3 ある地竜の場合//この愛しき仔ら
新緑の色をした目に、紅に染まった空は映らない。彼は既に軀を持たなかった。
この世界と彼を結ぶ絆は結麻であった。もうない。
あっけない別れであり、遺されたのもまた小さなものだけだった。
結麻が消えた海の渦の中から、黒い竜が羽搏いて飛び去るのを翠嵐は視野の端に留めた。それが、結麻が彼を手放したそのとき、彼女の最期のそのときに、彼が彼女の目を通して見たものだった。
彼に残ったのは、彼女の与えた名前だけだ。
彼は再び、観測者であったころの世界に連れ戻された。現世に層を重ね、その全てを見ることができるにもかかわらず、なんの干渉も許されない、暴力的なまでの静穏の世界に。
その後、翠嵐とて幾度かその黒い竜を探そうとしたし、実際肉薄もした。それは痕跡を隠そうとする気配すらなかったので、観測者たる彼にその捜索はさして難儀ではなかった。
もっとも、見つけて何ができるというわけでもない。現世によすがを持たないものがたゆたうこの世界は、相互の干渉も許さなかった。
在るだけの、無為の世界だ。結麻と出会うまではそれが普通だと信じ、不満を感じたこともなかった。
それは彼が生きてきた時間に照らせばほんの少し前のことに過ぎないはずだったけれども——あの数年を境に、この世界をつまらないと感じるようになってしまった。
風にさざめく木立の色を見、季節のうつろいと盛衰に触れる、あの世界に戻りたいと思う。踏みしだかれた落ち葉がざくざくと音を立て、血の通った手に雨だれが落ちる、あの世界に戻りたいと思う。
そうでなければ、できないことがある。
あれを、殺すのだ。自分から世界を奪っていった、あれを。
黒いゴーストの活動域はやがて多島海から大陸に移った。大陸ではキャリアは多島海ほどには一箇所に密集していない。それが理由か黒いゴーストの活動は鈍ったが、それでも終わったわけではなかった。
容量の足りないキャリアに暴走を引き起こして一帯を破壊するやり方で、黒いゴーストは着々とキャリアの数を減らした。
翠嵐にとっては残念なことであった。ゴーストを受け入れる容量を持ったキャリアがなければゴーストはあの世界に固着しない。だから彼もそのゴーストに干渉できない。それが彼らの理だからである。
どこかのキャリアと結んでくれれば、そのキャリアごと手折ることができるのに。
黒いゴーストが初めて確認されたとき、それを見つけた者が与えた便宜的な名称はプレトといったそうだ。それが遺されていた、種々のジオエレメンツを定義していった時代の記録は、雷雲を
その名を与えた者は、ゴーストの主にはならなかった。いや、誰ひとりとしてなれはしなかった。そのゴーストと結ぶことができる、それだけの容量を持つ個体は、記録がある限りでは開発が進められていたキャリア=ノイ一体だけだからだ。
その個体は最近見つけた。そこにプレトはおらず、白いゴーストがついていた。
さしものキャリア=ノイとて、ゴースト二体分の容量があるのかは、さすがに記録もシミュレーションもない。そもそもゴースト自体が、未定義という定義を持つものだから。
だから彼の観測域からプレトが消えるはずはなかったのだ。
この茫漠たる世界から、形ある世界へとそれが抜け出られるはずはなかった。
それでも翠嵐は彼を観測し続けた。実現するはずのない復讐を夢見ることだけが、死を持たない彼の存在意義であった。
そう。実現するはずはなかったのだ。なかったのに。
翠嵐の観測域からプレトが消えて、そのあと彼が知ったのは、キャリア=ノイが子をなしていたという事実だった。
あれほど夢見たにもかかわらず、手が届くとなると躊躇してしまった。
ゴーストへの
ここで決着をつけてしまうことは簡単過ぎて、まるでその復讐の理由が安っぽくなってしまうような気がして、それは彼の何より大事なものを汚すような気がして、彼は立ち止まった。
目的を捨てるつもりはないが、それにもやり方があるはずだ、と。
プレトと結んだ少女が居場所を山奥に移されてしばらく後、翠嵐は何食わぬ顔をして少女の前に現れた。
彼はその少女の父親も名前も知らなかった。興味があるのは彼女の中身だけだったからだ。
もちろん彼は、彼女と契約を交わした。そうして彼女のそばにい続けるのが、何よりも機を見やすかったから。それだけだ。
今から十四年、前のこと。
彼は少女に何も悟らせるつもりはなかった。だから彼は「彼」の、大事でないことは何もかもぶちまけ、容易に偽れることは全て偽った。
知られてはならないことはひとつだけ、ただそれが「知られてはならない」と思っていることさえ知られてはならない。ならば隠すためには情報を氾濫させるのが一番簡単だった。
幸いなことに彼には智の蓄えがある。キャリアとジオエレメンツの関係がいかに思考の共有を伴うものであろうと、彼はいつも「別のことを考えている」。だから隠していることは、主には何もわからない。そう考えた。
けれども彼の新しい主は、彼が考えたよりもずっと幼く、そして不完全だった。
ただ容量が大きいだけの、愚かで脆い
少女は、誰よりも愛する父を悲しませた母を許せなかった。
少女は、誰よりも愛する父を失わせた黒い竜から目を背けた。
少女はそして、それと結ぶと決めた己と向き合いたがらなかった。
少女は、誰よりも愛する父を忘れたくなかった。
少女は、誰よりも愛する父になりたかった。
少女は、そして、母のようにはなりたくなかった。
少女はいつしか翠嵐の真似をするようになった。口ぶりも、行動も、ことさらに彼女の周りにいる唯一の男性であった彼を真似た。親代わりの水竜のたしなめもあまり効果がなく、少女はまるで幼い少年のまま、大人になった。
それは彼女が政府から、国境防衛への協力を要請されるようになってからも変わらなかった。むしろ輪をかけて子どもっぽくなったようにも思う。
外では年齢相応に振舞っているようだから、それの反動か、とにかく彼女は成長しても幼稚で、短絡的で、愚鈍で、素直で、隠しごとが下手で、ただ心配させまいと形ばかりは前向きで、外向きには虚勢を張って、けれども本当は甘えたがりで——ああ、あまりにも。
あまりにもその容れ物は、結麻に似てしまった。
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