2 ある地竜の場合(2)
結麻と翠嵐とが集落の他のものと違うのは、仕事のこなし方にも顕著だった。他は主が指示を与えた通りに竜が動き、結果だけを――端的に言ってしまえば――主が横取りする形だったのだが、結麻は翠嵐に対して指示を与える事は一切せず、その代わり目標だけを伝えて「で、どうするつもり」と聞くのである。そして相変わらず気怠げにではあるけれども、翠嵐は必ず答えを返す。
ふたりの打ち合わせはいつもそれだけで終わった。仕事を請けてくるのは結麻だったが、実行段階での主導権は翠嵐にある。と、いうよりも。
翠嵐は常にひとりで仕事を片付ける。「そっちの方が楽だから」という言葉には、文字通りの意味しかなかったわけではない。
彼は結麻がその場に居合わせることを歓迎しなかった。翠嵐はその理由を正直に話すことはなかったが、結麻はその意向を尊重した。彼の表向きの言い訳も確かにそのとおりだったからだ。もともと単独行動の多い彼の場合、主を気にしながら動くのはことのほか気を使うようだった。
だから翠嵐がどういう手はずで仕事を済ませるつもりなのかを打ち合わせと称して聞き出すことだけが、結麻にとって彼と「一緒に」仕事をしていると思わせる唯一のものだった。そしてまた対等の関係を、それでいてお互いが不可欠の関係を望んでいた結麻にとっては、こんな打ち合わせがある種の儀式として何よりも大切だったのだ。
こういうものでもなければ、翠嵐にとって彼女は、いる意味のない存在になってしまう。少なくとも彼女はそう認識していた。
単なる仕事のパートナーではなく、ともに生きるもの。血縁者のない彼女は、誰よりも彼女の近くにいる翠嵐を、家族以上のものとして扱った。
しかし、他の島に散っていた傍系のものが数を減らしてしまった今、生き残っているものたちが負うそれぞれの仕事量は増えた。もともと依頼者は多島海で各々の島の覇権を争うものたちが多かったから、彼らの島が残っている限り仕事の絶対数は減ることはない。連絡が途絶えていくのは、結麻たちと同じ紫の目を持つ一族の暮らす島ばかりだった。
もともと竜と常に一緒に行動していた集落の者たちも、今までのように竜と主とが共に揃って依頼をこなす余裕は、必ずしもなくなった。
「どうせ私がいなくても仕事ちゃんと済むんだから、別行動もありよね」
そう聞く結麻に、翠嵐は眉を顰めるだけだ。彼は口数の多いほうではない。むしろ、集落の他の竜(それは人の姿をしているときに限らない)に比べても、かなり寡黙である。
別に行動するということは、結麻は結麻で、翠嵐の目の届かないところで他の仕事を手がけるということだ。そのとき己の身を護れるのはそれぞれ、己だけ。
竜は主をよすがに現界する。だから竜からすれば、自分の
しかし翠嵐が危惧しているのはそんなことではなかった。彼には主に巻き込まれるくらいならその前に自ら契約を切って保身できる自信は十分あった。だから、時はいつであれ結麻が先に逝く。そして彼はそれを無為に早めかねない結麻の提案を、拒んだ。
無限の命を持つ竜には寿命という概念がない。他者の命を拠りどころにするので、それに巻き添えになって消えることがあるとはいえ、彼らにはよほどのことがない限り死を観念することができない。
だからこそ彼らの多くがかつての主との死別を経験している。幾度となく主を換えてきた竜ならなおのことだ。しかし、翠嵐はそれとは違った。
その昔、分析が間に合わず、そうであるがゆえに彼もまた「ゴースト」の一角であった時期を過ぎて彼が定義を得、ジオエレメンツと称されたとき、人間が彼に与えた定義は旧い生まれのジオエレメンツであることを表す「原典域」であった。
当時の表現で言えば「スペックが高く、容量が大きく、そうであるがゆえに汎用キャリアには適合しない」もの。要するにその定義を与えた人間が彼に期待する用途目的からすれば無用の長物ということだ。
結麻は、かつてそのような評価を与えられたがために、己のあずかり知らぬところで価値を否定され封印されてきた彼を、初めて収容したキャリアである。
ある暗く曇った明け方、各々の主のそばで眠りについていた竜が不意に目覚めて騒ぎ出した。その原因を知らない主はただ困惑し、一方で竜たちの側も十分な説明をすることもできない。周囲の家でも同じことが起きているのを確認すると、竜の主たちは部族長の元に集まった。
この島の部族をまとめる家の当主な普段は表に出てこず、来客などの対応もその親戚筋の者たちが行っていたが、この日ばかりは当主自らが対応した。それは集落に、ことの深刻さを示すのには十分だった。
その数日前から翠嵐はあちこちで文献に当たっていた。とはいえ彼が求めている情報が当代に残されているわけもない。それは彼の知る限り、彼の価値を否定した時代の人間の情報であるし、この島で手に入るものなど尚更限られている。ただそれが片鱗でも伝えられてはいないかと、彼は各地の伝承や宗教書をひっくり返した。
古びて虫の食った、日に焼けた紙をめくる手を止めては閉じた。あまりに成果がなくて放り投げたい気分になったことは数知れないが、毎回我慢した。彼にとって人間は、過去も当代もその大半がいけ好かないものではあったが、その知性や知的活動の結果には一目置いていたから、文献という形で後生に残された成果を享受もしている以上、彼はその文字の綴りにそれなりの敬意を払うのである。
そもそもこの近辺に残っている文献に「失われた時代」をそのまま記録したものがあるはずのないことは彼にだって分かっている。だから、体系化されていなくても、たとえば信仰の対象として、あるいは魔術的な何かとして残っていればと考えたのだが、何もなかった。
その時代を実際に見て知っている彼が持たない知識を、この辺で入手できる文献が知らせてくれる可能性は万に一つもない。その一縷ともいえないほどの望みに彼は賭けたが、どう考えても負け筋であった。
かつて無価値と評価された彼はこれまで人と交わらず、人の世を外から眺めるだけの観測者であった。だから彼は、人の世がどのように終わってきたのかを少しだけ、知っている。
未来を知り、それを刈り取るゴーストがいる。彼女は気に入らない未来を、何度でも剪定し、やり直す。
そしてもうひとつのゴーストは、彼女の許した未来を圧し潰し、あるいは霧散させる。
人の歴史は、人が生み出したそれらのいたちごっこに延々と弄ばれてきた。
人の営みが積み重なってきているのだから、この未来は少なくとも今はまだ、刈り取られていない。だから今回は後者だ。
そのゴーストは焼き払いに来る。彼にとって最も労力の少ない方法で、彼にとって最も望ましい結論を得るために。
そうして、なすすべもないままその日が来た。それは空から現れた。
翠嵐が部族長の家で島中から集められた文献にもう一度総当たりしているころ、結麻は海岸で、はるか上空から滑り落ちるように降りてきた黒い竜を見た。
美しい竜だった。黒い滑らかな鋼の鱗に紫がかった空の色が映っていた。
その空を少しだけ赤に溶かしたような、膜の張った翼は三双。
決して特別大きな竜ではなかったけれども、それの眼を見ただけで、翠嵐と結んでいた結麻は理解した。
彼女の未来は、ここで終わる。だから彼女は、翠嵐を手放した。
主と切れた竜の手はものを支える形を失う。古びた本は板床の上に音を立てて落ちた。
古い紙を束ねていた糸が切れた。それがこの島の、人の営みの最後だった。
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