5 「あのひと」のはなし
そあらが「どうかしましたか」と声をかける。フリッガはテーブルに突っ伏したまま返事をした。その声はもごもごと聞き取れなかったが、彼女らの間ではそれで十分だ。ふたりが竜と主という契約を交わしてから、ずっと。
フリッガはそあらから、先代サプレマであったフリッガの父テルトが信仰の主たる受け皿であるところの水竜を我が子に譲り渡したのは、その子が言葉を解するようになって間もなくのことだったと聞いている。
外はもう暗い闇に閉ざされ、見下ろす通りは行き交う人は少ない。それでも遠くには日中訪れた市庁舎の光が滲んでいるので、その空はユーレの夜よりずっと明るかった。フリッガはその姿勢のままため息をつき、口を開いた。
「そあらはさ。その」
「熾ですか」
眉を顰めたまま顔を上げたフリッガを見ることもなく、そあらは壁に背をもたれて腕を組んだ。
ここは彼らの取っている宿の食堂兼談話室だ。四人掛けの古びたテーブルセットが五、六あるだけの質素な部屋だが、少し前の時間まではここで夕食が提供されていたので賑やかだった。
今はもうそれは終わって、ふたりのほか誰も残っていない。一緒に食事をとったヴィダは、今晩は翠嵐に捕まる前にそそくさと水を浴びに行ってしまった。
「事情を知ってるはずだ、って言われた。どういう意味」
フリッガの表情には疑いの色が濃かった。これまで彼女がそあらに決して見せてこなかった顔だ。そあらは目を伏せ、少し間を置いてから口を開いた。
「マスターのお父上の代では、アドラとの間のいざこざは今よりもかなり分かりやすい……というか、素朴な形でした。ですので私はそれへの対応として、お父上の手足としての命を受け、争いを望まない相手を選び、水面下でいくつかの協定を結んでいます。そういう相手にはこちらの不利にならない限りの内容は伝えることもありましたし、またアドラ側からも多くの情報を得てきました。私と熾との間には直接の関係があるわけではありませんが、幸運なことに私は、この国の別の火竜との間に繋がりがありますから」
「そんなことしてたんだ。初めて聞いた」
「『キャリア』が我々をどう利用するかや、我々がそれに従うかは、時代や個人差が大きいのですよ」
フリッガは、立ったままのそあらをちらと見、それから大きなため息をついた。
「知らなかったことがたくさんある」
「そうでしょうね」
なんだかなあ、とフリッガは呟き、それから大きく息を吸い込んで吐くと伸びをして立ち上がった。
「わざと黙ってた? それとも話してくれる機会がなかっただけ?」
「話そうと思えばいつでも可能でした。私のほうは、です」
「こっちがまだだって思った?」
ええ、と小さく笑って、そあらは答えた。
「マスターご自身がそういったことを疎ましく思われたり避けたりされている間は、私から率先してお話しするべきではないとは判断していました。ご指示でもない限り私が積極的に関与すべき問題でもないと考えておりましたし。ただ今となっては既にもう、入り口には立たされたようなものですね」
「そういったこと?」
「お母上のこと。それから政治に関わることも」
「確かにどっちも避けてた」
そうでしょう、とそあらは首を傾げた。
「そしてまだ、お聞きになりたくはなさそうですね」
「うん。熾から聞いたことだけでもまだ頭がいっぱいだから」
フリッガはそう答えながら目を合わせないままそあらの前を通りすぎ、談話室を後にした。
扉の閉まるのを背中で聞いて、踏み出した。薄汚れた壁紙の貼られた壁に人差し指を置くと、フリッガはそれを引きずりながら部屋のほうに歩いていった。
彼女が信頼していたそあらは、彼女に隠しごとをしていた。いや、それは「隠している」という認識ではなかったのかもしれない――たぶんそうだ――が、それにしても。今まで、ふたりが主と竜という関係を結んでからずっと、フリッガはそあらの今日の話は知らなかった。全然。そう。片鱗すらも知らなかったのだ。
あれだけ毎日一緒にいて。考えていることもよほど隠すつもりでもない限りは互いに分かってしまうのだ、それは普通の人間同士とは違う関係なのだと聞いて、ろくに疑うこともなくここまできたのに。
それがそあらにとっては未熟な主を思ってのことだったとしても、フリッガが己にふがいなさを感じたことには変わりがない。彼女の歩みは次第に鈍くなり、しまいには廊下の角を目前に立ち止まってしまった。
はあ、と情けないため息をつき、フリッガはずるずるとその場にうずくまった。
いろいろなことが起きすぎた。そして同時に、いろいろなことを知りすぎた。ただ父のようにあろうとした、それを言い訳にして都合の悪いことを見ずに来た、怖いと感じるものは考えずに来た、そうしたこれまでのつけが回ってきただけなのだは思うけれど、だからといって処理しきれるわけでもない。
母のこと。それから自分の立場。そのふたつがフリッガには聞きたくない話題だろうとそあらが指摘したものだ。そあらはそこに黒い竜のことを挙げなかった。きっとそれも敢えてのことだ。
フリッガは不意にプレトに会いたいと思い、その考えに自分で驚いて顔を上げた。
たぶん彼も、彼女の知らないことをたくさん、たくさん知っている。
後ろを振り向いた。誰もいない。煌々と明かりの灯った廊下では、あの鱗に覆われた尾が這い回る音も思い出せなかった。
熾はフリッガのことを「第二のキャリア=ノイ」だと言った。それは先の時代、ノヴァと並び未定義のまま、すなわち利用の対象たるジオエレメンツではなく得体の知れない「ゴースト」とされたままのプレトを確保するため、用意されたものだ。少なくとも熾はそう考えている。
プレトが「よく勉強している」と言ったのは、それのことなのだろうか。彼はウェバが張った罠にまんまと捕らえられた。そう考えてもいいのだろうか。
自分は餌だったのだろうか? フリッガは眉間に皺を寄せたままのっそり立ち上がり、足下を見た。
もしそれが本当ならば。自分が彼との契約を解くことを選んだら、罠としての価値を自ら手放したときには、どうなるのだろうか。それを考えるとなぜか腹の底が重くなる感じがして、フリッガは深いため息をついた。
ついこの間までプレトを認識したくないと思っていたのに、その存在を疎ましいと思っていたはずなのに、いざ解き放つときのことを考えると彼女は、自分の臓腑がごっそり抜け落ちてしまうような恐怖を感じた。
熾の話ではきっと、ゴーストは通常のキャリアでは耐えられないほどに大きく、重い。だからかもしれないし、そんな「気持ち」の話ではなく十五年の間に彼は本当に、何らかの形で自分の一部になってしまったのかもしれないし――
自分の体は何でできているのだろう。自分を定義するのは何だろう。
フリッガはまるで他人の体を借りているような居心地の悪さ、それが自分のものではないような心もとなさを感じた。地に足がついていることさえ確かめないことには信じられない気がして、その場で足踏みをした。うまく自分を捕まえられない。
そあらはウェバを知っている。それは彼女が、キャリア=ノイとしてのウェバを知っているという意味ではない。そあらは、ウェバがテルト、つまりフリッガの父と出会う前から彼を主としていた。だからウェバが彼と出会い、結ばれ、フリッガを生み、そしてアドラへ去ったその間もずっと、彼女はテルトを主としてユーレに在ったし、当然「主の妻」としてのウェバも見ている。
それは知っていたのに、フリッガは彼女に母のことを尋ねたことはなかった。父が話そうとしなかったことをそあらに尋ねることは、父への裏切りになる気がしたから。
既に亡い父であっても、その喜ぶことだけをしていたいと思った。父の望む、父に似た、父の作った自分であることが、自分を保つ方法だと思っていた。
だからこの長くなった髪だって、まだ鋏を入れる勇気が出ないのだ。
頭にかぶっていたタオルを右手で引き下ろし、それから上機嫌にそれを振り回しながら部屋に戻ってきたヴィダは、うつ伏せでベッドに寝転がり枕に顔を埋めているフリッガを見つけると肩を落とした。
彼の短い髪は早くも乾き始めている。濡れたタオルを丸めて投げると、水気を吸っていたそれは少し重たい音を立てて窓ガラスにぶつかり、床に落ちた。フリッガは非常に緩慢な動きで顔を上げた。
「戻ったんだ」
「うん。もう寝んの?」
返事をせずに再び顔を枕に埋めたフリッガは、その枕の中でもぐもぐと言葉を発した。それは不明瞭で聞き取れない。しかしヴィダは聞き返しもせずに、あっそ、と答えて向かいのベッドに座った。
言葉のない部屋に重い空気が流れる。ベッドの上に足を上げたヴィダはその場で胡座をかき、サイドテーブルの上のリモコンに手を伸ばした。その使い方は今朝方、知ったかぶった顔のフリッガが教えてくれた。ひどい二日酔いだったので半分も聞いていなかったけれども。
点いていないディスプレイに向かってそれを差し向けた彼に、フリッガは顔を上げないまま問うた。
「お前さ、どう思う」
「あ? 何が?」
ヴィダは手を下ろしたので、ディスプレイは結局点かないまま。部屋にはふたりのほか声はない。フリッガは仰向けに寝返りを打つと、額に腕を置いで大きなため息をついた。
「昼間の話」
「ああ。なんかいろいろ言ってたね」
「俺ってなんなのかなあ」
フリッガはもう一度ため息をついて目を閉じた。
部屋の明かりはユーレのそれとは違ってちらつきもない強いもので、閉じた瞼の裏が赤く見えるほどだ。
「俺を生んだ人はお父さんをそのためだけに利用したのかな。だから、生んですぐいなくなったのかな……もう用済みだから」
そう言うとフリッガは腕を投げ出した。マットのスプリングで少しだけ手が跳ねた。
「だったらひどい話だよね」
「誰に? お前?」
「いや、お父さん。一度もお母さんのことを話してくれたことはないけど、悪く言ったこともないから。きっと俺に、お母さんのことを嫌わせたくなかったんだと思う」
ヴィダはフリッガの、半ば独り言のような話を聞きながら外を見ている。
窓ガラスには明かりに照らされた室内が映っていた。彼は何も言わず、握ったままになっていたリモコンをサイドテーブルに戻すと立ち上がり、さっき投げたタオルを拾いに行った。フリッガはそれをちらと見ながら、先を続けた。
「あとさ、プレトの話もさ。ちょっと聞いてほしいんだけど」
「はあ。俺に似てると噂の」
ベッドに仰向けになったまま、沈黙だけでそれを肯定したフリッガを横目にヴィダは部屋のカウンターに据えられていた椅子を引き、それに斜めに座ると背もたれに肘をかけてから先を促した。
「聞くから話しなさいよ」
フリッガは口を開きかけ、そして、閉じた。
「やっぱりいいや」
「なんだよ」
「何話していいか分からなくなった」
ヴィダは肩をすくめた。少し待ってもフリッガは何も言わなかったので、彼は続きを聞くことを諦め、立ち上がると自分のベッドに戻った。やがて部屋の明かりが消えた。
何を話していいか分からなくなったというのは嘘だ。本当は「もしその黒い竜とキャリアという関係を自分が解いてしまったら、自分はどうなるだろう」と聞いてみたかったのだ。
でもそのことを考えて彼女が感じた喪失感や虚脱感、恐怖感のことは、彼女はヴィダに説明したくも、知られたくもなかった。
彼が知っている「フリッガ」は、ほぼ全てがプレトと結んでからの彼女だ。
もしプレトを手放した後の彼女から本当に、何か大事なものが抜け落ちて、そうして残ったものが今までの彼女とは違うものであったとしたら、彼はどうするのだろう。そこまで考えるとフリッガには、その先を聞いてみる勇気は出なかった。
部屋は暗いのに、そして彼女も眠れはしないのに。
あの這い回るような音は、まったくしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます