、でもそれは浮き立つようなものでもなく。思いがけなく預けられた形になってしまったヴィダの母親の指輪を、彼女はそっと懐の、なくさないところにしまった。

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