5 薄明、そののち

 その前日の朝ヴィダが外に出たのは、フリッガがまだ起きないうちからだった。

 ゼーレに同行してもらったので「ひとりで」という評価はたぶん正確ではないが、外から見ればゼーレの姿は誰にも認識できないし、少なくともフリッガのそばは離れている。

 彼はそれが見張りだか護衛だかといった任務と照らしてどうなのかは考えないわけでもなかったが、フリッガはもともと護衛など必要ないくらい自衛能力を(たぶん、世間の誰よりも)持っているし、何より彼女の身を守る動機のある者が彼女の周りには複数いる。そのことを重々承知していたから、ヴィダは最終的に、物理的に近くにいなくてもさしたる問題なしという結論に至った。

 そうすると結局彼の任務の中で一番重要なのは、護衛対象たるフリッガに最も合理的なルートを提案しそれを案内すること、ということになる。


 この旅行きの間に、自国が擁するサプレマのには随分詳しくなった。

 たとえばよく足元をちょろちょろしている猫(の姿の竜)は、自らの感覚野を風に乗せて広げることができるという。障害物の有無にもよるようだが、うまく使えば周辺の人員配備状況などはその足元を撫でる風で、かなり正確な規模と配置を把握できるはずだ。

 サプレマの竜が可能というなら、それと似たようなことは(知識がなくてできない、などでもない限り)サプレマ本人にもできる。

 国を出る前から多少は知っていたものの、そこまでの必要にかられなかったから、彼はフリッガにできることを闇雲に掘り下げようとはしなかったし、それはユーレ軍の他の者も同じであった。

 サプレマは、——もちろんそれに頼ることは軍にとってある種の敗北であったから、なされる依頼も通常、腰の引けた最低限のものではあったが——期待された結果を全てやすやすと出してきた。だから誰もその限界など把握しようともしなかったのだ。

 しかしこの同道の間にフリッガが何の気なしに使ってみせた、先のネコの能力を含めた種々の竜の加護は、戦術・戦略に組み込むのはもちろん兵站へいたんとしても十分に有用なもので、もともとそれが何のために開発されたものなのかを改めて思い出し、ヴィダは思わず脇腹に手をやった。

 数年前に抉られた傷の痕が今でも消えずに残っている。鎧の隙間から入り込んでその傷をつけた刃はすぐさま溶けて水に戻り、彼の血と混ざって砂に吸われたはずだ。そのあと目覚めて最初に見たときのフリッガの顔を、彼はまだ忘れていない。もちろんそのとき散々、馬鹿だと言われたことも。


 ジオエレメンツの能力は、それを体系的に分析した上で、キャリア自身の意図など無視できる形で使えるのならばこれほど便利なものもない。燦が提供を受けた体は、そういう意図でもって作られたものだ。そして彼はその体を得た理由としてひとつ大事なことを言った。

 竜の活動は主に負担を強いるものだ。つまりジオエレメンツの足場としてのキャリアは——程度の差はあれ、少なくとも原則的整理としては、消耗品である。


 太陽はまだ低い位置で、空も薄曇りだったけれども、実体を持たないゼーレの知覚にその条件は関係がない。

 ゼーレに「ちょっと手伝って」と言って宿を出たヴィダは、当初こそ普通に歩いているだけのように見えたが、その表情がだんだん険しくなるのをゼーレは少し不安な気持ちになりながら左側から見ていた。彼のそちらの頰には傷がない。

 彼の歩調はほとんど変わらない。わずかに速くなったが無視できる程度だ。けれども。


 ゼーレには彼の頭の中を覗くことはできない。だから彼が何を考え、そんな風に眉を寄せているのか彼女には分からなかった。

 ただ、彼はそんな思い詰めた顔を決してフリッガには見せない。ゼーレはそれを彼なりの気遣いなのだろうと思っている。そしてそんな気遣いをするのは何故なのかを考え始めると、彼女はありもしない腹の底が重くなるような、なんとも言えない息苦しさを感じるのだった。


 本当はゼーレには、彼の頼みごとなど聞く理由は全くない。ふたりの間にはキャリアとジオエレメンツとの間のような依存関係はないし、互いをどう思っているのかも、その言葉の裏に何があるのかも分かりはしない。

 それでもゼーレは彼に頼みごとをされるのは嬉しかった。彼の左からの横顔が好きなことも、それが彼に「博士」を重ねているからであることも、それが馬鹿馬鹿しいことであることも、全部とっくに分かっていたが、それでもその役に立てるのならば、彼女はそれだけで嬉しいと思っていた。



 そしてその朝、戻ってきたふたりと入れ替わるように出て行ったフリッガは、昼前にうーと一緒に帰ってくるやいなや寝込んでしまい、次の朝を迎えた今もまだ布団の中で丸まっている。

 燦に用があるからと言って出発を遅らせたのはそあらだったが、彼女が戻ってきてもフリッガがこれでは発つことができない。それも、単に具合が悪いとか寝不足だとかでグズグズしているだけならまだしも、今朝の彼女はつついても揺すっても起きなかった。うーはいつかのようにガラスを引っ掻いてみたが、ヴィダに怒られただけで肝心の主はぴくりとも動かなかった。


 脈拍も体温も異常はない。身体状況的にはただ寝ているのと同じなのだが——そあらは、フリッガの隣のベッドで胡座をかいていたヴィダに目配せをした。何か言うことがあるのでしょう、とでもいうように。


 翠嵐以外は皆そこにいる。ヴィダはそれをぐるりと眺め、大きなため息をついた。

「俺な、ほんとにアナタたちのことよく分からないんだけどさ、横の連絡はどうなってんの。アナタたちどうしの」

「質問の意図をつかみかねるけれど。私たち相互で、私たちそれぞれとマスターとの間のように密な関係があるかを聞きたいなら、ないわよ。私たちはたまたま同じ建物に住んでいるだけの別々の世帯みたいなものだから、それぞれの部屋のことは家主と共有するけれど、隣人とは必ずしも親しくはないの。必要もないし」

 そあらはカウンターの上で澄ましているネコを見、少し首を傾げてみせた。ネコはそれに肯定を返すように頷いた。ヴィダは、ああそれでね、と呟いた。

「じゃあ知らないんだろうから言うけど、昨日の晩あいつが出たんだよ、コードを解きにこい、つって」

「プレトですか?」

「そう。サプレマが……ああいや、前サプレマか。それが設定したってさ」

 ヴィダはゆるりと人差し指でフリッガを指し、その手を解きながら手のひらを上に向けて言った。

「不良品を引き上げたいんだそうだ」


 ゼーレは全身が泡立つ気がした。その物言いがまるで自分を廃棄した開発者のようだったからだ。

 もっとも、何にも姿を投影していないゼーレの表情はヴィダには見えない。それで彼女は気を取り直すように、部屋に据え置かれたディスプレイに姿を見せた。ドロッセルで泊まった部屋にあったのよりはかなり映像が荒いが、それでもユーレにはないものだ。

「不良品って?」

 ゼーレは努めて明るく聞いたが、その声が震えているような気がして不安になった。とはいえヴィダは何も気づいた様子はなく、彼は、さあ、と肩をすくめただけだった。

「よく分かんないんだよ俺も。あとは同居人のほうが詳しいって言われたけど、同居人ってアナタたちのことでしょ……」


 そう言いながら周りを見回したヴィダの視界に不意にずかずかと翠嵐が入ってきた。

「人にもの頼む態度じゃねえよな」

 彼はそう言うなりディスプレイの前の椅子を引くと乱暴に腰掛けた。ネコが飛びのいてヴィダの後ろに隠れ、ヴィダは呆れた顔で口を開いた。

「それお前が言うの? 俺がやむを得ず立て替え続けてるお前のめし代総額とご自身の俺に対する態度、思い出して」

「うるせえな、母艦保護のためだよ。お前護衛だろ? ならむしろ感謝されたいくらいだ」

 いやいやいやいや、とヴィダが返すが即座に倍以上の反論が返ってくるので言い合いが終わらない。なのにこれだけざわざわしていてもフリッガは起きる気配どころか身じろぎひとつしなかった。

 そあらはため息をついて、それで、と呟いた。ふたりが黙り、彼女を見た。

「詳しいことは聞かないけれど、わざわざ文句だけ言いにきたわけではないのでしょう?」


 そあらの青い目が翠嵐を見ている。彼は一瞬言い淀み、それからため息をついた。

「このままほっとくわけにもいかないだろうからさ」

「あら、あなたは別に構わないかと思っていたけど」

 そあらの言葉には棘がある。ヴィダはネコと一緒に成り行きを見守っていたが、翠嵐は特段腹を立てた様子もなく淡々と答えた。

「それがな、そうもいかないんだよ。俺だって用もないのに外出てうろうろしたくないんだよ、別に面白いこともないし腹も減るし、変な奴に喧嘩売られたりもするしさ。まあそれだってマスターがもりもり食って元気元気してくれてれば俺がつまんねえだけで別に問題ないけどこのままずっと寝られてみろ、こっちはこっちで食うしかないじゃん。そしたら」

 翠嵐は不意に言葉を切るとヴィダを指差した。そして言う。

「お前が破綻する」

「だからなんで俺が出すこと前提なの」

「金持ってんのがお前だけだからだよ。だいたいお前らからしたら俺らに金払うのは賽銭みたいなもんだろ。喜んで出せって、な」

「敬って欲しければ信徒恐喝するのやめてくれます?」


 また始まったふたりの言い合いを半ば呆れ顔で見ていたそあらは、大きなため息をついてそれを中断させた。

「話が進まないから止めて。つまりこのままだと戻れないのね?」

 返事を促すように首を傾げたそあらは、翠嵐が、そう、と返すのを聞きながらフリッガに目を落とし、少しの間黙っていたが、不意に顔をあげた。

「あら……本当だわ。こんなことができるなんて」

「何の話」

 ベッドの上に座ったまま眉を顰めて見上げてきたヴィダに、そあらは頭を振った。

「さっき、マスターは家主だという話をしたでしょう。その例えで言えばほかの住民が全員出払っている間に集合玄関が封鎖されてしまったと思ってちょうだい。私たちは締め出されて、家主も外に出てこられない。犯人はあなたしか入れないと言っている」

「なんで俺なの」

「それこそ、マスターのお父上がコードを解くキーにあなたを設定したからでしょう? だから彼はあなたを名指しした」

「ええ……なんか主犯が誰か分からなくなってきたな」


 そあらはかつての主を思い出すように目を閉じた。そしてしばしの沈黙。

 目を開いた彼女からは「まあ、そんなこともあるでしょう」という独り言とも呟きともつかないような曖昧な返事しかなかった。

 彼女に何か思い当たることがあるのは明らかだったが、それ以上聞いても彼女が詳しいことを話すことはないのはヴィダにも察せられたから、彼も質問を重ねなかった。


 ディスプレイには何も映っていない。ゼーレはそこを離れてフリッガの隣にいた。

 こんな風に主を見下ろしたことは、ほとんどなかったように思う。何の警戒もない穏やかな寝顔だ。ゼーレが誰よりも焦がれた「博士」の作品であるウェバの、ゼーレを棄てたその女性の娘。


 ゼーレは電気信号である。全ての形のないものを0と1とに分解し、また再構成することが彼女にはできる。

 彼女の把握しているデータベースでは、そんな特性を持ったジオエレメンツは彼女だけだ。そしてそれは人間の意識をもジオエレメンツのように、キャリアに干渉させることすら可能にするはずである。もちろんそんなことを試したことはない、でも。


 なんとなく引っかかったから。それだけで契約したというのはおそらく、正しくない。

 あのとき自分はきっと喚ばれたのだ。この人の中に既にいた「博士」に。いつかこうなることを予期して、もしくはこうすることを予定して、だから博士はそれに必要なものとして自分を喚んだのだ。世界で唯一、それができる存在である自分を、博士が。喚んだのだ。


 あの人が博士に似ているのではない。あの人は博士だ。かつて人間としての生を終えた黒い幽霊ゴースト

 ディスプレイに戻る。やろうよ、とゼーレは言った。

「やろうよ。私たちのことは置いといても、ヴィダだってマスターが起きてくれないと任務遂行できないでしょ」

「えっ? まあそりゃそうだけど」

「このままにしとくことに賛成な人、いないんでしょう。じゃあやろうよ」


 ゼーレの言葉はいつもの彼女からは想像できないくらい強かった。

 彼女は銀製のものを探すように言い、そあらは少し考えてからフリッガの耳飾りに手を伸ばしかけたが、ヴィダが「あるよ」と言うのでその手を引っ込めた。

「壊さないなら貸す」

「壊れないよ、しばらく電気通すだけだから。マスターと手のひらを合わせてね。その間にそれを置いて。ちなみに何?」

「形見。おふくろの結婚指輪」

 ロマンチックだね、とゼーレは笑った。実際は彼女にはそんな感慨などなかったのに。それを横目に見ながらそあらはヴィダから指輪を受け取り、何か頼みがあれば礼として聞く、と言った。

 ヴィダは少し考えてからそあらに耳打ちをし、そあらは瞬きをしてから頷いた。



 ゼーレの指示したとおりに準備を終え、それから? とヴィダはディスプレイを振り向いた。

 ゼーレは、気が散るとよくないからと言ってそあらたちを退室させた。ゼーレのほかにはフリッガとヴィダだけになった部屋で、ゼーレはヴィダに言った。

「これからしてもらうことは、普通に生きてる人間なら決して体験しないことだと思う。私たちが外に出ていないときにいる場所にあなたを送り込むけど、たぶん人間であるあなた自身が思っているよりも人間の頭の中って広いし難解だから、まず必ず標になるものを探してね。そして一度決めたら迷わないこと。頭の中で考えてるだけの、表面に出ない部分が直結するなんて普通は耐えられないだろうから、よそ見してたら飲み込まれるよ」

「いまいち分からないけど思った以上にやばそうなのは理解した」

「最悪の場合ふたりとも目が覚めない。怖気おじけ付かれると困るからさっきは言わなかった」

 ヴィダは、似た者どうしだな、と苦笑した。その意味をゼーレは汲み取れなかったが、気にも留めなかった。

 プレトが、いや博士が彼女を必要とした。その事実だけで十分だった。

 

 目を閉じて、楽にしてね、と彼女は言った。それが、始まりの合図だ。

 暗闇の中で「必ず先に戻ってきてね」というゼーレの言葉だけ、聞こえた。

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