3 水底の庭(1)

 深い、深い森である。

 樹冠は見上げた遥か上で、まっすぐ伸びた幹は枝打ちされた跡もないのに、手の届くところに枝葉はない。広がった梢はほとんど天に近いところだけ、その向こうの空の色は見えないが、晴れているならこんな程度の明るさではないだろう。その向こうはおそらく鈍色の空である。しかし空気は尖って乾き、動かなかった。


 周りを見回す。どこもかしこも果ての見えない、暗い色の木々が林立する同じ景色だ。

 なるほど方角も不明。ヴィダは腰に両手を置いた。

 


 暗闇の中、耳が痛くなるくらいの何人もの声の間を落ちてきた気がするのに、目を開けたらここに立っていた。

 厚い靴底を隔てた足元は、濡れた落ち葉が覆っていて滑りやすそうだった。しかし雨が降っている様子もないし、水の匂いもしない。さっきの声が聞こえてきた場所も、よく分からなかった。

 今は葉擦れの音もない。しんと静まり返り、ひんやりして、それでいて薄ぼんやりとは明るい、なんとなくちぐはぐで不自然な森だ。


 そこに立ったままもう一度上を見る。通り抜けてきた声の間に、青白いタイルとガラスの廊下を見た気がした。昨日の朝フリッガが話していた「気味の悪い夢」と同じだ。

 ここは彼女の領域であり、そして、彼女自身把握しきってはいない竜の領域である。その「同居人」が誰なのかは考えるまでもなかった。


 ヴィダはうなった。とりとめのない、関連性も見えない情報を一度に摂取しすぎた(というか、押し付けられすぎた)気がする。

 この道行きの間に知った諸々は、国を出る前の彼には到底思いも寄らない遠い時代から繋がってきた話で、彼の手に負えるものではないと感じていた。だからこそ彼はなるべく立ち入ることを避けて、できるだけ自分に課せられた任務——それは軍からの任務と、女王のあるいは国のナイトとしてのものとの両方だ——それだけを目的に強行突破も辞さないつもりではあったが、それで見逃がしてはもらえなかった。にしても、傷つけることはないとは思っていたが眠らせてしまうとは。


 フリッガの父親であった前サプレマはヴィダを「コードを解くもの」として指定したという。十五年前サプレマはそのとき、身を呈してヴィダを川底に突き落とし、地上の惨事から彼を守った。

 サプレマは死んだ。遺体はヴィダの両親を含めた他の犠牲者と同様、特定も難しい状態であったと聞く。


 ヴィダにはコードのことなど何ひとつ分からない。ただ今の事態はその頃から既に予定されていたものなのかと思うと、彼は背筋にうすら寒さを覚えた。

 あのサプレマ、当時のヴィダにとってはただの「近所のちょっと珍しい仕事の大人」からあの日を境に命の恩人になってしまったフリッガの父親は、どこまでを見、何を考えていたのか。何を目的に彼を助けたのか。自分の命を捨ててまで。


 得体の知れない、全容を視界に収めることすらできない大きなものに、いつの間にか取り囲まれているような。知らないうちに、何かの一部にされていたような。そんな居心地の悪さ。

 他人の中にいるという状況であるのに、久しぶりにひとりになったような、理解のできないものの中に不意に突き落とされたような心許なさを感じた。

 とにかく落ち着かなくて彼は周りを見回した。ゼーレからは標となるものを探すよう言われたが、どこから来たかも分からないからどこへ行っても同じ気がする。周りの木をひとつずつ眺めても、特に目印になりそうなものはなく、かえってどれも判で捺したように似ていることが分かっただけだった。そうなると標は自分で作るしかない。

 目印をつけながら歩くのに使えそうな道具、と彼は太腿に手をやり、その真下に黒い猫の姿を見た。


 そあらや翠嵐の話では、締め出されたのではなかったか。なんで? とヴィダが聞くと、ネコは金色の目を閉じ澄まし顔で頭を振った。それから彼は後ろを向き、尻尾をぴんと立てて足音もなく奥へ歩いていく。

 ヴィダは眉を顰めたが、意見を聞く相手もないから、首を傾げながらもその後ろをついていくことにした。たぶんあれが「標」なのだろう、と思うことにして。


 二歩先を立ち止まることも脇目を振ることもなく歩いていくネコの後ろをついて、木々の間を進む。といっても人が通るのに不都合なくらいに詰まった場所はなく、よく見れば木と木の間隔も確保されていて、最初感じたよりも整然としていることが分かった。聞こえる足音は濡れた落ち葉を踏みしだく彼自身の分だけだ。

 やがて空気がわずかに温み、足元には時折、光が散るようになった。綿毛のようなものが舞い上がり、消えていく。

 それらはひとつずつが何かの情景であった。そのひとつは砂地に雨が打ち付ける音であり、雷鳴のとどろきであり、それを室内で震えながら聞いていたときに握っていた手の温かさであり、大丈夫だよ、という声であった。別のひとつは食卓に頬を寄せたときのニス混じりの木の匂いであり、なぞって遊んだその木目であり、向こうの台所から聞こえる心の浮き立つような音であった。そしてまた別のひとつは、朝の光であり、水の匂いであり、大人の男女の声であり、そのそばにいた赤い目の少年の視線であり、頭に置かれたやさしい手の感触であり——これは見るべきではない。そう思ったからヴィダは頭を振った。


 さっきの男女は彼の両親だ。この森のあるじの記憶は、それが彼女の父の死ぬ前までの、彼女の父が生きていた間の、たった六年間かそこらのものばかりなのに無数で、温かく、懐かしさに満ちている。

 ひとつずつ見ていたら立ち止まって、手放せなくて、そしてそのまま戻れなくなりそうだった。あの日の直後の彼がそうであったように。

 


 ネコに、なあ、と話しかける。ネコは歩みを止めることもないまますいと振り返ってヴィダを一瞥したが、何も言わずにまた前を向き、歩き続けた。

 いつもの馴れ馴れしさはまったくなかったが、それでいてよそよそしいとも感じなかった。ヴィダが後ろをついてくることを確信しているかのような足取りのせいだ。

 情報を引き出すことは、たぶんできない。ヴィダはそう考えて、そのままネコの後ろを歩いていった。

 水の匂いがして、前から風が吹いてきているのに気がついた。それに乗せて水の流れる音も聞こえ始める。それでもそのままネコについていくと、やがて細いせせらぎが見えてきた。


 水辺でネコが立ち止まった。その隣で同じように立ち止まって、次は? と聞いた。

 見下ろしたネコは対岸を見ている。今のヴィダであれば難なく飛び越せそうなくらいの幅の流れは、その向こう側にこれまでとは様相の違う森を従えていた。


 黒く暗いこちら側とは反対に、あるものは青白く石化した、あるものは氷のように光を透かした柱のような木々が連なり、天から梯子のように何条も光が射す、明るくて美しく、寒々しい森だ。

 それを背景に、薄い焦茶の髪をふたつに結わえた少女が裸足で立って、こちらを見ていた。

 

 

 その当時は、まだ国境侵犯もいろいろだったらしい。

 今はまあ、この先は分からないにせよ今のところは、大半が小競り合いと評価できるような規模で収まっている。もちろん、その中には今後のために斥候のような役目を割り振られたものもあるようだが、現女王デュートの父、先王イスタエフの治世では、そこそこ大規模な集団が攻めてくることもあったという。

 それを国境で止めていたのが、当時のユーレ軍とサプレマ――フリッガの父親、テルト・フェンサリルであった。


 アドラを通り抜けなければユーレには至れない。その地理条件のせいで長らく巡礼者もなかったので、テルトはもう、それが主務であると割り切って聖地を離れ、連絡に便宜な首都グライトで暮らしていた。そして彼は軍からの要請には即応し、国境防衛隊と連携をとって毎回相手を手早く払い退けていたという。

 テルトの戦力としての価値は高かった。それは彼の従える竜の能力自体以上に、その使い方によるものだ。

 戦場では指定された範囲を容赦なく皆殺しにする彼とその竜は、戦場外でも密約交渉を多く手掛けた。そうして軍や政府と協力しながら明に暗に国を守りきった、やさしい顔の青年であった彼は、味方からすれば敬愛すべき神の使いであり、敵方からすれば非情な悪魔であった。


 国境で一仕事終えてから帰ってきた彼を誰よりも喜んで迎えたのが彼の娘だ。

 焼けた砂の匂い。染み込んだ血の匂い。玄関先で飛びついたテルトからするその匂いが何であるのか、その頃のフリッガには知る由もなかった。それは彼女にとって、父が帰ってきたことのしるしでしかなかったのである。

 そうして家にいる間の全てを、テルトは娘への知識の伝授に使った。

 彼は、彼の父の存命中に継承した聖職者としての全てを娘に教えなければならないと思っていた。しかし細かな知識がわずか五歳やそこらのフリッガに教え込めるわけもない。だから彼は聖職者としてあるべき基本的な姿勢——それはおそらく、彼自身のこうありたいという叶わぬ願いを大いに含んでいた——を、娘に伝えようとした。


 今は追い払うのが仕事になってしまっているけれども、本当は受け入れ、包み込むのがプライアの仕事なのだと彼は語った。そして「中でもことにサプレマはね」と。

 政治と密着して国防を担うのは、今は仕方ないこととはいえ、聖職者の本来あるべき姿ではない。宗教はいがみ合う人々の間にある様々な垣根を超え、彼らを結びつける平和の一手段なのだ。そしてプライアはその象徴。ただ幼い娘はその言葉の裏にあるものを理解はしなかった。

 彼女には、誰よりも愛する父が彼女に語る「あるべき姿」と今の父、彼女の認識している限りの父が、そんなに離れたものだとは思えなかった。


 今から十五年前、フリッガは初めて、父が纏って帰ってきていたあの匂いが何なのかを知った。そして彼女は父の跡を継いで、父の代わりに、サプレマに任命された。

 だから彼女の手本は、当時の彼女が認識している限りの父であった。

 もう思い出の中にしかいない、見上げるばかりであった、その全てを知っていると思い込んでいた、誰よりもやさしい、血と焼けた砂の匂いにまみれた、父。

 

 

 目の前に立っている少女を見たことがある。ヴィダは思わず踏み出そうと足を上げ、おっと、と呟いてまた戻した。

 隣でネコが彼を見上げ、鼻を鳴らして腰を下ろした。ヴィダが河岸を指差しても、ネコはもう動かない。それどころか彼は体を丸めて目を閉じてしまった。彼の案内はたぶんここまでなのだ。

 じゃああっち行くから、と言うとネコは尻尾だけを上げ、それをゆっくりと振った。どうやら応援はしてくれるようだった。


 ひょいとせせらぎを越えて、彼岸を振り返る。今までいたはずの暗い森は跡形もなく、その先には今いる側と同じ白い森が広がるばかりだった。ネコもいつの間にか行ってしまった。

 ヴィダはそれを不思議と不条理だとは思わなかった。それからまた前を見る。さっきの少女はまだそこで待っていた。薄い紫の目がじっと彼を見上げている。


 少女の後ろのほうを指差す。さっきはネコが先導だった。少女に首を傾げてみせると、少女は「どうぞ」と言い、奥に向かって歩き始めた。

 少女の歩幅は狭く、普通に歩けばすぐに追い越してしまうから、ヴィダはほとんど横に並んでしまってからはできるだけ少女に歩調を合わせた。


 幾本もの石の巨木を通り過ぎる。少女は隣で話をした。あんなことがなければわたしは違うふうに育っていたはずだと、そう言う口調は妙に大人びてはいたけれども舌足らずだった。

 続く話に相槌を打ちながらも、ヴィダは周りを見てばかりだった。少女の背ではその姿は彼の視界には入ってこなかったし、彼女が話す「もしあんなことがなければ」という話もあまり聞きたくはなかったからだ。それは今の彼を否定するものでもあるので。


 どの方向も同じような景色ばかりだったが、歩いている間に辺りを照らす光の色は様々に入れ替わった。藍、みどり、山吹そして空の色。

 その間も話を続ける少女の声はだんだん彼に近づいてくる。歩みを進めるに連れ少女は大人になっている。光の色が消えたころ、彼女の声はいつもよく聞く高さからの声と同じになっていた。

 ただその話はやはり、聞きたいと思えないものである。

 もしも、仮に。だったとしたら。標である彼女を止めるのがいいことかどうかも分からなかったが、今はもう見慣れた姿にまで成長した彼女が、いつもよりずっと丁寧な口調で、選ばれなかった未来の話をいつまでも恨みがましく続けているのに彼はいい加減げんなりし、あのねと彼女の話を遮ると隣を歩きながら言った。

「それ俺まだ聞かないと駄目?」

「あなたはそんなふうに考えることはありませんか。あんなことさえなければ今頃と」

「そりゃもちろんないわけじゃないよ。でも、それがあっての今の俺だし」


 少女が立ち止まったので、ヴィダは一歩だけ先に進んで振り返った。見慣れた顔が、見たことのない冷たい目で彼を見て言った。

「では、この体のあるじのことは不快ではありませんか? 今でもは、あのときのことを直視できない。寄る辺にしていた父の最期の言葉を、寄る辺を失うのが怖くて思い出さずにいた。思い出すや何を信じていいのか分からなくなって、子どものように狼狽えて、それでも自分はサプレマだからと余裕ぶってみたりして。あなたの話を聞かなかったことを悔いて、でもそんなのは今更すぎて、本当は全然自信なんてないのにやれるやれると言われてできるふりをして、ことあるごとにあんなことがなければと考えてしまう情けないこの人間を、そうと悟られないように隠しておかなければならないのにどんどんほころんで、その穴を塞ぎきることもできなくてこぼれていくものをなすすべなく見ているそんな姿は愚かで可哀想で馬鹿馬鹿しいでしょうあなたはもうちゃんと大人になっているから——」


 終わりのほうはほとんどまくしたてるようになりながら言い切った少女の顔は、だんだん表情が崩れて最後は泣き出さんばかりだった。

 森の足元から蛇が這い上がるように、周囲が暗くなっていく。少女と自分に向かって森が迫ってくるような圧迫感を感じる。ああ、これが。

 ヴィダは、コードの呪縛の本体を見た気がした。

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