1 「はじめまして」

 カーラン・マリスの別荘は、アドラ国内の主要な景勝地には漏れなくと言っていいほどある。そのそれぞれが著名な建築家の手によるもので、中には美術的価値も認められるものすらあったが、所有者であるマリスは死ぬまで、そのいずれも公開はしなかった。

 マリスは、父から引き継いだ小さな製薬会社を巨大財閥に育て上げた辣腕の経営者である。もちろん彼は政府をうまく使った。


 アドラの東端、イシュマルにあるマリスの別荘は、アムゼルからはちょうど対岸にあたるが距離は大きく離れていて、どんなに気象条件が揃っても見えることはない。

 その別荘の設計者はハウライト・イヴリス、新進気鋭の建築家であった。彼はマリスから直接に依頼を受け、マリスの用意した別邸に篭り、白い砂浜を備えたイシュマル湾の縁に置く、海の碧とも空の青とも溶け合うような、白銀のタイルとガラスでできた建物の設計図を仕上げた。イヴリスはその建物にマリスのたっての希望で、スタッフが一切外に出なくても生活できるような設備も整えた。

「パレ=イシュマーレ」と名付けられ、ほとんど出来上がったその建物は、しかし、落成前に曰く付きの建物となってしまった。イヴリスを含め、建設に関わった主要なメンバーが内覧に訪れるはずであった日、彼らを乗せた航空機が墜落したからだ。生存者はいなかった。

 そうして、その建物の内部をつぶさに把握しているものは、その日陸路入りしたマリス以外にいなくなった。


 その後イシュマーレはマリスからアドラ政府に貸し出され、非公開の研究所として運用されるようになった。

 表向きには海洋生物の研究所であるそこに「天才」バドリナード・アルブレトが連行されてきたのは、イシュマーレが研究所としての稼働を始めてから八年後、彼が二十三歳のときであった。

 


 手元の端末を閉じて、研究員が立ち上がった。椅子の背にかけていた白衣を羽織り、デスクに放り出されていたネームプレートを取って、彼は椅子をしまうこともなく部屋を出て行こうとする。

 金髪の研究員が、あれ、と声を上げた。

「早退?」

「違う」

「ああ、あれか。お届けものか」

「そう」


 フロアにいる研究員は全部で八名。いずれも比較的似たような年齢である。各々手を振る同僚を一瞥するとその研究員、バドはすたすたと部屋を出た。

 黒に近い焦茶の髪に、ややつり気味の赤い目をした青年である。このアドラではそんなに珍しい髪色でもなかったが、赤い目は発現率がかなり低い。ただ、彼は眼鏡をしていたから、その目の色はさほど注目を浴びなかった。そんなものがなくとも彼には「天才」としての逸話が(真偽のほどはさておき)掃いて捨てるほどあったし。

 何を隠そう金髪の研究員ダリオ・アルビエッタもまた、その天才に憧れて——正確には、同じような成功を夢見てこの道に入った男だ。だから、野心家の秀才ではあったが天才ではなかった彼からすると、その天才はあまりに違う世界の、羨望ないし嫉妬の対象であったので、それを今「バド」などと呼び捨てにし、同僚としてそれなりに楽しく仕事をしていることには本人が一番驚いている。

 天才は思いのほか普通で——というか、他人からの評価に無頓着で——ダリオはすっかり毒気を抜かれてしまった。並んで煙草を吸いながら、連行されてきた天才は言ったのだ。「研究室に置いてきた金魚のことだけ気になる」と。


 バドの肩書きは「ジオエレメンツ受容体開発第二班責任者」である。

 彼とその同僚がイシュマーレで行っている研究と実験には、その材料としてキャリアが必要である。一般的なキャリアであれば入手はさほど困難ではないが、バドが出した注文の条件を満たすキャリアは規格外品であるため市場には流通していない。それでここまで納品が伸びたのだ。


 少し早足で歩く癖がある。あらかじめ指定しておいた部屋の扉の前で立ち止まると、彼は扉の横の装置にネームプレートを読ませてそれを開いた。

 そうして中に入った彼は、脇に立っていた警備員に小さく会釈をした。進み出て待つふたりの客の前に立ち、軽い握手をしてから事務的に自己紹介を済ませる。

 所属部署、肩書き、名前。対して客人ふたりは所属を述べただけだったが、それは制服を見れば簡単に分かるものだった。彼らは軍の人間である。普段は懇意のメーカーが直接納品に来るから、バドはそれで「商品」の状態をある程度、察した。


 右側の男が足を引いた。ふたりの後ろには座ったままの少女がいる。十七、八くらいに見えるその少女の肘を、男は乱暴に引っ張り立ち上がらせた。

 肌も髪も抜けるように白く、目の紫さえ薄く、ひょろ長い手足を持った少女は抵抗もなく簡単に引き上げられた。それから男は少女を前に引きずり出し、バドの向かいに据える。

 値踏みするように少女の顔を見て、バドは頭を振った。

「明細は事前にもらってたとおりで間違いないですかね」

「確認はどうします」

「外から見て分かるようなものじゃないので、要らないです。おたくらが杜撰な検査とかデータの改竄とかしてなければ、こっちは別に文句はありません」

 男は眉を顰めた。

「疑わしいと思われるならば納品前に検査していただいても結構ですが」

「気分を害されたなら失敬。以前軍から払い下げを受けた分は腎臓と肺が片方ずつ足りなかったんですよ。必要なのは卵巣だったから使えるは使えましたけど、そもそも足りない分値引きしとかなきゃ変って話になるでしょ。うちの予算は政府から出てるから」


 顔を見合わせる男たちを前に、バドは納入された少女に目を細め、それから再び男たちのほうを見た。

「イレギュラーを把握してるなら今申告しといてください。後で分かると顛末書作る時間ももったいないので」

 彼の口調は淡々として、ずっと表情も変えない。男らは顔を見合わせてしばらく黙っていたが、少女を座らせると左の男がため息をついてから答えた。

「身体的な問題はないです。見た目こそこんなですが虚弱な個体でもありませんし、能力も要求水準を十分上回っています。ただ」

「ただ?」

「まあ、規格外なのにすぐに廃棄にならなかった事情がね」


 苦笑いを浮かべた男は、こめかみの辺りで人差し指で渦を巻いて見せた。もうひとりの男が眉間に皺を寄せ、彼を小突いた。そのやりとりにもバドは眉ひとつ動かさなかった。

「それはどうでもいいです、妊娠してなければ。静かにさせるのに使ったのは何? おたくでよく使ってるやつ? 投与量といつ投与したのかも教えて。その後はこっちでやります」

 ふたりは慌ててどこかに確認の連絡をとり、返事をした。

 そうしてふたりがそそくさと退散するのを見送って、閉まった扉を一度睨みつけるとバドは後ろを振り返った。納品された少女は、虚ろな目を床に向けているだけだった。

 


 少女を所定の部屋に収容し、軍から受け取ったデータの照合を始める。仰向けに寝かされた少女の体には無数に計測用のケーブルが繋がれていたが、少女はまだぼんやりした顔で天井を眺めているだけだった。

 その部屋とはガラスで仕切られた隣の部屋で、副責任者であるダリオは少女のほうを見ながら頬杖をついた。横でバドが軍から受け取ったデータを眺めている。今のところ実測値と軍のデータとの間には、誤差では収まらないほどの大きな乖離はない。

 窓のないこの部屋からでは分からないが、外はもう真っ暗になっている。他の研究員はとうに帰宅していた。

 本当は明日に回すくらいの作業なのだが、バドはなんとなく嫌な気配を感じて今晩それを終えてしまうことにした。嫌な気配というのは、あの男たちがどこかに確認した内容だ。鎮静剤の種類も投与量も、あまりに正確で適切な回答だった。そう、たぶん嘘だなと思うくらいには。


 様々な計測器具の記録する数値はキャリアとしてはおおむね標準的なものだ。容量も特別大きくも、小さくもない。ただし適合値だけは標準域を超えていた。これが高いとジオエレメンツが「よく釣れる」のだ。

 その、高すぎる適合値データも間違いではないことを確かめ、ダリオはため息をついた。

「今晩どうする? この適合値で覚醒されたくないな」

 バドはちらとダリオを見、耳の後ろを掻いた。

 キャリア側の意識が清明でない間は、仮にジオエレメンツが寄ってきたところでキャリアが受容を選択できないので別に問題はない。何も収容していないキャリアは、機能的には壊れにくいだけの人間である。

 ただ一度ジオエレメンツを収容してしまったら、そのキャリアを人間が制御することは極めて困難になる。だからこそ自我の強いキャリアは、生殖機能が残存しているものたちと同様、規格外として撥ねられるのだ。


 この少女に繰り返し鎮静剤が投与されていたのも、そうして制御不能になるリスクを避けるためだ。つまりその投与はただ、扱いやすい形でキャリアを生かしておくためだけのものだし、規格外のキャリアを生かしておくのはほとんどが安っぽい人道主義者の自己満足か娯楽目的であって、必要性など知れている。そしてキャリアはただでさえ壊れにくいから、大抵の薬物投与においては量も時間も種類さえも、まともな管理をされていない。

 彼女がはっきりと目覚めていた時間は、彼女が作られそして規格外であると認定されてから累計で何時間あるのだろう——バドはなんとなく腕時計を見た。思ったより遅い時間だった。


 ダリオが心配しているのは、そんなわけの分からない薬物の影響下でこの状態にある少女を今晩放置して帰った場合にジオエレメンツの収容が起きるリスクだ。今の彼女の状態もはっきりしないから、こういう場合は覚醒まで監視して直ちに追加の薬物投与を行うしかないが、夜間警備のスタッフにそんな高度なことは頼めない。

 ならば採れる選択肢は限られるが、いずれも乱暴か、現実的ではない。

 なのにバドは何とも思っていないような顔でダリオに「別に問題ない」と答えただけだった。


 バドはダリオより三歳下だが、ダリオの懸念をバドが分かっていないはずはない。ダリオはまだ食い下がった。

「けどもし何かあったりするとさあ」

「簡潔に」

「分かったよ。万一の場合を考えると泊まり込んで対応すべきだ。が、俺は帰りたい」

 バドはその言葉を尻目に、検査結果を記録したディスクを取り出すため屈んだ。足元の機材からディスクを取り上げながら、彼は「どうにかなるだろ」と言った。

「あ? どうするんだよ。この状態で勘で追加投与なんかしたら明日に差しつかえるかもだし」

「意外と心配性だな」

 意外と、と苦笑したダリオを見ながら、バドはキーボードの横に頬杖をついた。

「ここに残しておかなければいいんだろ」

「連れて帰れっての? 何言ってんだ冗談じゃない、無理だ」

「知ってるよ。先々月だっけ?」

「そうだよ。だから帰りたいんだ」

 中空に目をやり、ああそうだ、と呟いたバドはデスクの中からごそごそと封筒を探し出し、ダリオに手渡した。

「出産祝い」

「わざわざ。いいのに」

「気まぐれみたいなものだから帰って開けろ。あれは俺が預かる」


 ひらひらとデータの詰まったディスクを振って部屋を出たバドを見送り、ダリオはその場で封を開いた。

 中から出てきたのはパスがなければ使えないプリペイドカード一枚、しかも政府支給のものだ。金額表示もないがそもそも一度も使用された気配もないから——バドは彼が受け取る給料の一回分をそのまま何の調整もせずに封筒に入れたようだった。いかにも彼のやりそうなことである。


 彼は好奇心をくすぐってこないことには、基本的には極めて無頓着である。時間を割くのも面倒なようだった。かと言って返そうとしても彼は受け取らない。

 だから金額を常識的なものに収めるために、ダリオはこれから何度彼にご馳走しなければならないのだろうかと考え、そしてはたと思い出して、封筒を逆さにした。

 パスが書かれているとおぼしき紙きれがひらりと落ちて床で滑った。彼はそれを拾い上げて折り目を広げ、思わず吹き出した。

 嫌がらせのように小さな字でみっしりと数式が並んでいる。

 こういうことをする時間は惜しまないのだ、あの天才は。

 

 

 扉を開けると、ものの少ない室内に規則的な音をこぼしている小さな水槽が見えた。赤い金魚が一尾。

 政府がバドに準備した部屋は、部屋の鍵に独自のアルゴリズムを利用したキーを導入している。外から侵入するのは難しいが、逆に言えば中から脱出するのも難しい。

 政府が準備したのだ——彼を大学の研究室から、穏当とは言えない方法で連行してきた政府が。その目的など分かりきっている。

 彼がこの部屋のことで政府に要求したのは、しかし、外部との接触ではなかった。彼の要求に従い、政府は彼の研究室から金魚を連れてきた。三尾いたはずだが、二尾は死んでいた。 


 意識が朦朧としているといっても寝ているわけではないので、少女は腕を引けば、ゆっくりとではあるが歩いた。入って、と声をかけると少女はこっくり頷いた。

 少し意識がはっきりしてきている。バドは時計を見た。やはりあの男たちが伝えた薬物投与の情報は正しくなかった。次を投与するまでは、もう二時間くらいは見なければならない。


 持って帰ったディスクを差し込み、ディスプレイの電源を入れながら欠伸をしたバドは、少女が玄関のそばで立ったままなのを思い出し、その辺にでもいて、とソファーを指差した。彼女はまた頷いて、そこに腰を下ろした。

 データの見直しを終えるまで、彼は三度席を立つと水を持って戻ってきた。その間も少女はソファーの上で抱えた膝に顎を埋め、じっと水槽を見ていた。

 バックアップを終えて電源を落とし、空のカップを持って立ち上がった彼は、よく飽きないものだと半ば感心しながらソファーの後ろに立ち、彼女の見ている方に目をやったが、彼女が自分を見上げているのにわずかに眉を上げた。

「魚の名前を教えてほしい」

 バドは目を細めた。これはたぶん、想定していた鎮静剤とは違うものだ。おおかた値段の安い別の種類のものに変えていたのだろう、抜け方がよく使われているものと違う。そうなると次の投与も考え直さなければならない。相性の問題があるからだ。

 これは夜通し見張るほかない——バドは大きなため息をついた。


「名前」と少女が繰り返すので、彼は「金魚」と答えたが、少女は不服げだった。

「違います、金魚の名前。あなたは人間、名前はバドリナード・アルブレト」

「よく覚えてるね」

「最初に会ったときにあなたが言いました」

 少女は左腕の袖をまくった。二の腕の内側に刻印がある。

「わたしは零号れいごうキャリア」

 少女は刻印を示しながら言った。

 いくつかの文字とともにゼロが五つ並んでいる。それが処分予定の規格外品に付される評価であることはバドもよく知っている。

「キャリアは初めに所有者オーナーの名前を認識します。わたしはあなたを認識しました」

「そういうつもりで名乗ったんじゃない」

「今日の人たちはわたしのオーナーではない。わたしに名前を知られたがらなかった」

 少女を連れてきたふたりのことだ。となると少女はおそらく彼らにも同じ質問をしたのだ。しかし廃棄指定の規格外品を弄ぶために生かしておいた連中である。

 そういう使い方をしていたのなら、下手に名前など覚えられてはたまらないだろう。「まあそうだろうね」とバドは答えた。

「あの連中と同じことはしないよ」

「わたしはあなたの指示に従います。わたしはあなたをオーナーと認識しました」

「いや、だから」

 バドは大きなため息をついた。長い夜になりそうだった。

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