3 黎明、その前


 フリッガはその場所を思い出そうとしたが、どうしても無理だった。

 仕方のないことだ。もともと知らないところなのだから。


 水の膜のような、透明度の高いガラスが一面に張られた屋内にいた。ユーレにこんなに歪みのないものは少ないが、ドロッセルやスペクトで少しは見慣れるようになった。けれどもここのガラスはそれをはるかに上回る。それだけ一枚が広い。

 周囲を見回す。彼女が今いるのはどうやら廊下であるらしい。窓と反対側の壁にはいくつか扉が並んでいた。それでもこの空間の広さも相当で、かなり先の方にしか曲がり角は見えなかった。

 屋内であるにも拘らず、グライト、今はもう懐かしいくらいに離れてしまったユーレの首都の、その路地と同じかそれよりもっと幅がある。天井も高かった。

 壁も床も青白く、さらりと冷たい大きなタイルで覆われている。ユーレの砂色でざらついたレンガとも、アドラの黒い金属のようなものとも違う。

 空気は暑くもなく寒くもなく、気持ちのいいくらいに調整されているようだ。

 ガラスの向こうには青い海と空とが広がっているが、風の音も波の音も響いてこない。耳を澄ましても空調の音も聞こえなかった。

 ここは無音だ。あまりにも静かでフリッガは、もしかして耳が働いていないのかもしれない、と思った。


 すれ違う人がいる。皆、薄い色の上着を思い思いに腕を捲ったり裾をひらめかせたりして行き来しているけれども、誰もフリッガに目を留めることはなかった。無視されているというより見えていないようだ。ここでフリッガの衣装はあまりに異質だから、見えているならもっと振り返られてもいいはずだからだ。

 ここは、どこだろう。


 薄い青に染まった開放的な廊下を、フリッガはいつもの濃い赤と黒の衣装でひとりで歩いていく。道中羽織っていたケープはない。荷物もない。

 歩きながら外を見る。海岸線は穏やかだ。打ち寄せる波が砂浜に模様を描いてはかき消していった。

 白銀の壁とガラスで固められたここがなんなのか分からない。医療施設かとも思ったが、彼女が知っている病院は数年前に彼女が負傷させたヴィダを見舞ったところだけで、やや古くなってしまって清潔感も限界があったその施設を思い出すと、それに比べてここはあまりに神経質すぎる、というよりも無機的に過ぎるように感じた。


 少し早足で脇をすり抜けていった眼鏡の青年は、すれ違うのはもう何人目か忘れてしまったけれど、フリッガはそれに不意に既視感を覚えて振り返った。

 彼は白衣を翻し、外の様子に気を配ることはおろか、すれ違う人の挨拶にろくに返事さえせずにすたすたと歩いていった。

 焦茶の混じる黒い髪をしている。後ろ姿はよく見る背中に似ている。ただ見慣れたそれよりは少し小さく、頼りないような——そう思った瞬間後ろから若い女性の声がした。


 そこにいた女性は、肌だけでなく長い髪もまた色素が抜け落ちてしまったような白で、薄紫の目を持っていた。顔立ちは十七、八程度で大人に差し掛かるくらいなのに、その表情はあどけない少女そのものだ。彼女もまたフリッガには目もくれず、前へ走っていった。

 少女の横顔は、どこかで馴染みのある顔だ。彼女の持つ紫の瞳はキャリアの証。

 彼女は人懐こい子犬のように青年に走り寄った。振り向いて待っていた青年に追いつくと、少女は満面の笑みで腕を絡め、彼にそのままついていった。


 少女の声の残響だけが残った。しかしそれは果たして本当に聞こえたのだろうか、それとも聞こえた気がしただけなのだろうか。またも無音が辺りを包み、それすら曖昧になってしまった。

 フリッガの目の先で少女は青年にしきりに話しかけているようだが、その声も、彼らや周囲の足音も、もう聞こえなかった。


 ふたりが姿を消した部屋の前まで行くと、その扉の表示にフリッガは目を細めた。

 文字は読めないが、立ち入りを制限されている場所のようだ。横一文字に走る溝に青年は何かカードを通してそこを開けた。鍵かもしれないが、見たことのないものだ。

 その溝を人差し指でなぞる。もちろん開かない。ため息をついて冷たい扉に手のひらを置こうとすると、ちりと静電気が走って彼女は手を離し、目を伏せた。


 少女は青年を「バド」と呼んだ。

 フリッガはその名を持つ人間を知っている。会ったことはないけれども、昨晩母の話をしてくれたそあらから聞いた。

 そこにいた青年の顔は彼女がよく知っているものに酷く似ていた。違うところといえば髪に混じった焦茶と眼鏡、それから頬に傷のないこと。

 そしてその名前を口にした少女のことも考える。よく鏡で見る顔に似ているような気が、少しだけした。


 そこで、目が覚めた。



 起きてしばらくしても、フリッガはその夢のことを忘れられなかった。だから彼女は食堂へ行くと、居合わせた翠嵐たちといい加減に朝食を済ませ、彼らが出ていくのを見送ってから、ドロッセルにもあった映像装置をなんとなしに眺め時間を潰した。

 起きたときにヴィダはいなかったから部屋にいてもよかったのだが、それはまるで彼が戻るのを待ち構えているようでなんとなく気が引けた。昨日彼の両親の話を聞いたあと、もしかして彼は自分を避けているかもしれない、と思ったから。


 だがそれは取り越し苦労で、棒状に丸めた紙をご機嫌に振りながら食堂に入ってきた彼は、能天気に朝の挨拶をするとその紙をフリッガに投げて寄越し、手ぶらで部屋の隅まで行ってカップをふたつ携えて戻ってきた。

 それから彼はフリッガの前の椅子を引き、彼女の前にある水が半分入ったグラスを眺め、めしは? と聞いた。食べたよ、とフリッガが答えると、彼は少しけ反るようにしてから、ずいと顔を寄せて囁いた。

「珍しい味と食感じゃなかった?」

「あ? え? ああ……なんていうか、美味しくなかった」

 ヴィダは、なんだよ、と肩を落として再び背もたれに体を預けた。

「せっかく遠回しに言ったのに」

「いや、食べないわけじゃないけどさ。なんかもそもそしてたし野菜が古くて」

「俺も早々に見切りつけて外でちょい値が張るとこ選んで食ってきたけど、そんでも多少ましってくらいでイマイチには変わりなかったよ。物流速度はうちと大差なさそうだ」

 こんだけ通信が進んでんのによく分かんないなと呟きながらヴィダは、フリッガに渡した紙を寄越すよう手招きして受け取り、グラスとカップを端に寄せてふたりの間に広げた。どうやら主要な物流網を示した地図のようだった。

 フリッガは眉を顰めて彼を見た。ヴィダは違う違う、と手を振った。

「新鮮な食材を取り寄せたいわけじゃない。それはお宅の移動式家庭菜園に頼む」

「じゃあ何」

「じゃあ、ってあなたね。この先も行きたいところがあるでしょうが」

「そういえばそっか」


 ヴィダは大きなため息をつき、そんで、と呟くと図面に目を落とした。

 紙の端から出てきた幅広の道がドロッセルを通りスペクトに至る。図面の中心が今いるスペクト。さらに進むとナハティガルがあり、その先はまた紙の端を超えてしまうが、ふたりの目的地はそこだ。

 道は全体にあまり整備されているとは言えず、行き止まりが多かったり無闇に迂回していたりした。もちろんそれは実際には、山を避けたりなんだりの地形の影響を受けたものではあるのだろうが、ヴィダはそれも折り込んで、この図面を出すにあたりゼーレにはとにかく「鮮度の高いものを運ぶのによく使われる道」を洗い出してほしい、と頼んだ。それが速さという意味では一番効率のいいルートのはずだからだ。


 そうしてこの先の経路を確認している間も、この部屋には誰も来なかった。フリッガは、もしかしたら燦が宿全体を貸し切れるところを探してこんな寂れたところを紹介したのかもと思ったが、真相は不明である。

 ヴィダが持ってきたカップの中身は、本来なら焙煎した豆を挽いて出さなければならないはずが、これはどうやら水に溶ける粉状のものであるらしい。便利ではあるのだろうが苦みばかりが強かった。ユーレではあまり一般的でないそれを、これまで何度か口にする機会のあるたび常識的な量の砂糖だけで済ましてきたヴィダも、今日はテーブルに置かれていた残りわずかな砂糖を早い者勝ちと言わんばかりに使い切る勢いで混ぜたので、その結果フリッガは自分の分をほぼストレートで飲まざるを得なくなった。


 あらかたの確認を終えて手持ち無沙汰になってしまうと、彼女は仕方なく水と交互に頑張るつもりでグラスを引き寄せカップと並べながら、あのさあ、と切り出した。

「今朝ねえ。変な夢見たんだけどまだ覚えてるから、聞いてくれる」

 ヴィダはじゃりじゃりいう砂糖を溶かすのにカップの中をずっとかき混ぜながらフリッガの話を聞いていたが、聞き終えた時点でもまだ砂糖は残っていたので、ため息をついてスプーンを取り出しカップの中身をあおった。

 空になったカップをテーブルにことんと置いて、それで、と彼は言った。

「それが俺だって?」

「と、思ったんだけど」

 やっぱ違うよねえ、とフリッガは目の前の黒く短い前髪を指差した。

「背もちょっと向こうのほうが低かったし、頭の色も微妙に違う」

 ヴィダは興味なさげな顔で聞いている。フリッガは落胆したようにため息をついた。

「だからなんか違うと思ったんだよ、あんな場所全然覚えもないし。なんで出てきたのかもさっぱり。今までこういうのなかったから、気味が悪くて聞いて欲しかったんだけど、なんかごめんね、変な話した。忘れて」

 彼女はもう一度ため息を落としてからテーブルに頬をつけ、グラスの中で揺れる水を眺めて目を閉じた。

 がさがさと音がするのは図面を畳んだのだろう。その姿勢のまま上目で様子を窺うと、見えたのは彼の指先だけだった。


「お前、夢に色なんかついてんのな」

「うん? 何、いきなり」

 フリッガが顔を上げると、畳んだ図面を端に寄せたヴィダは代わりに、それぞれのカップを自分の前に並べながら答えた。

「俺は夢は白黒だけどね……いや、正確じゃないな。色付きだと思ったことがない」

「へぇ」

 彼は空になって砂糖だけが残った自分のカップに、フリッガのカップの中身を三分の一だけ移し、これノルマな、と彼女にその注ぎ足された方を差し出した。砂糖の入っていないフリッガのカップの残りは彼が自分でどうにかするつもりらしい。

「夢が色付きだって気がついたら幸せになれるらしいよ」

「ふうん」

「だからこっちは俺が飲みきって進ぜよう」

「もともとお前が持ってきたのが悪いんじゃん。何いいことした顔してんの」

「違うね。これは『小さな幸せ』だ。目を背けるな。現実を見ろ」

 フリッガは渋い顔をして差し出されたものを一気飲みし、それからグラスの水も飲み干してから立ち上がった。

 行き先を尋ねたヴィダに、ちょっと散歩とだけ答えると、彼女は部屋を出る扉に手をかけたところで思い出したように口を開いた。

「あ、そうだ。他にも、あっこれ別人だなって思ったのがあるんだよ」

「何」

 スプーンをつまみ上げたヴィダは、手はそのまま顔を上げた。

「その人見るからにめちゃくちゃ頭切れそうだった」

「そういうことは思っても黙ってなさいね……」

 返事とも独り言ともつかない言葉を呟き、カップの中身を再び混ぜ始めた彼に、フリッガは笑いながら謝って外に出ると、閉じた扉の前で俯いた。


 あの青年はプレトに似ていた——というより、そのものだ。そして「バド」は、かつてキャリア=ノイを開発したというアルブレト博士のことだったはずだ。

 しかしあの少女、フリッガが自分に似ていると感じた少女のことは、彼女には何ひとつ分からない。


 フリッガには整理のつかないことばかりだった。自分の夢の中にアルブレト博士が出てくる理由も、その顔がプレトとあまりに良く似ていることも、彼と少女との関係も、そして少女と自分との関係も、全てが分からなかった。

 振り払うように頭を振ると大きなため息をついてから、彼女は顔を上げて外へ走っていった。



「クソ、気分悪ィ」

「機嫌悪いの間違いじゃないの……」

「うるせえな」

 いつもなら躍起になって反論するうーも、今日はそれ以上口を開くことはなかった。


 燦との面会を終え、翠嵐がフリッガたちと合流して一晩。ヴィダを捕まえ損ねたので食堂での朝食を適当に済ませた翠嵐は、フリッガを置いて、ちょっと、と席を立った。それについてくる必要性はうーにはどこにもなかったのだが、彼にとってこの街は未知の領域だ。探検したくないはずがない。


 しかし今彼は、ひとりで出てくればよかったと心底後悔していた。ひとりとなるとそれはそれで不安だったり戸惑ったりすることもあったのだろうが、それでもこの重苦しい雰囲気よりはましだと考え、彼は翠嵐の顔を上目遣いで窺った。

「こんな淀んだ空気吸いたくねえな」

 翠嵐は忌々しげに吐いて、狭い空を見上げた。そうして彼の注意が上に向いたのをチャンスとばかりにうーは「オレ先にみんなのとこ戻ってるね」と投げるように言って、彼のそばを離れた。


 そのまま走って三つ目の角でフリッガとぶつかった彼は、途端明るい表情になった。

 フリッガは少年に何があったのか詳しいことは分からないが、隠れるようにして後ろに回った彼を振り返って苦笑した。

「ひとり? 翠嵐は?」

 あっちにいるけど、と答えてから手ぶりでしゃがむようせがむと、うーはフリッガの耳元で先を続けた。

「今物凄く機嫌悪いんだよね」

「機嫌? そんなの珍しくないけど」

「そうだけど、今日のは特別すごい。しばらく寄らない方がいいよ。とばっちり食いそう」

「なんでそんなに怒ってんの。そりゃご飯は美味しくなかったけど」


 うーは唇を噛み締めて頭を振った。そういうことではないのだ、うまく説明できないけれど、と。

 こういう時深追いしても彼は答えない。答えられもしないのだ。翠嵐が何かにいらついていることはフリッガにも薄々感じられてもいた。ただその理由は分からない。

 彼は最近、というよりメーヴェに入って以降以前にも増して、己の主に自身を探らせない。

 だから彼女は詮索をやめ、ただうーの不安を取り払うために——という言い訳の下に自分の口直しという目的を隠して——周囲を見回し、手近な店を見つけて指差した。

「せっかく外に出てきたし、おやつにする?」

「でもさっき朝ご飯食べたよ」

「残したくせに」

「だってあんまり美味しく……ごめんなさい」

 まあ美味しくなかったよねえと笑った彼女を見上げ、その指の先を追ったガラス窓の奥に並ぶきらきらしたデザートに目を輝かせてから、少年はこくこくと頷いた。

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