2 バースデー

 押し問答のようなやりとりを繰り返して分かったことがある。

 語彙は極端に少ないわけではないが偏りがあるし、違う考え方が存在することへの理解も浅い。けれども便宜的にとはいえ固有の呼称を与えられた後の少女は、信じがたい速度で知識を吸収した。

 規格外品だからそうなのか、それとも「キャリア」という商品全てがそうなのか——バドは不意に研究室に置いてきた人工知能を思い出したが、決定的に違うのはこの零号キャリアの少女、レイには生身の体があることだ。


 付きまとわれるのは我慢できなかったから、彼は無理やりレイをベッドに押し込んで朝まで降りてこないよう命じた。

 それから金魚にエサをやって、彼はソファーで眠りについた。レイの座っていた場所だけ、ほんのり温かかった。

 


 バドはカーテンを引かない。起きる時間を決めることもない。明るくなれば起きるから採光があればそれでいいし、そのときカーテンは邪魔なのだと、かつて彼のことを根掘り葉掘り聞いてきたダリオに答えたことがある。

 ダリオはそれを聞いて、空調効果がどうだとか、季節や天候に左右されるから定時性の点で問題があるとか、それから直射日光で床が傷むとか、だから総合的に見て不合理だとかいろいろ言った。バドからしてもそれもそうだなと思う内容ばかりだったが、彼はだからといって自分の生活スタイルを変えたりはしない。


 そのダリオは今の業務を「仕事」だと言う。外から見れば(と言っても公にはバドは謎の失踪を遂げたことになっているから、その「外」といえば限られているのだが)バドのしていることもまた、特定の目的を達成するために日夜研究と実験を続け、その労務に対する対価として給与を受け取っているのだから、仕事といえば仕事なのだろう。

 ただ彼はここに連れてこられてからは研究所とスタッフ居住区以外の行き来をまったくしていないし、もともとそんな生活を不自由だと感じるタイプでもなかった。そして行っている研究といえば、まあ、与えられた課題ではあったものの面白そうだとも思っていたので、おそらく対価などなくても彼は勝手にやっていた。

 関心のあることが自由に研究できる環境を与えられ、衣食住も足りていて、給与は支給されるものの使うあてもないからなくても構わないし、外の世界に焦がれないかと聞かれても、いや別にとしか答えられない。

 バドは他人に関心がないのだ。「同じ」であることに価値を置かないし、協調しようという努力もしない。だからこそ他人が彼をどう評価しているかも、どうでもよかった。肉親にさえもそうだった。それで彼はかつて、研究環境を提供してくれるという研究者と養子縁組をすると、追いすがる父母のもとすら成人を待たずに去った。そういう人間なのである。


 ただ、その日は珍しく朝から雨が降っていて外も暗かったから、いつもよりは起きるのが遅かった。バドもそれで出勤が遅れることをよく思わない人間がいることは知っている。そして今日はちょっと勝手が違うから、彼は一応報告くらいはしておくことにした。

 ソファーを降りて、包まっていたブランケットを適当に丸めて放り投げた。デスクで通信端末を手にしてキッチンに向かいながらベッドのほうを見る。朝まで降りるなと命じられたレイは、ベッドの端に腰掛けて彼を見ていた。

 その顔と窓の外、それから外していなかった腕時計とを順に見て、もう朝だけど、と彼は言った。レイは瞬きをすると立ち上がり、一歩進み出たがそこで止まって、不安げに左右を見、再び彼のほうを見た。


 レイが口を開こうとする瞬間と、ダリオから通信が入ったのとがほぼ同時で、バドはダリオの方を優先させた。

 端末から聞こえるダリオの声に目を見開いて、レイはすたすたとバドの近くまで寄ってきた。隣ですいと背伸びをし、スピーカーの声に耳を澄ます。ダリオはバドの遅刻を咎めるでもなく「後どんくらいで出てくる?」と聞いてきた。

「朝食抜けば二十七分」

「お持ち帰りは問題なし?」

「今隣でこの通話聞いてる」


 気の抜けたダリオの返事を聞きながらバドは欠伸を嚙み殺し、昨日の、と続けた。

「検査結果照合分は無視できない問題はなかったからベースは確認済前提で進めていいよ。ただこれまでの投薬歴は正確性に疑義ありだから、俺が行くまでに可能な範囲で検証しといて。採取のタイミングと今後の処遇はそれ見て検討する」

「分かったけど、お前そういうの本人の聞いてるところで話すのよくないと思うよ」

 バドはちらとレイを見、彼を凝視している視線を直に受けて思わず目を逸らした。それから彼は「すぐ行くから」と括って通話を終え、レイに食卓を示して座らせた。


 ダリオは「本人に聞かせるべきではない」と言ったが、別に機嫌を取らなければならない理由もないし——そう考えてバドは、はたと手を止めた。

 レイは規格外品とはいえ、キャリアである。手に負える状態に維持しておかなければならないのだ。せっかく条件に合う個体を入手したのに、ジオエレメンツの収容でもされたら元も子もない。

 バドはレイの向かいに座り、ふたつ置いたカップのひとつを差し出しながら、話があるんだけど、と言った。レイはカップを両手で包むように持ち、立ち上る湯気を覗き込んでいたが、その言葉を聞いて顔を上げた。

「はい」

「ジオエレメンツの収容は禁止」

 レイは首を傾げてバドの言葉をゆっくり復唱したが、バドはその意味に気を配るでもなく「戻るまでここに座ってて」と言うとシャワーを浴びに席を立ってしまった。

 


 モーニングコールからぴったり二十七分後に出勤してきたバドから、昨晩から今朝までのいきさつを(やけに細かく)聞き取ったダリオは、資料室という静謐な環境にはあまりに似つかわしくない笑い声を上げた。

「いや、お前それは駄目でしょ、意味分かってないでしょ」

「なんで」

「だってあれ、規格外品でしょ。だったらそれが分かった時点で知育過程からは撥ねられてるはずなんだよ。したらお前が言うようなワード知ってるか分からないし、知らないなら説明されて理解できるわけもないでしょ、もっと本人の身になれよ」

 そういうものか、と呟いたバドは参照していた端末を閉じた。


 イシュマーレには複数の資料室があり、ここは電子化された資料の記憶媒体と閲覧端末とが収められている場所だ。

 とはいえここにあるデータはイシュマーレ内からであれば基本的には自由にアクセスができ、この部屋の閲覧端末にこだわる必要はないので、この部屋を訪れなければならない理由は限られている。そういう部屋に、ダリオはバドを連れて行った。

 他の研究員から見てもダリオがバドからプライベートな話を聞き出すつもりであることは明らかだったが、残念ながらダリオが期待したような話はまったくなかった。代わりに出てきたのが今の話である。

「それなりに会話成り立つから大丈夫だと思った」

「いくら吸収が速くても知らない単語で知らない概念説明されるんじゃ駄目です」

「なんで知らないのが分かる?」

「想像だよ想像。普通分かるだろ、その対応ならさあ」

 半ば呆れ顔で資料室を出、ダリオは目の前の景色に目を細めた。


 廊下の片側一面にずっと並んだガラスの向こうで朝の空を覆っていた雨雲は、昼を過ぎたこの時間にはだいぶ流れ去ってしまい、今は雲の切れ間から差し込んだ光が少し波のある海面を照らしていた。

 何年間も毎日この景色を見ているから、もの珍しさはもうない。ただ彼は見るたびその景色は美しいなと思うし、思わず足を止めることだってある。ここが景勝地として名高いのも頷けるし、その景色を独り占めしたマリスの財力にはうなるばかりだった。

 そうして歩調を緩めたダリオを、バドは気にせず置いていく。

 彼もこの景色を見ていないわけではないけれども、彼にとってそれは空と海と太陽とが作るただの自然現象に過ぎず、美しいとか畏れ多いとか、そんな評価の対象ではなかった。


 その背中は少し前を歩いているだけなのに、到底理解の追いつかない遠いものだ。

 ダリオはそれを得体の知れない異界の生物のように思ったこともあったが、今はそんな気持ちはほとんどない。単にバドがそういう人間であるというだけだ。

 余人のいかなる努力でも追いつけない卓越した能力を持ち、一方で、変なところで極めて頑固であったり、世間では普通と言われていることができなかったり分からなかったりする。

 それを見守っていると考えるとなんとなく保護者のような気分すら覚えながら、ダリオは小走りでバドに追いついた。

 ちょうどそのとき少し先の部屋の扉が開いた。女性研究員に伴われたレイが出てきて、こちらに気がついた。


 雲間から波打っていた光が、不意に明るくなった少女の表情を照らした。

 ダリオは思わず立ち止まった。白い服に着替えさせられた少女の肌も髪もどこまでも白く、晴れ間からの光を透かすようだった。頰にはわずかな赤みが差し、昨日のような青白さは感じさせない。それが、こちらを見て笑顔になったように見えた。

 ダリオよりもバドの方が少しだけ背が低い。ダリオからはわずかに見下ろすような形になるバドは、しかし、レイの方を見てはいるのに何も表情を変えなかった。

 ダリオは肘でバドを小突いた。

「朝の再挑戦すれば」

「どう言ったらいいか分からない」

「これまで返事に結びついたワードだけ使えばいいよ」

 ああ、と得心した顔をしたバドは、つかつかとレイに歩み寄るやいなや「許可したとき以外はこれから言う人としかしゃべらないで」と言った。


 そうして彼は研究員の名前をずらずらと並べる。

 言われた名前を反復するレイの隣で、彼女に付き添っていた女性研究員はわけが分からないという顔でダリオを見た。ダリオは思わずレイとバドの間に割って入った。

 本当に、保護者のような気分だった。 

 


 これまで被験体ないし素材としてイシュマーレに納品されたキャリアは数あれど、条件指定と納品をバドが最初から手がけたのはレイが初めてであったので、その特別扱いはなんとなく所内でも黙認されてしまった。

 ダリオの(半ば面白がっての)指導の下、レイは言葉を学び、バドはそのレイと適切なコミュニケーションが取れていないと言って何度も駄目出しを受けた。

 研究材料として納品されたレイを人間のように扱うことについてはもちろん、慎重であるべきだとか、もっと辛辣な意見もあったが、レイの言語能力が上がることで彼女から引き出せる情報は増え、そこから得られる情報はキャリア本人にしか分からない目新しいものも多かったので、その他のデメリットもない中わざわざ禁ずる理由もなく、反対意見はだんだん消えていった。


 レイによれば、キャリアである彼女にとって、彼女に初めて個としての識別を行う符号たる名前を与えたバドはオーナーであることはもちろん、あらゆる意味で余人をもって代え難い存在であるらしい。たとえその名前が「零号キャリア」という不名誉な名称から取られたものであったとしてもだ。

 その話をするレイの表情はどことなく嬉しそうで、ダリオはそれをオーナーという言葉で説明させるのはたぶん適切ではないだろう、と思った。

 ところが一方のバドときたら、わざわざ夜間の維持管理について「うまくいった初日のとおりとする」などというダリオの配慮に何のコメントもなく、これまでどおり作業を続けているばかりだった。


 もちろんダリオも、開発が遅れるようなことは意図していない。だからレイに——その開発の最終段階では必要なものを採取ないし摘出し、残った体はその脳を、被験体としての最終実証に利用する予定であった「材料」に——必要以上の愛着を持たないようにとは一応気にしていた。実験動物と同じである。

 なのにその彼よりも多くの時間をレイと過ごしているはずのバドからは、レイへの対応はまったく変わらなかった。先のことを考えれば望ましいのかもしれないが、ダリオがバドのことを薄気味悪く感じることも、増えた。

 


 時間が過ぎた。最近では、レイはイシュマーレに出てこない日もあった。

 丸一日用がないとき、彼女は家(あの日からずっと引き取られたままになっているバドの家)で金魚を眺めて過ごしているようだった。少し確認したいことがあるときなどにダリオが連絡を取ると、彼女はもう通信端末の使い方もしっかり覚えていて十分な対応をしてくれた。

 そうして用を済ませて通信を終えようとしたら、レイは必ず「バドは」と聞いてきた。初めのうちこそダリオもバドに替わろうとしたが、彼は作業を優先させるばかりだったので、そのうちダリオもレイには「仕事中だよ」としか言わなくなった。


 ダリオがこうしてなんとなくバドと以前のようには話さなくなっても、彼らの立場には変わりがなかった。だからふたりは今でも、他の研究員が帰宅しても研究室に残って、ふたりきりで作業をしていたりする。そしてダリオは、それを気まずいと思える感覚をバドは持ち合わせていないだろうと思っていた。

 彼は隣でディスプレイを流れる文字を眺めて時折キーボードを叩いているバドにちらと目をやり、それから自分の手元を見た。

 彼の子どもはもう二歳になった。彼が子どもと過ごした時間より、バドがレイと一緒にいる時間のほうが、たぶん長い。

 ダリオもここのところあまり家に帰っていない。開発が大詰めだからだ。プロジェクトコードを「WEBBHAウェバ」というこの仕事がひと段落したら妻や子どもとの時間をもっと持ちたいとぼんやり考え、彼は後ろを振り返った。


 誰も座っていない椅子。レイの固定席だ。

 今している検証がつつがなく終われば、これまでのスケジュールで行くと次は彼女の脳を使った実証が始まる。うまく進めば、彼女という個は消えてなくなる。その席に座るひとは、いなくなる。そう思うといたたまれなくて、ダリオは周りを見回すとポケットから煙草を取り出した。火を着ける。すると。

「できた」とバドが言い、ダリオは顔を上げた。

 バドの表情は明るくも、暗くもない。ちょっと見てくれる、と彼が言うのでダリオは煙草を咥えたまま身を乗り出してディスプレイを覗いた。

 ダリオの顔色がみるみる変わる。彼は咥えていた煙草をつまんで外し、半笑いで振り向いた。

「お前さあ、こんなことできるなら早く言えよ。これ脳で実証とか要らないっていうか、やっても意味ないやつじゃん」

「なんか思いついたから。煙草俺もちょうだい」


 ダリオはディスプレイを覗き込んだまま、手に持っていた吸いしを差し出した。バドはそれを受け取って、瞬きをした。

「新しいの、ないの」

 ディスプレイからひとときでも目を離すのが惜しいダリオは振り向き、少し早口で答えた。

「それが最後の一本なんだよ。自分のは?」

「半年前にやめた。吸ってると煙たい顔するから」

 ダリオが目を見開いたのも見ずにバドは煙草を一回だけ吸って、ありがとう、とダリオの口に戻した。それから椅子を引いてディスプレイ上を指差し、これがどうで、と説明を始める。

 ダリオは戻された煙草を灰皿に押し付け、大きなため息をつくと乗り出していた体を戻した。バドには悪いが、説明は明日の朝もう一回聞くことにした。今はもっと面白いことがあったから、そんな気分ではなかった。彼は後ろを振り返り、空の椅子ににんまりと目を細めた。

「そうか、のかあ」

「何?」

 誰も聞いていない説明を中断して、バドが振り返った。

「いや、俺も禁煙しようかなあって思っただけ。どうだった? 我慢すんの」

「まあまあ苦労した」

「そうか、まあまあか」

 ダリオはもう一度、まあまあか、と笑った。

 


 バドの組み上げたプログラムを基に、赤紫の培養液の中で人の形が出来上がっていく。

 ダリオが言ったように、レイの脳には何らの実験も施されることはなかった。だから彼女は今も彼女のままだ。

 彼女からは必要な細胞が採取され、その後はキャリア当事者としての情報提供だけが彼女の仕事になった。一時期と違い、レイは再びバドと一緒に出勤してくるようになった。彼女は毎日、自分の細胞とバドの理論をもとに仕上がっていくその培養槽の中身を眺め、愛おしげにそれをガラス越しに撫でた。


 今日もレイは研究室のあの椅子に座り、日がな一日研究員の作業している様子を見たり資料室で新しい知識を入れたりして過ごした。

 女性研究員からもらった情報端末で、さっき資料室で見た知らない言葉を調べていると、バドが培養槽の様子を見にいくと言うので、彼女はそれについて立ち上がった。


 部屋を出て、廊下の角を曲がる。向かいに広がるのは穏やかな海だ。水平線が見える。日没はこの向きでは見えないが、薄青から紫に移りゆきつつある景色に、きれいだね、とレイが言い、バドは目を細めた。

 今でも彼にはそれは、海と空と太陽とが作用しあっただけの自然現象にしか見えないけれども——それでも彼は、そうだな、と答えた。

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