4 彼方の標

 ガラス越しに見たデザートを目当てに店に入る。店員が一瞬ぎょっとした顔でこちらを見たが、ふたりにはもはや知ったことではない。というか、うーに至ってはおそらく一瞬とて気にしたこともない。人にあってはかなり不自然な髪や目の色を持つ竜は、そんなふうな扱いを受けるのはいつものことだからだ。


 通された席で図解も何もないメニューを開き、上から順に見ていく。

 この辺では言うまでもないということかもしれないが、それがどんなものなのかの説明は文字すらほとんどなくて、フリッガとうーとは気になった名前を読み上げては互いの顔を見た。もちろん期待した返事はどちらからも一度もなかった。

 こういうときヴィダがいればいいのになあ、とフリッガは思ったが、よく考えれば彼が好んで甘いものを選んでいるところは見たことがない気がする。機会がなかっただけなのか、それとも意図的に避けているのかは分からなかったけれども、最近はずっと一緒にいて、それでなんとなく彼のことをよく知っているような気になっていたから、そんなことは全然ないのだと不意に気づいてフリッガは目を伏せた。


 結局ふたりは注文を、名前からではなくショーケースを見てから選ぶことにし、店員の快諾を得て席を立った。

 ショーケースのガラスにべったりと手をつき、顔を近づけて真剣な眼差しで中を覗き込んでいるうーを前にすると、さすがに同じようにするのは気が引けて、フリッガは二歩退がったところから選ぶことにした。


 フリッガの真後ろは、店名が鏡文字で書きつけられた広いガラスで仕切られた先にすぐ道路がある。さっき二人が店に入ることを決めた、その場所だ。

 外は雲が晴れてきて、人通りが店内のショーケースにも写り込んでいる。

 水色の大きなベレー帽をかぶった少女がこちらを見ているのに気がつき、フリッガは後ろを振り向いた。もうその影はなかった。


 最終的にふたりが選んだのは、たまご色の薄く焼いた生地とクリームとが幾層も重ねられたもの、それから、白くて丸くてつるんとした、たまごよりはひと回り大きいくらいのよく分からないものだった。これとこれを、と店員に指し示すと、何と何ですねと名前を確認されたが、フリッガもうーもそれが正しいのか判断できなかったので、ふたりは顔を見合わせてから、はい、と返事をした。

 席に戻ってしばらくすると注文したものが運ばれてきた。何のお客様、と言われたがふたりとも自分が注文したものの名前を把握していない。フリッガはすみませんと断りを入れ、店員の持っている皿の上のものを少し伸び上がるように確認し、そっちがこっちでそっちがあっち、などとかなり要領を得ない指示をした。店員は慣れているのか、気を悪くした様子は全く見せずにふたりの前に皿を並べた。


 白くて丸くてつるんとした方がフリッガの選んだものだ。端のほうにおそるおそるフォークを差し込むと、思ったよりもするすると飲み込まれていった。二口目をとったら、中から赤いソースが垂れてきた。フルーツをかなりの砂糖で煮詰めたものだ。

 ふと朝のヴィダの言葉を思い出し、フリッガは目の前のうーのケーキを見てから(彼はその層を最初は薄く剥がして食べてみたようだが、結局は普通に端から食べていくことを選んだ)ショーケースのほうを振り返った。

 確かに新鮮な果物は少ない。たくさんの果物が乗っているように見えたものはドライフルーツや、長持ちするよう加工したものをうまく利用しているようだった。


 朝、ヴィダは「ちょい値の張るとこ」を選んだと言っていた。それは別に贅沢をしたかったわけではなく、新鮮なものが手に入らないのは予算の問題なのか、それとも物理的な理由なのかを見極めて物流網の実態を検証するためだったのだろう——たぶん、いや、きっと。

 おそらく彼はフリッガと同じものを見ても、彼女とは違うことを考えるのだ。「わぁ美味しそう」で終わるのではなく、あるべきものは何か、どうしてそれがないのか、その推測が事実だとすれば他にどんな影響があるのか、それは自分にとってどんな価値があるのか、そういうことを。同じものを見てもそこから得る情報量はあまりにも違う。


 彼はここに来るまでの道中も、そんなふうに周りを見ていたのだろうか。最後の一口を噛み締めながらフリッガは、今度思い出したら真似してみよう、と決めた。だから会計を終えてショーケースの前を通るとき、彼女は手始めに、自分の食べたものの名前をちゃんと確認した。これは美味しいものだという評価を添えて。


 道路に出る。陽の当たった建物は、建材の反射がユーレのレンガよりずっと強くて、薄曇りだった昨日に比べると街全体がとても明るく見えた。

 荷車を引いた馬がときどき通るが、この街に最初に入ったときに横切った道ほどではない。圧倒的に多いのは人だ。確かに移動手段はユーレでよく見るものと大差ない。むしろ、運河を利用した物流がない分シンプルでさえある。フリッガは周りを見回し、最後に空を仰いだ。

 熾と話したときもヴィダは通信技術のことと建築のことと、それが抜きん出て技術発展しているとか、そんな話をしていた気がする。

 隣で聞いていて、そう言われればそうだなと思ったくらいには覚えているが、そういう目で——「どうして」を考えながら見てみると、世界はわずかに、けれども急に大人びて見えた。

 フリッガには知らないことがたくさんあるのだ。いつも不安になるだけだったその事実が今日はなぜかとてもわくわくすることのような気がして、彼女はうーに、少し遠回りして帰ることを提案した。


 数歩先を行くうーに合わせると、フリッガは随分気楽に歩くことができた。彼女は普段ならひとりでも、あちこちを見回しながら半分立ち止まりかけてという注意力散漫な歩き方をするので、同じ年代の女性に比べても歩くのは速くない。

 ただ国を出てからしばらく、この行程の間はそうやってのんびりしているわけにもいかなかった。彼女が風邪をひきかけて大事をとったり、目的とは関係ないことで人に呼ばれたりといった想定外のことが割に多いのが分かり、急げるときにはできるだけ急いでおこうという方針になったからだ。

 だから時間を気にせずぶらぶらと歩けるのは久しぶりだった。少なくとも今日は動かない、というのはそあらに確認した。彼女の燦への用は、まだ終わっていないらしい。


 正面に見える市庁舎、あれはどのくらいの階層だろう、燦がいたのは——そう思って中層から上の方に目を移していく。

 その隣の、議会棟と呼ばれていた建物はさらに上まである。そちらに視線を移動してさらに上へ。一番上まで辿ってしまう前に不意に頭がぐらついて、フリッガは思わず下を向き、頭を振った。

「なんだ、大丈夫かマスター」

「大丈夫、なんでもない。ちょっと目眩がしただけ、めちゃくちゃ上まであるね」


 うーの薄緑の髪を軽く撫で、フリッガはため息をついた。

 また風邪でも引いたのかと思うと、不意にメーヴェでのことを思い出した。あのときは雨に打たれて、そうだ、プレトに会った。そういえばあれ以来、床をその鋼の尾が這い回るような音を聞いていない。怖い、という気持ちも薄れてきた気がする。


 額に手を当ててみたが熱のあるような感触はなかった。また少し先を歩きながら、うーが心配げにこちらを何度も振り向くので、その都度彼女は「大丈夫」と手を振ってみせた。その回数、宿に辿り着くまで八回。そしてその途中で彼女が目眩を覚えたのは三回だ。しかも徐々に酷くなっていた。最後は目眩というよりも、もはや「目が回る」に近い感覚だった。

 うーと別れて部屋に戻った彼女は、上も脱がないままベッドに倒れ込んだ。


 壁に黄色がかった光が映る。フリッガが目を細めて足元に目をやると、少女がこちらを覗き込んでいた。

 ゼーレは眉間に皺を寄せている。それにただいまと呟いて手を振ると、フリッガはその手をそのまま力なくマットに落とした。安物のマットはスプリングがあまり利いていない。

「どうかした?」

「なんか目が回った。地面がぐるぐるするっていうか、体がふわふわするっていうか、空飛べそう」

「貧血? ちゃんと食べてる? 顔色悪いよ」

「美味しくないけど食べてるよ。熱はなさそうなんだけどね……」

 寝る、と枕に顔を埋めたまま呟き返事をしなくなった彼女にゼーレは肩をすくめ、消えた。



 廊下の向こうから人の声がする。聞いたことのない声だ。別の客が来たのかもしれない。やっぱり貸し切りではなかったのだ。

 明日は今朝のようにあの部屋を独占することはできないだろう。ゼーレの消えた部屋の壁はブラインドを通した細い光だけが照らしている。その筋を追いながらまどろみ始めた意識の中で、フリッガは小さな少女を見た。またあの夢だ。


 あのときの自分が、まだ六つの自分が、プレトに手を伸ばした。

 この後のことも何度も同じ夢を見た。そう、何度も。でも。


 今の声はお父さんだ。初めて聞こえた、

 上がってくるなという声。泣きたくなるほど、飛びつきたくなるほど懐かしい声なのに、なのにそんな聞いたこともない、驚くような怖いような、そんな大きな声を。

 誰に対してのものなのだろう、今どこかに沈んだ何かに、——ああ、そうか。


 お父さんはそうして、罠に獣を封じた。



 日が沈むと雨粒が落ち出した。フリッガはゆっくりと目を開き、ベッドの上から窓のほうに目をやった。

 ブラインドは戻ってきてすぐのときよりぴっちりと閉じられて、もう隣のブラインドとの隙間からしか明かりは入ってこない。外の街の明かりが彼女の邪魔をしないようにと誰かが配慮したのだろう。

 ここの設備はドロッセルよりはかなり原始的だったから、たぶんそれをしてくれたのはゼーレではない。そあらかな、と呟いたフリッガはそのまま動くこともなく、額に手の甲を当てて大きくため息をつくと目を閉じた。


 眠りに落ちる前に、とてもいやなものを見た気がする。あのときのことを、そうだ、三年前、ヴィダに会いに行ったときに彼は、フリッガの父親が己と引き換えに彼を助けたと、そう言っていた気がするけれども——その詳しいことをフリッガは尋ねなかった。父の死んだその日のことを思い出すのも嫌だったから、避けた。

 ヴィダはヴィダで、聞きたがらないフリッガにそれをわざわざ聞かせようとするようなこともないから、結局彼の言ったのがどういうことなのか、フリッガには今でも分からない。

 ただあの父の大きな声、の声はきっとコードのトリガーだったのだ、と思う。今まで思い出すことができなかったのは、自分にとって都合の悪いものだったからだ。

 お父さんは、……いや。考えるのは止そう。フリッガは頭を振り、布団を頭までかぶって丸まった。



 宿に戻ってすぐベッドに入り、何度か目を覚ましたがその都度体調は悪化しているのが分かっただけだった。寝ていろと言われたが不必要に重篤だと思われたくなく、無理に立つと壁にぶつかる始末である。

 打った頭を抱えてしゃがみ込んでいるところにそあらが来て、ため息をついた。

「寝ていてくださいと言ったはずですが」

「けどさ」

「無理をしてもいい結果は生まれません。数日の遅れならどうにかなります」

「そうだけど……」

 目をしばらく泳がせてから、結局フリッガは「言うとおりにする」と返して部屋に戻った。それから一寝入りしてなおこの有様である。


 布団の端を持ち上げて、隣のベッドを見る。まだ誰もいない。たぶん寝るような時間ではないのだ、暗くてよく分からないけれど。

 耳を澄ましても、あの尾の這い回る音はしない。フリッガは再び大きなため息をついて布団の中で寝返りをし、うつ伏せになった。


 罠の獣はたぶん、全部を知っている。あの声を忘れることで都合の良い父の姿だけを記憶に残し、ここまで体だけが成長したフリッガを、父になりきろうとして自分なりに努力をしたつもりにはなっていたフリッガを、きっと馬鹿げたものを見る目で、あの日からずっと、見ていた。

「あのとき先に、聞いとけばよかったな」

 思わず言葉がこぼれた。フリッガは深い眠りに落ちた。



 年不相応の肩書きを色々揃えてはいるものの、ヴィダは今これでも任務遂行中なのだ。留守を頼まれているはずの副長は上手くやっているだろうか。寝返りを打って仰向けになってから、鼻の頭を掻いた彼は暗い天井に目をやり欠伸をし、それからもう一度寝返りを打っていつもの寝姿に戻った。


 深夜。雨の音。細い通路を挟んで隣のベッドでは、目眩がすると言って寝てしまったきりのフリッガがこちらに背を向けている。掛け布団は寝返りを打っているうちに前に抱き込んでしまったようで、今は背中が見えていた。

 一昨日だったか彼女は、突然うつぶせ寝に挑戦すると宣言し、翌日「お前のせいで首が痛い」と起きるなり文句を垂れた。自分の真似をしてみたらしいが頼んだ覚えはないので、そんなことを言われるのはどう考えても筋違いだったものの、別に嫌な気はしなかった。彼女がそういう理不尽なことを遠慮なく言う相手は自分だけだという自負があったし、それを愉快に思うくらいの余裕も今はあったから。


 とは言え、フリッガはこれでもまあいわゆる妙齢の女性であることだし、こうも無防備な状態で男(自分のことだ)とふたりきりで何も問題と感じないのだろうかとか、さすがにそれに関して自分の自尊心は少しは傷ついたほうがいいのではないかとか、一応は考えたりもするのだが——母親のように見守ってきたというそあらすら触れずにいるのだから、なんとも複雑である。

 もっとも、彼女が敢えて放置しているのだと考えれば気分は悪くなかった。どういう意味でかは置いておいても、自分は水竜の信を得ているわけだから。それに、護衛にしろ見張りにしろ都合のいい状況なのも間違いない。例えば不意の侵入者があったときにはすぐに察知し対処できるし。まさに今のようにだ。


 フリッガがどう思っているのかは知らないが、ヴィダは別にうつ伏せで寝るのが好きなわけではない。起き上がりやすいと思っているだけだ。

 彼は安物のマットの上で片膝をついた。ぎし、と音がした。多少安定はしないが寝転がっているより遥かにましである。それでも懸念もある。扉の開く音はなかった。この部屋は窓も開かないし、何よりこの高さなのだ。そしてこの道中で違和感は薄れてしまったものの、フリッガの周りはとにかく人間でないものが多いから、この侵入者もその手合いだろう。身一つでどこまで渡り合える?


 枕元に置いていた得物はもう手の中にある。ただそれを出してしまっては相手も目的も見極める間がなくなる。スペクトにはウェバ、フリッガの母親と、その竜もいるという。そちらの手の者か、あるいは——


 部屋の端、扉のそばにいたその影は両手を肩の高さに上げた。敵意はないとでも言うかのようだ。

 ヴィダは眉を顰めて目を細め、思わず、ああ、と呟いた。

「確かに似てる。気持ち悪いな」

「ご期待に沿えたようで何より」


 そう言いながらプレトは両手を下ろし、壁際を離れるとベッドの間まで進み出てきた。雨音に混じって、鋼の擦れる音がする。

 ヴィダは布団の下に隠した得物をもう一度確かめながら、その動向を注視した。プレトは一瞬片眉を上げたが、何も気づかなかったかのようにフリッガを一瞥し、それから片腕を上げてヴィダにあの鎖を示しながら、そう怖い顔をするな、と言った。

 その鎖はわずかな光を反射してちらちらと光った。あまりにも細くて簡単に引きちぎれそうなものだったが、プレトはその感想を当然予想していたかのように続けた。

「お前の恩人のコードへの造詣には目を見張るが、もう十分だ。お前が解きに来い。そう設定されている」

「は?」

「他に知りたいことがあるならこいつの同居人の方が詳しい。心配するな、俺は不良品を引き上げたいだけだよ。見返りが要るなら検討してもいい」

「いやちょっと。何の話だ」

 ヴィダは眉間の皺を解かないまま、ちらとフリッガを見た。

 そのとき不意に雨がばちばちと叩きつける強さの音になり、並んだブラインドの隙間から割り込んだ強い光が視界を奪った。それから大きな音。雷だ。


 一瞬、窓の外にヴィダの注意が向き、その間にプレトは消えた。

 ヴィダは立てていた片膝を下ろすと、はあ、と肩で大きなため息をつき、うなだれた。

「なんなんだよ……」


 強い雨音だけが残っている。

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