1 淀み、総ての集う場所

 スペクトは周囲に壁を張り巡らせた都市だ。首都というだけあってその警備は、人・モノ・カネの行き来を促進することで成り立っていたドロッセルの比ではない。

 人の背丈の四、五倍はゆうにあろうかという高さのその壁を、フリッガは外側に沿って歩きながら、足元からなぞるように見上げていった。


 建材はドロッセルと似て見えるものだが、天気のせいか、はたまたさらに冷え込んできた気温のせいか、もっと黒く冷たく見える。石や木とは違うけれども、金属なのかどうかも分からない。

 ぺたりと手をつくと、それは思ったよりもざらざらしていた。なんとなくあの、十五年前に一度だけ触れた鋼の鱗のような感触を想像していたから、フリッガはその感触が意外で、立ち止まると離した手のひらを見つめた。

 少し前のほうから「何してんの」と言われて、彼女は慌てて手を下ろすと小走りで隣まで進んだ。


 入市ゲートは正円に近い形のこの街で、ほぼ直径上にふたつある。そのうちの目指すほう、薄曇りの空の下、黒く高い壁の中にぽかりと空いたその穴は、近づいていくとそばにはちょっとした建物があって、制服の役人が列なす人と荷を確かめているのが見えた。

 フリッガは少し歩を緩め、荷物の中から、熾から受け取った通行証を取り出した。

 ドロッセルを発つ直前に使者が届けにきたそこに書かれた名前はふたりの本名だった。証明書偽造をスペクトに咎められたくないというのももちろんだろうが、それ以上に熾が、フリッガたちに身分を偽ることを勧めないという意思も明らか。空欄なく埋められた個人特定事項は生年月日も正しかった。伝えた覚えもないのだが。


 ふたつに折られたそれの内側には、まだ何も記入されていない通過記録欄の枠を無視した走り書きで、熾の手ずからの一筆と、それとはかなり雰囲気の違う、やや震えた線ではありながらも威厳のある字で署名が添えられている。熾の主たるラケシス家当主のものだ。

 フリッガはその字面に目を落としてから通行証を閉じ、預かっていたヴィダの分は本人に手渡した。ほかの同行者の分はない。人間ではないから用意のしようもないのだろうが、そうであれば人の姿でゲートを通過するのは難しいだろう。だから、そあらたちには中で合流するよう言っている。足元のネコだけはお目こぼしが期待できるので、そのままついてきた。


 検問の列はそんなに長くなく、担当者も手際がよくて、ふたりの順はすぐに来た。

 それぞれ通行証を確認してもらいながら担当者や奥の建物の方をちらちら見ていたが、ざわついた様子は特にない。ほかの者と同じく通行証に乱暴にチェックを受けると、すんなりゲートを示された。熾が段取りをつけてくれたのかもしれない、とフリッガは思った。

 もっとも、問題なく進んだのはゲートをくぐるまでだった。


 市街地に足を踏み入れる。行き交う人は多いものの、皆それぞれに目的地に向かって歩いていくだけで、立ち止まっている人はほとんどいない。その間を縫うように数歩進んだところで、するりと後ろに影が落ちた。フリッガは思わず振り返り、それから安堵のため息をついた。

「なんだ。そあらか」

「私だけでもありませんよ」

 そあらは、すいと手を伸ばし先を指差した。フリッガは前を向き直り、そこに見たものに瞬きをしてから同行者を肘で小突いた。

 ヴィダは肩をすくめてみせた。道中の会話から察するに、彼はどうやらフリッガほどには熾に期待していないようだったが、そちらが正解だったということだ。彼は言葉こそなかったものの、ほらな、と言わんばかりの顔をしていた。


 フリッガは改めて周囲を見渡した。前だけでなく両脇も固められている。要するに、包囲されている。

 ゲート手前で検問をしていた者とよく似た制服を身につけた彼らは、制服の文字を見るに市直轄の警備隊で、両手の指に少し足りないくらいの人数だった。

 周囲では通行人が歩みを緩めながら、または完全に立ち止まって様子を窺っていた。わざわざこっちに向かってくる者もある。どこにでも野次馬はいるものだ。


 三人(と一匹)を取り囲む警備隊の中に、ひとりだけ腕章をつけた者がある。このグループのまとめ役は彼なのだろう。咄嗟にその武装を確認すると目立ったものは手にしていない。切りぬけようと思えば無理でもなさそうだ。

 フリッガが方針を尋ねると、ヴィダはかなり気の抜けた声で応えた。

「そうだなあ」

 周囲を見る。メーヴェのときよりも見物客は多いが、遠い。その意味では巻き添えの危険は小さいけれども、首都というだけあって大きな街だ。ゲートもすぐに閉ざせる。ここでことを荒立てれば逃げ延びるのはまず難しいだろう。大人しく機を見るほうが得策だ、と彼は考えた。

「とりあえず降参するかあ……」


 そのまま緊張感のない声で呟き、ヴィダは早々と両手を上げた。不服げな顔で振り向いたフリッガに、そあらも頭を振ると手を上げてみせた。下を見るとネコと目が合った。尻尾を高く掲げて彼は、にやあんと鳴いた。

 自分以外の全員がそうして投降してしまったのでフリッガもしぶしぶ従った。腕章の男が小さく礼をした。ある程度丁重な扱いをするつもりがあるようだ。ふたりが手を下ろすと、そあらが前に進み出た。

「任意の聴取ならば応じましょう。無理に連れていくというのであれば我々にも矜持があります」

「もちろん任意のものです。ご同行願えますか」

 腕章の男は見た目よりもずっと若い声で答え、左右の部下に指示をした。それに従い間を詰めてきた者たちの顔に、特段敵対的な様子は見えない。

 ドロッセルで市庁舎を訪ねたときに映像を撮りに来た連中のほうがまだぎらぎらした顔をしていたように思う。フリッガは首をひねりながらネコを抱え上げると、警備隊が壁のように周囲を固め移動を始めるのに従った。


 フリッガは周りを見回してみたが、人の壁が邪魔になって、上は見えても目の高さの街の様子を窺うことはできなかった。それは外から三人を確認するのも難しい、ということだ。すぐ先の上のほうに通りの名前と、方向を示した標識がある。この先はスペクトの市庁舎であるらしい。

 隣に目配せをする。背丈のあるヴィダは少し頭が出るので、警備隊の壁の向こうも見えるようだった。自分を見ている視線に気づいた彼は、フリッガに向かって頭を振って見せた。別に何も、という返事だ。

 それから彼は少し目を細めて、後ろをついてきていたそあらに視線だけを向けた。フリッガが振り返ると、そあらは両手を上げてから前を指差した。こちらを見るな、そのままついていけ、というように。


 フリッガはふたりの顔を交互に見たが、ヴィダはそあらと顔を合わせようとはしない。そこに何か意が通じているのかどうかも分からなかったので、フリッガは再び首をひねってから前に顔を戻した。

 これでは、連行というよりも護衛だ。何か変だな、という程度のことはフリッガにも感じられたものの、彼女はそれ以上は考えようとは思わなかった。これまであまり表に出てこなかったそあらがさっき、頼みもしないのに警備隊との交渉に立ったのは気になっていたけれども、それがなぜか、そしてどうなるのか、考えるのは少し怖かった。

 フリッガには知らないことが多すぎるのだ。そのことだけは、自分でもちゃんと把握できている。


 そのまま大きな建物の裏口まで案内されると、呼び鈴も鳴らしていないのに扉が開き、中から女性と男性が出てきた。

 いかにも事務方といった風情のふたりは、扉を閉める男性を残し、女性が三人を中に案内した。要人とまではいかないが、少なくとも普通の市民よりは丁重な扱いだ。もう護衛もいない。

 女性はいつも案内を業務としているのだろうか、たたずまい、身のこなし、いずれもこざっぱりとして好感が持てた。

 彼女は客人が攻撃してきたり、逃走を図ったりするなどとは全く思っていないようだ。これまで少しは警戒をしていたフリッガも、ここまで関係者めいた扱いを受けるといよいよ自分の立場がよく分からなくなって、それまで抱いていたネコを床に下ろした。ネコは先導の女性の足元まで出ていくと、彼女の足首に頭をこすりつけ、耳の間をひと撫でしてもらってから隣を軽やかに歩き始めた。


 この建物は、先ほど見た標識を信用するなら市庁舎なのだろう。日も高い今は通常の執務時間だろうから、表玄関から入ればきっと市民が大勢手続きをしているのだろうし、上の階にはもっと違った人もいるはずだ。ドロッセルの市庁舎で熾が待っていたように。

 女性職員は廊下の一番奥でエレベータの扉を開け、三人を先に入れるとネコも入るのを確認してから自分も乗り込み、扉を閉めた。

 いよいよ密室なのだが、女性はにこやかに天気のことなどを話しかけてきて、フリッガは完全に肩透かしをくらってしまった。思わずそあらを見ると彼女は素知らぬ顔で目を閉じている。エレベータは明かりが半分程度落とされている人気ひとけのないフロアに四人を下ろした。


 女性はエレベータの前で部屋番号をそあらに伝えた。それを見ていたフリッガに女性は、右手の五つ目の扉ですよ、と微笑んだ。

 言われて見てみれば、廊下には数え切れないほどの扉が連なっている。扉には番号が付されているものの、どれも個性のない同じ扉で、目的の部屋番号は控えておかなければ間違ったところを開けてしまいそうだ。

 女性はそあらがすたすたと進み出すのを見届けると、エレベータに戻り降りていった。フリッガは慌ててそあらのうしろをついて行きながら、右手の扉を数えた。ひとつ目、ふたつ目。そあらは扉の番号すら確認している様子がない。


 ヴィダはふたりの少し後ろで、一度後方を振り返った。

 エレベータホールの左右に伸びる通路の先と、階段の表示。女性が示した廊下はかなり長いが、先は丁字路になっているようだ。連行されている最中に見えた建物の外見と、今のこの通路とを見れば、少なくともこのフロアに限っては構造はそんなに複雑でもないと見える。だからこそ今どこにいるのかが分かりにくい。あまりに同じ風景が多いからだ。

 だというのに。彼は先を行くそあらをフリッガごしに眺め、それから足元のネコに目をやって、頭を振ってから足を踏み出した。



 右手の五つ目の部屋の扉には、部屋番号の上にかぶせるように「立ち入り禁止」との掲示が下げられていて、番号は読み取れなかった。

 扉の前で立ち止まったそあらに、フリッガはその表示を指差しながら尋ねた。

「ここでいいの?」

「指定された部屋は、そうですね」

「立ち入り禁止って」

「我々以外は、ということでしょう」

 フリッガは、そうなんだ、と呟きながらその扉を眺め、不意に手を伸ばして掲示をめくると下の部屋番号を見た。なんの変哲もない部屋番号表示を確かめ、掲示をもとに戻しながら、彼女はため息をついた。

「なんか、準備がいいね」

「熾から申し送りがされていたのかもしれませんね」


 すました顔で返事をしたそあらに、フリッガは逡巡し、後ろにいたヴィダを振り返った。

 そあらのことを疑っているわけではない。疑っては、いない。けれども。

「準備がいいっていうのは、ねえさんのことだよ。じゃないの?」

 顎をしゃくってみせたヴィダは、フリッガが肩をすくめるのを確認すると、ほらな、とため息をついた。

「俺はね。アナタたちの関係がよく分からないから間違ってたら言ってほしいんだけど。コイツを陥れても姐さんには益がないんでしょ」

「そうね。私が自死でも望んでいたら別だけれど」

 思わず振り返ったフリッガにそあらは「そんなわけないでしょう」と肩をすくめた。ヴィダは一歩引いて、ネコを呼び寄せながら言った。

「だったら俺は黙ってるよ。どうぞ」

 ありがとう、とそあらは涼しげな顔で礼を述べ、フリッガを向き直った。

「私は熾を通じてではなく、この部屋で待っている者と直接連絡を取って、ここまでの段取りを進めました。マスター。あなたのお母上を私は存じ上げていますし、その方があの国を去ってから始めたこともつぶさに見ていますが、あなたはそれを知ろうとはしませんでした。私も、きっと母親の気持ちというのはこういうものなのだろうなと思いながら、二十年近く、あなたが聞きたがることだけを知らせてきましたけれど、それで間に合う時期はとうに過ぎています。ご自身でも分かっているでしょう」

 そあらの口調は静かだが、甘えを許さないものだった。フリッガは思わず後ずさり、それから少し上目遣いで頷いた。

「私たちとあなたとは極めて緊密な依存関係にありますが、それでも同じものではない。あなたは私たちの全てを知っている、などとは思わないことです。私たちには私たちのことわりがあります。それを乗り越えるために私たちは宿主を探す。けれどもあなたのお母上とノヴァは、その理を踏みにじった。私たちにとっては破戒者です。ご覧に入れましょう」

 口にされた言葉とはそぐわない、平静そのものの口調で続けながら、そあらは扉に手をかけた。



 薄曇りだった外とも、薄暗い廊下とも違う、明るい光の差し込む部屋だ。柱もない。

 壁一面のガラスから床に差し込む光に、窓の前にいる人影が黒く映りこんでいた。フリッガは熾に最初に会ったときを思い出した。


 彼女は三都を「どこも似たようなもの」と言っていた。確かに部屋の構造は似ているけれども、この部屋はおそらく熾がいた部屋よりもさらに高い場所にある。あの天気だったのにこの明るさは、きっと垂れ込めた雲を越えた高さにあるからだ。

 暗い廊下を抜けてきたフリッガにはそれは少し眩しく、彼女は眉を寄せた。人影が振り向いたのを視界の端に捉える。背丈はメーヴェで会った少年くらいだ。そして問いかける声もまた、子どものものだった。


 目が光に慣れると、少年のはねた髪が鮮やかな赤であることが分かった。そして見えてくる赤い目。

 そあらがその隣につかつかと歩み寄り、振り返ると彼を手で示した。

「ご紹介いたします。私の兄」

「兄?」

 フリッガは目を見開いて、身を乗り出すように少年を見た。

 少年の赤い髪と目は、青い髪と目のそあらとは対極に見えるし、見た目もずっと幼いけれども、その面差しは確かによく似ている。もう一度、兄、と呟いて、フリッガはそあらに目を移した。

「えっと」

「もちろん古い肉親を紹介したくてお連れしたわけではありません。彼が過去の宿主から与えられた名前は、さんといいます」

 少年は見た目に似合わない大人びた微笑を浮かべ、フリッガに向かって、初めまして、と挨拶をした。


「ウェバに接触される前にあなたがたを確保したかったから、少し手荒な方法を取らせてもらったんだけど」

「あ、いえ全然。丁重に案内していただきました。大人しくしてたからかもしれませんけど……」

「そうなの? 僕はてっきりあなたがたがちょっと暴れるだろうと思って」

 そう言いながら燦はちらりとそあらに目配せし、フリッガの後ろでヴィダが渋い顔をしているのを見て、ごめんね? といたずらっぽく笑ってみせた。


「それじゃ改めて挨拶をさせてください。僕はその、なんというのか。生前はそこの彼女の肉親だったけどそれはずいぶん古い話、今はあなたたちが竜と呼ぶところのいきもの。燦と名乗っています。立場的には熾や爛と同じで」

 熾のように市政に采配を振るう権力はないけど、と肩をすくめて燦は続けた。

「主はドラクマの長子筋、クロト家の当主。ということになってます」

「なってる?」

 聞き返したフリッガを一瞥し、燦は窓のほうへ歩を進めた。

「クロト家の直系は、公には伏せられているけど実はもう途絶えていてさ。このフロアの五つ上に当主の執務室があるけど、そこは無人。スペクトにはクロト家の血を継ぐ人間は残っていない。本来なら、だから、僕はお役御免になったらアドラを離れようかなと思っていた。妹もいるし、妹が身を寄せてるキャリア……っていうか、あなたにもまだ余裕があるかもだったから、ユーレにでも行こうかと思っていたんだよね。だけど」

「今は誰と?」

 主のない竜はこうして体を保つことはできないはずだ。フリッガが尋ねると、燦は口元に人差し指を当てた。

「最後まで」

 その口調は柔らかかったが、反論を許さない強さがあった。フリッガは思わず、すみません、と頭を下げた。

「クロト家だって馬鹿じゃないから、当主を継ぐ者をひとりしか準備しない、なんてことはしていなかった。でも今は僕と盟を結べる者は誰も残っていない。全て二、三年のうちの出来事だった。最後に死んだのが当主。スペクトとアドラの未来を案じながら逝ったよ」

 言葉は平静そのものだったが、ガラスに映った燦の表情は、その当主への慈愛と亡失の悲しみを感じさせるものだった。フリッガは続きを待った。

「僕はその最期を見届けた。彼女の用意したこの体で」

「彼女?」

「あなたのお母さん」


 振り向いた燦は、そろそろ掛けたら、とソファを示した。フリッガは勧められるまま腰を下ろし、向かいに燦が座るのを見届けてから後ろを振り返った。手招きすると、ヴィダは向かいのそあらに目配せをし、自分と彼女を交互に指差してからフリッガの隣まで進んできて腰を下ろした。代わりにそあらが扉の近くに立つ。

「クロト家の最後の当主はね。もうかなりの高齢で、僕と結んでいるのも限界が近かった。僕らがこうして体を持って活動すると、それだけでキャリアにはそれなりの負担がかかるからね。その負担を減らすために、本来しなくていい食事をとったりして自家発電に努めるわけだけど、キャリアに頼る部分が小さくなる分、キャリアとの意識の共有は薄れて、相手が何を考えているのか把握しづらくなる」

「そうなんですか」

 どこぞの暴食の被害者であるヴィダは眉を顰めたが、素直に感嘆しただけのフリッガはそれには気づきもしなかった。 

「続けるね。まあ、そんな理由で、僕は当主……僕は彼をエゼルと呼んでいたから、これからそう呼ぶけど。エゼルが僕にどうしてほしいのか、よく分からなくて。きみたちと違って、僕らは相手の気持ちを察するっていう訓練をほとんどしていないから……ただ僕は、肉親を立て続けに失って失意のどん底のエゼルに、これ以上悲しみや苦しみを背負わせたくないと思った」

「お気持ち、お察しします」

 ありがとう、と燦は微笑んだ。

「だからね、当時彼女がエゼルにした申し出をエゼルが受けて、僕にそれを頼んできたとき、僕は断りきれなかった。エゼルと最期まで一緒にいてあげるために、その終わりを看取るために、僕にはエゼルの死とは切り離された体が用意された。僕は悩んだけれど、彼女は、クロトの血が途絶えたらその体を捨ててどこへなりとも行けばいいと言った。そうして僕はエゼルの頼むとおり、エゼルとは関係のない体を得た。独自の意思を持たない、極めて扱いやすい体だ」

 フリッガが首を傾げたのを見、そあらが後ろから言葉を補った。

「従来のキャリアから収容機能だけを切り出した、容れ物のようなものです」


 フリッガは後ろを振り返った。そあらの顔には珍しく嫌悪の情が浮かんでいる。

 フリッガは背筋に冷たいものを覚え、再び前を向いた。話自体は分かったような、分からないような。ただ。

「それは、なんとなく、人間として、というか……その。うまく説明できないんですけど。作ってはいけないもののような気がします」

「そうだろうね。大昔の人間もそう考えた。だからそういうものは作らないようにしましょうっていう取り決めをしていたはずだよ」

「だったら、どうして」

「作らないようにしましょうと決めたということは、作られるおそれがあった、ということだよ。造反の危険がある従来型キャリアと違って、意図する人格をインストールできるキャリアができれば安定性は段違いだからね。結果的に僕は、それとはまたちょっと違った形で人間の作ったものを利用することになったわけだけど」

 そこまで言って不意に、燦は腹部に手を当てた。

「まあ、そんなこんなで、僕は竜でありながら、キャリア。人。でも、へそがないんだ。ウェバがどうかして作った、母の胎を経ない体だから」


 フリッガは呆気にとられたまま燦の顔を見ている。ヴィダはそれを隣で見、続きを促すべきかと思ったが、やめた。

 熾の前ではそうして彼が話を進めてしまったが、今回は少し違う。フリッガは驚いてはいるが、狼狽えてはいない。

「ええと」

 彼女は口を開き、それから首をひねり、もう一度口を開いた。

「それで……お聞かせ願うのも申し訳ないところなんですが。その、当主がお亡くなりになったあともあなたがここに残っているのは?」

 燦は口角を上げた。目が笑っていないので、それは単に意外だ、というだけの顔だ。

「あなたはてっきり、ウェバのことを聞いてくるんだと思ってた」

「ああ、それは」

 フリッガは思わず苦笑を漏らした。続く言葉はなかったが、燦は促しもしなかった。


「僕がここに残っているのは、僕がここを離れると、ここは実質的に彼女の直轄になってしまうから。確かに僕にはほとんど何の権限もないけど、市民からはドラクマ第一の竜として認めてもらっているから、僕の同意があるかないかは一応、市民受けって意味では価値があるんだよ。でも僕が去ったら、そのあと熾や爛がスペクトをコントロールできればいいけど……ウェバがナハティガル、っていうかアトロポス家に干渉を試みるようになったからね」

「なんのためですか?」

「さあ。軍を手中に収めたいんだと思うけど、それで何をしたいのかは……ただでさえ彼女の竜は愉快犯っぽいから。ただ、ドロッセルは当主が高齢だから、近いうちにスペクトと同じ末路を辿る。だからそこも考えたら、彼女はナハティガルを抱き込んで最終的に、アドラ全体を意のままに動かしたいってことなんだろうな、とは思う。それが手段なのか目的なのかは、僕には分からない」

 俯いたまま話を聞いていたヴィダが片眉を上げた。燦はそれに気が付いた。

「何か思い当たることが?」

「いえ」

「そう」

 じゃあ聞かないね、と燦は微笑んだ。

 フリッガは燦とヴィダの顔を交互に見、眉を顰めてから再び燦のほうを向くと、口を開いた。


「あの……ウェバは、とても長い時間を生きてきたと聞きました」

「うん」

「そういう人の考えることは、私たちにはうまく想像がつかなくて、あなたがたの方がピンと来るんじゃないかと思うんですけど……」

 自信なさげに語尾を濁してフリッガは後ろを振り返った。燦は「そうかなあ」と気の抜けた返事をしながら、フリッガと同じようにそあらに目をやった。

「どう思う? ウェバと数年一緒に暮らしたきみは」


 そあらはすいと目を伏せて沈黙し、それから口を開いた。

「あまりお話しできることはありませんが……とても怖がりな女性だった、という印象があります」



 フリッガは居住まいを正した。きっとこれからそあらは、フリッガの知らない母の、そして妻としてのウェバの、話をする。

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