4 水底の庭(2)

 たぶんこれがフリッガの本心なのだな、とヴィダは思った。

 思考を共有すると最初聞いたときはさっぱり理解も想像もできなかったけれども、おそらくこういうことなのだ。

 頭を占めているものは相手に伝えたいと思わなくても、そうして口に出さずとも、頭の中で渦巻いていればふとしたきっかけで思わず漏れ出て「同居人」に知れてしまう。それはヴィダにとっては耐え難いことに思われたけれども、たぶん、彼女にとっては当たり前なのだ。そんな「当たり前」を前提に、そんな「同居人」だけに囲まれて、彼女はこの世界を生きてきた。


 だから彼女は、本心の分からない他人を信用する勇気も、またそれに信用されているという自信も、持てない。そして、そのことに自分で気づく程度には成長してしまった。

 何を言ってもつまらない慰めに聞こえるだろうと思ったから、ヴィダは何も言わなかった。後ろで十五年前に聞いたきりの声がしたような気がした。

「僕らの娘は難しいだろ」と、そう聞こえたような。振り返ったが、誰もいなかった。


 思わずため息が漏れそうになった。

 サプレマはあの日、死んだのだ。黒い竜と結ぶ娘の歩む道を予期して、それがゆえに彼女の未来が大きな壁に阻まれることを予想して、そしてそのとき誰かがここにいることを願って、だからここに僕の娘という言葉を残して——彼は死の間際、その「誰か」を選んだ。選んだから、生かした。

 あのぼんやりした顔のサプレマは、死の間際にこんな周到な準備をして、そして命を手放し、次に繋いだ。

「……いや、感服した。すごい人だった。お前の父親は」

 ヴィダは思わず笑いながら、言った。


 少女は息を飲んだ。そして彼を凝視する。その目の奥を探るように、五秒、十秒。

 言葉に落とされていないものを懸命に読んでいる。まだずっと。沈黙。

 何も言わないで、不意に少女はこみ上げたものを飲み込むように上を向いた。それから大きく息を吸って、吐く。

 もう一度少女は彼を見、静かに口を開いた。

「わたしはお父さんが好きで」

「うん」

「本当に、大好きだった」

「うん。それでいいと思うよ」


 少女はゆっくり頷いた。

 そのときの彼女の表情はこれまでよりもずっと曇りなく、不安のない確固たる、それでいて穏やかなものだった。

 おや、とヴィダは思った。けれども舞い上がった木の葉が少女を隠し、その音に混じってまたサプレマの声が——僕らの娘は面白いだろと——そんな声が聞こえた気がして、彼はそのひっかかりが何なのかを考えることは結局、なかった。



 少女が消えて、ひとり残された彼は周りを見回し、鼻の頭を掻いてから右足を踏み出した。標はもうないけれども、どこに進んでも正解に行き着ける気がした。

 また元のとおり薄暗い森だが、見上げれば梢はわずかに揺れてみどりに笑った。

 相変わらず木々に囲まれてはいたけれども、天から段々手を伸ばしてくる光は、この嘘のような夢のような、そんな旅がもうすぐ終わることを示しているように感じた。 


 とんでもない体験をしてしまったなあ、と思う。本来ならば本人が、伝えると決めて、相応しい言葉を選んで、それを口に出したときに初めて知ったことにしておかなければならないはずのことを、無理に犯してつかみ出したような。

 頼まれたからとはいえ、申し訳ないというよりまずいことをしたという思いが強く——彼ははたと足を止めた。

 たぶんフリッガからしたって同じことなのだ。瞬時に青ざめた彼は思わず、うわあ、と声を漏らした。なんとなく、ここではもうフリッガに会うことはないだろうと思ったから、戻ったらどんな顔をして会えばいいのか分からず、彼は落ち着かない気持ちで周りを見回したり一歩だけ進んでは戻ってみたりした。


 ここに来る前、そあらは「頼みがあれば礼代わりに聞く」と言った。それに彼は、ユーレの状況を知らせてくれるよう頼んだ。

 フリッガが水源地管理のために浮虫を置いてきたと言っていたからだ。水竜の眷属たるそれを使えば、王宮や議会をちょっと覗いてもらうくらいたやすいだろうというのがヴィダの考えで、そあらもそれを了解はしてくれたが——こんなことならもう少し欲張ったことを頼むんだった、と彼は後悔した。


 どうせあのしらっとした顔の水竜は、自分の「娘」や、その周りのことなど全てお見通しなのである。ヴィダは頭を抱えたまま大きなため息をついた。目を落とした足元まで、もう光が伸びてきていた。

 

 

 その日は快晴で、海もいつもどおり穏やかだった。ガラス張りのイシュマーレは朝の光に満ちていた。

 天気が悪くても遅刻しなくなったバドは最近、政府の何某なにがしかにどういう方法かは分からないが交渉をして、研究室に置いてきていた人工知能をごっそりイシュマーレに移植させていた。

 論理性だけに基づかないその人工知能の思考は「よくできた計算機」とはまったく違うものだ。培養槽の中で順調に育っているキャリア=ノイに関し、その思考のシミュレーションと脳への基礎情報の供与、それから各種の計測と管理は、その人工知能が一手に引き受けた。


 キャリア=ノイの耐用期間は二十年程度と短めに設定されている。キャリア=ノイの場合、ジオエレメンツとのアクセスによって受ける身体、特に脳への負荷のあり方は従来型キャリアとは根本的に違うから、そこについては未知数だったのだが——商品たる兵器としては、ユーザーに新陳代謝を促す必要がある。

 ジオエレメンツを「収容する」という根本的な考え方を捨てたのがキャリア=ノイである。キャリア=ノイは、ジオエレメンツを呼び出し、都度運用する端末として設計された。自身をジオエレメンツのアクセスポイントに設定して、随時利用する。それをバドはレイに手振りを交えながら「蛇口を作って、使いたいときにそれをひねって他所から水を引いてくる感じ」と説明した。一方で従来型のことは「自分でタンクを抱えてるタイプ」と。

 自前のタンクじゃないから普段は荷物が少なくて楽だけど、その分管が長くて傷みやすいんだね、というような返事だったので、たぶんレイはだいたいのところを理解している。 


 ダリオはバドの隣の席で作業を続けている。

 彼の子どもは三歳になった。ディスプレイの端には、娘を抱いた彼の妻の、はにかんだ笑顔の写真が貼られている。

 バドが「出産祝い」と言って三年前に寄越したプリペイドカードのパスをダリオはまだ解いていない。煙草はやめた。


 バドは当時と変わらずぶっきらぼうな喋り方をする。ただ、相手の理解を促すために比喩を用いる、というのを最近になって始めた。

 以前の彼であれば、そもそも相手が分かっているのかいないのかに興味を持たなかったし、分かっていない相手に分からせる努力もしなかっただろう。というか、今でも同僚に対してはその対応である。

 ダリオが隣を覗き見すると、バドの前に据えられたディスプレイに映っているのはキャリア=ノイの脳の活動状態のモニター映像のようだった。その管理はバドの人工知能が行っているから、人間は基本的には眺めるくらいしか仕事がない。とくに面白いものでもなかったので、ダリオはまた作業に戻った。


 バドがディスプレイに目を細め、眼鏡を上げて目をこすると立ち上がった。おおかたいつものように様子でも見に行くのだろうと思って、ダリオは顔も上げなかった。

 扉へ向かう彼にレイもついていくが、それをバドは嫌がらなくなった。

 研究室の中ではふたりの関係についてあれやこれやの憶測が飛び交っていた。ただダリオは、少なくともバド自身はそれを説明はできないことを確信していた。

 あの天才は主観的な評価が絶望的に下手くそなのだ。対してレイはたぶん、適切な言葉さえ知っていれば簡単に言うだろう。自分はバドのことが好きだと。


 平穏を破り、爆発音が響いた。即座に警告音が続き、普段は存在すら忘れられている警告灯が室内を赤に染めた。

 バドはレイを置いたまま室外に走り出、脇目も振らず培養槽のある部屋に向かった。何よりもまずその安全を確保しなければならないから。それ以上にそこが火元である可能性が高いことを知っていたからだ。


 厚いセキュリティのかかったはずのその扉は吹き飛び、ロックの解除も要らなかったのですぐに入れた。

 キャリア=ノイを収めていたガラス管は割れて、赤紫の液体が廊下に向かって流れ出ていた。幾本ものケーブルが天井から垂れ下がっていた。もうその先に繋がるものはない。

 まるで女王のように威厳に満ちた足取りで、キャリア=ノイは培養槽から冷たい床に降りた。きついウェーブのかかった白い髪から水滴が落ちた。

 目の前の研究員を見、キャリア=ノイ——開発名「ウェバ」は、目を細め、笑った。

「おはよう。バド」


「何を選んだ?」

「せっかくだから、私じゃなきゃ駄目なものにしたわ」

 そういってウェバは手招きをした。

 背後に白い影が浮かび、それはすぐに鮮明な姿になった。白い肌に、白い髪。薄紫の目の少女だ。「でもレイじゃないのよ」とウェバは言った。


 少女は尖った耳を持っていた。体には模様のような痣が刻まれている。そしてその足は地についていない。

未定義ゴーストか」

「そう。そしてこれからもずっと未定義であり続ける。私は彼女に名前を与えたわ。ねえノヴァ。ご挨拶なさい」

 ノヴァは満面の笑みで、演技がかった大げさな辞儀をした。バドは悪寒を覚えた。

 後ろでばたばたと足音がする。レイとダリオが来たのだ。

 来るな、とバドは叫んだ。ウェバはきょとんとした顔をし、大きな声も出せるのね、と首を傾げた。ダリオが銃を構えた。


 彼の後ろのガラス越しに、どこまでも穏やかな海が見える。きれいね、とウェバは笑った。

 その日、イシュマーレはなくなった。

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