2 夜と闇

 それは、これまでのウェバの話からフリッガが想像していた彼女の像とはあまりに違うものだった。そあらは続けた。


「とにかく、とても冷静で、そして慎重だと感じていました、最初は。けれども——そうですね、近所に子どもが生まれて、当時の私のマスターがその名付けを頼まれて。そのご夫婦が子どもを見せに来て……あなたのことですよ」

 そあらは、他人事のような顔をして聞いていたヴィダを指差した。

「えっ? 俺?」

「ええ。あの国では珍しい色の髪と目のあなたは、生まれたころは、いつまで生き延びるか分からないと言われていた。だからこそあなたのご両親はサプレマに、力を持つ名を授けて欲しいと頼みにきた。そしてあなたは立派に、ご両親の心配を裏切った。あなたが寝返りを打った、立った、歩くようになった、そういう話をあなたのご両親は会うたび報告してくださいました。マスターはそれを妻である彼女に嬉しそうに話して。彼女はピンときていなかったようだけれど、今考えればそれはキャリア=ノイとして作られた彼女自身が、子ども時代を経験していなかったからなのかもしれませんね」

 不意に言葉を切り、そあらはため息をついた。

「少し話が逸れました。とにかくそうして、彼女は人の子が生まれ、愛されながら育っていくのを目の当たりにした。そして彼女自身も子をなしました。今の私のマスターです。でも彼女はその子に触れようとしなかった」

 フリッガは目を伏せた。そあらは、違いますよ、と頭を振った。

「おそらく今マスターが考えたのとは、違う理由でです。厳密に言えば一度だけ、彼女は自分の子に指を握らせたことがある。意図的なものではなかったのでしょう、とても驚いた様子でした。その直後の彼女の顔は、決して嫌悪をたたえたものではありませんでした。本当に一瞬でしたがそれは」

「嬉しそうだった?」

「いえ。途方にくれたような、そんな顔でした。あまり表情の変わらない人でしたから、とてもよく覚えています」


 フリッガはため息をついた。ウェバはきっと自分を産んだことを後悔したのだ。

 主のそんな、がっかりした顔を横目にそあらは続けた。

「ウェバはその後間もなく、ユーレを出奔しました。その後のことは先日、熾がお話ししたとおりです。彼女はユーレにある間、彼女と盟を結んだノヴァを外に出そうとせず、努めて普通の人間のように振舞っていました。目の色が特別でしたので隠し通すつもりはなかったのでしょうけれど、私にはその意図はよく分かりません。ただとにかく、私が知るようになってからの彼女は、その夫を通じて人の世の理を貪欲に吸収し、そしてそれが進むにつれてだんだんと不安定になっていきました。最初の彼女に比べたら、信じられないくらいに。そしてある日彼女はノヴァを伴って、夫と娘のもとを去った」

 私にお話しできるのはこれくらいです、と締めて、そあらは両手のひらを見せた。

「彼女がどういう目的で子をなし、どういう目的であの国を出て、どういう目的で今のような立場にあるのか、私には全く分かりません。ただ推測を述べさせていただくならば、彼女がその数年間を自分の汚点と考えているのなら、彼女はそもそもそんな歴史は選ばなかったはずです。時を渡るゴーストと結んだ、歴史のやり直しができる彼女には、望ましくない未来を選ばないという選択肢がある。だから少なくとも彼女は、マスター。あなたを産んだことを後悔はしていませんよ。あなたのお父上と夫婦の契りを結んだことも。全て彼女が選んだことです」


 フリッガは呆気に取られた顔でそあらを見ているだけだ。ヴィダが小突くと彼女は開いたままだった口を閉じて居住まいを正し、それで、と先を促した。

「それで、結局、目的は分からない?」

「ええ、あるのかどうかも不明です。分かるのは、今彼女がしようとしていることがアドラの火竜たちや、おそらく大多数の国民の意にも沿わないものであること。彼女は他国の反対を尻目に、ユーレに挙兵しようとしている。そしてそれが終わったら、次はどうするのでしょうね」


 そあらの眼差しは、これまでのいつよりも挑戦的だった。

 フリッガはこの部屋に入る前にそあらが言った言葉を思い出し、思わず身震いした。そう。全て知っているなど、勘違いに過ぎないのだ。


 部屋を辞したフリッガたちに燦に手配してくれた宿は、大通りを下って脇道に入ったところにあった。

 用があるからと燦の元に残ったそあらを置いて、翠嵐との待ち合わせ場所(やはり食事ができるところ)へ向かう道、ヴィダは今までいたその建物を振り返った。祖国にそんな高い建物はなかったが、その後ろにはさらに高い別棟が見下ろすようにそびえ立つ。出口まで案内してくれた職員によれば、議会棟と呼ばれるそちらの高層階は市の管理ではなく、国家機関が入っているのだという。

「なんかすっきりしない話だったな」

 ヴィダが呟くと、フリッガは下を向いたまま、答えなかった。

 市庁舎の向こう。ひときわ高い議会棟がふたりを牽制するように影を落とし、見下ろしている。



 夜の星だけが照らす薄暗い一室には、燦の部屋と同じく柱がなかった。

 窓の外に街の明かりは見えない。それだけこの部屋が高いところにあるからだ。照明設備は、あるのに使われていないようだった。

 金属質の壁とガラスが支配する、極度にものの少ない部屋。


「挨拶もなし? 相変わらず愛想が悪いのね」

 窓にほど近い場所に置かれた丸テーブルに頬杖をつき、白い髪の女性はそう言いながら緩やかに笑った。作りもののように鮮やかな赤紫の瞳をしている。

 彼女はテーブルの向かい、少し離して置かれた椅子に足を組んで掛けているプレトにそう言い、肩をすくめた。彼の半身だけを、外からの光が照らしている。

「今はどうなの?」

 プレトは腕を上げた。さらさらと細い鎖の擦れ合う音がする。それを振ってみせてから彼は答えた。

「会いたければ自分で行け。今ならその辺にいるし、なによりお前の『作品』も揃っている」

 その言葉を聞き、ウェバは声を上げて笑った。

「あなたのことだから、遺伝子情報なんて好きで渡したわけじゃないのでしょ。せっかく提供を受けたのに、残念ながら在りし日のこの国は、あなたの子を天才にはできなかった。だから全て無駄にされる前に有効活用しただけよ。随分長い時間がかかってしまったし、中身はまだ見ているところだけれど。少なくとも見た目はいい出来でしょう?」

 ウェバは頬杖をついた手の、その白い人差し指でとんとん、と頰を叩いた。

「本当はあの国は、用が済んだら口封じを兼ねて、あなたの脳のサンプルをとるつもりだったみたいよ。あなたの脳が切り刻まれて標本にされるのを防いだのは私。あなたの遺体が冒涜を受けずに済んだこと、感謝してもらってもいいと思うわ」

 返事を待つように笑ってみせた彼女に、プレトはわずかに眉間に皺を寄せてから、ぶっきらぼうに用を問うた。


 ウェバはため息をついた。

「あなたの出方によっては、私も賢君を演じてもいいと思っているのだけど」

「賢君か。結構だな」

「信じないわね。でも、それが正しいかもしれないわ。あなたは誰よりも、そうね。私よりも、私のことには詳しいはずだし」

 視線を落とすと、ウェバは再び顔を前に向けた。

「その拘束、よくできているでしょう。然るべき時が来るまで、あなたは自由には動けない。あなたに好き勝手暴れられると私も困るのよ。だから、ちょうどよかった」

 ウェバが立ち上がる。椅子の脚が床に敷かれた薄い絨毯に擦れる音がした。

「あの子が継いだ体質はテルトじゃなくて私の方よ。あの子の年は、そろそろキャリア=ノイにあなたが設定した耐用年数を超える。そうだったわね? いえ、もう超えてるかしら。治癒力が落ちているのは意図した挙動?」

 プレトは返事をしなかった。

「ノヴァがいれば、いつまででも生き延びさせられる。今を永遠に繰り返せるからよ。あの子を足がかりにしているあなたにとっても悪い話じゃないでしょう。私だって色々思うこともあるし。このままあなたがあの子と心中するのも悪くはないけどね」

「推測の前提を欠いたままの話を聞くほど物好きじゃない」

「ほらまたそんな言い方をする。あなたの悪い癖よ。私はあなたと話がしたいの、バド」

 プレトはかぶりを振った。ウェバが瞬きをするうちに、彼は消えた。



「まだ起きていらっしゃったのですか」

 部屋に入ってきたそあらの声に、フリッガは顔を上げた。


 彼らに燦が用意してくれた宿は、街の入り口にほど近い目立たぬ路地裏にある。随分簡素な作りだし、割り振られた部屋にはベッドと最低限の家具があるだけで、食事などは今フリッガたちがいるこの部屋を食堂として共用で済ます方針であるらしい。

 賓客に紹介するにしてはあまりに庶民的な部屋だったが、フリッガはそれを別に悪くは思わなかった。たぶん理由があるのだろう、と思ったくらいで。


 食堂には、今は他の客のいる様子はなかった。もちろん借り切っているわけではない。寂れているだけだ。

 個別にあてがわれた部屋にいてもよかったのだが、なんとなくヴィダと一緒にいるのは気が引けたし(それは昼間そあらから、彼の両親についての話が出てきたことと無関係ではなかった)、何より彼のいない場で確かめたいこともあったので、フリッガは居場所を求めてここに来たのだった。

 規則的な空調の音と、時折排水管を水が流れ落ちていく音だけが聞こえるこの部屋は、何も考えないでいるのにちょうどよかった。そあらに声をかけられるまでずっと下を向いていたから、にわかに顔をあげると首が痛んだ。背伸びをすると、椅子がぎしりと音を立てた。

「なんか眠くならなくてさ……って、大丈夫かなこの椅子。壊れたりして」

 背もたれに手を置き後ろを振り返ったフリッガに、そあらは「大丈夫でしょう」と答えながら向かいに座った。彼女の椅子もやはり音を立てた。フリッガは肩をすくめて早速口を開いた。

「燦なんだけど」

「ええ、生物学的に言うなら兄にあたります。随分前のことですが」

「見えないね。あっちの方が小さいし」

「ですが、うーはあれでも私や翠嵐よりも長生きのはずですよ。彼の方が燦より更に幼いでしょう……というか」

 人の形すらとっていないことも多いけれど、と、そあらは目を細めて笑った。

「そうなんだっけ。本人、よく分かってないみたいだけど」

 らしくないねと苦笑するフリッガに、そあらは微笑んだまま答えた。

「見た目ほどあてにならないものもありませんよ。特に私たちの場合は」

 ところで、とそあらは話を変えた。

「その顔、眠くないようには見えませんが」

「やっぱり?」


 ええ、と答えるそあらの前でフリッガは欠伸を噛み殺し、ええとね、と切り出した。

「お母さん……ああ、うん、いや。あの、熾とか燦とかに、ああいうふうに言われた手前、馴れ馴れしくお母さんって呼ぶのも悪いかな……どう言っていいか分からないんだけど」

「そのままで結構ですよ。マスターのお母上であることは事実です」

「そっか。じゃあお母さんの話なんだけど。前ね。母親に訊け、って言われたんだよね、プレトに。なんでそんなに顔似てんのって聞いたら」

「そんなことがあったのですか」

 フリッガはやや上目遣いでそあらを見た。

「知らなかった?」

「それは私がメーヴェで夜通しの警備のお手伝いをしていたときのことではありませんか」

「そうかも、じゃあ知らないか。そう言われたんだよ。あと、なんか手首に鎖が巻いてあったから、何それって聞いたら、お前の親はよく勉強している、って」


 そあらは驚いた顔をしている。フリッガは彼女のそんな顔をほとんど見たことがなかった。

 今日だけで、そあらの知らなかったところをいくつも知ったようで、フリッガは少し自分が成長したような気がし、にわかに饒舌になった。

「似てるの素直に気が引けるというか、嫌だなとは思ってたんだけどさ。声違ったし、それで、ああ別人かと思ってちょっと勇気出て。とは言ってもそんなにたくさん話してはいないんだけど」

「意思疎通を図った、というだけでかなりの驚きです。この十五年、一度も考えなかったことでしょう」

「うん。まあこれだってもともとは、向こうから接触してきたんだけど……ああ、で、その鎖の話なんだけどさ。あれなんなの。勉強しているって何?」

 そあらは首をひねり、少し沈黙してからゆっくりと口を開いた。


 竜と接触することができるのは、必ずしもキャリアだけではない。キャリアが開発される以前、竜が「ジオエレメンツ」という整理を与えられるよりもっと前のオカルト的な存在であったころ、人間は一時的に竜を呼び出すことでその力を利用するのが一般的だった。

 その時道具として使われる、特殊な素材に印刷された図形と難解な言語がある。その言葉は使い方によっては、ただの人間でも竜に何がしかの指示命令、場合によっては制約をも加えることもできるものだ。しかし相手たる竜の容量が大きければ、またその反抗を抑圧しようとするならば、その言葉の使用は命に関わるリスクを孕む。しかもあまりの難解さゆえに、その言葉は今ではごく一部の聖職者や研究者が細々と伝えているだけだ。

「その言葉は『コード』と呼ばれていました。マスターにもお教えしてきたものです」

「あれか。でもあれでそんな器用なことできる?」

「かなりの習熟と覚悟を要しますが不可能ではないでしょう。ただ先ほど、『向こうから接触してきた』と仰いましたね。そうであればその拘束の精度はさほど高くない」

「誰の仕業だと思う?」

「親、と言われたのでしたね」

 フリッガは無言で頷いた。


 もし熾が言うように、フリッガがウェバの用意した罠だというなら、その拘束も彼女が仕掛けたものだろう。しかし今日フリッガがそあらから聞いたウェバの話は、熾が推測してみせたウェバの像とはあまりに違っていた。

 でも、フリッガはその先を考えようとはしない。それはそあらにもわかった。今生き生きとして真剣な彼女の目はきっと、それが彼女の父親の手によるものだとの推測を述べた瞬間、情けなく揺らいで伏せられるに決まっている。


 フリッガは、それが自分の父の手によるものであるとの結論を、それに至ることを恐れている。

 彼女の中で父親は理想、あるべき姿であると同時に彼女自身と不可分の存在であり、そうであるがゆえに不可侵であり、絶対の理解者であった。

 父親が自分に、わけの分からない罠など仕掛けるはずがない。そんなことはあってはならないのだ。絶対に。


 だから彼女がそあらに求めている返事が何なのかは、明らかだ。その答えを引き出し、口に出してもらい、そして、安心したいだけだ。

 そあらはフリッガの、青紫の目をじっと見つめた。彼女の父親と同じ色の目だ。そこにかつての主が娘に残したものを見る気がして、そあらはため息をつくと話を変えた。

「お母上の話を、もう少ししましょうか」

 フリッガは少し考えてから、小さな声で、うん、と答えた。

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