4 おかあさんのはなし
「あなたのお母上は、とてもきれいな真っ白の髪に鮮やかな赤紫の瞳を持つひと」
そう話す熾は、相変わらずの柔らかな笑顔だ。対してフリッガの表情は固い。
母親に訊け、とプレトは言った。そしてまたここで。
見たことも、会ったことも覚えていないのに、なぜいないのかも考えないようにしてきたのに、今になって目の前に立ちはだかるのだ。「母親」が。
「私は。私は、母のことはまったく知らないんです。父も話そうとはしませんでした。だから聞いてはいけない気がして」
フリッガの声は震えている。隣でネコが心配そうに顔を覗き、それから振り返った。
熾はそれを見、すいと首を伸ばして後方に声をかけた。やはり隣にかけては、という。ヴィダは少しだけ逡巡したが、一度扉の方を振り向いてため息をつくと、前に出てきてフリッガの隣に座った。ネコが代わりにソファの背もたれに登り、背後の警戒を買って出た。
熾はフリッガが目を伏せたままなのを確認し、少し話を変えましょうね、と言った。
「この国の舵取りの不安が顕著になったのは、あなたが生まれた頃、二十年くらい前から。もともとドラクマが絵に描いたようなやんちゃ坊主でしたから、その主導で大きくなったこの国もなかなかの暴れん坊ではあったけれど、ここ数百年は国同士ではそれなりにバランスをとった付き合いはしていましたし、ユーレへの侵攻も試みはしたけれど獲得目標はかなり限られていて、国土全部を本気で統合しようとしたことはありませんでした。実際、二十年以上前にはそういう記録もないはずです」
フリッガは顔を上げ、横を見た。まあそうかな、とヴィダが頷き、フリッガはその顔のまま熾に目を戻した。
「私と、スペクトの
目の前にあるこの竜は、この国と共に生きてきた。フリッガがよく知る竜のあり方とはまったく違う。しかし熾はそのあり方を誇らしくすら思っているように見えた。話の続きを聞きたくて、フリッガは先を待った。
「ドラクマは三柱の火竜を従え、その旗の下に集まった信徒を同志と呼んでこの国に立ちました。当時の彼の肩書きはプライアで、それほど特別なものではなかったけれど、後にここまでになる国の礎となる人を集められた。その理由に思い当たりますか?」
不意を突かれた顔でフリッガは瞬きをした。熾は考えさせる時間を待たず続けた。もともと返事など期待していなかったのだ。
「当時も各地にプライアは何人もいました。ほぼ全員があなたやドラクマと同じ紫の目を持っていて、私たちのようなものと特別な関係を結ぶことができた。だからこそ信仰の要となれたのね。だけれども、ほとんどのプライアは竜を連れていても大抵は一柱。二柱従えるものもあったけれどそれは少数。中には竜を呼び出す方法だけを知っているにすぎない者もいた。その中で彼は三柱を従えた」
「それって特別なことなんですか」
フリッガは思わず口を挟んだ。熾は目を細めた。
「その話をするためには、かなり時間を遡らなければならない。聞く用意はある?」
「はい」
前のめり気味のフリッガの返事に、熾はわずかに口角を上げた。彼女の本題はここからだ。
「今、現世で歴史として語られているより前にも人の歴史がありました。私たちのほとんどが、その時代に何かしらの形で生を受け、そして死んで、遺志だけが残ったもの。当時の人間は私たちをそう分析して、私たちのことをいろいろなふうに呼びました。今は竜と呼ばれているけれどね。その性質を解明できるまでは『ゴースト』。解明が済んだものを『ジオエレメンツ』、そんな名前がつくまでは霊とか、意識体なんていう呼ばれ方もしていました。わざわざそうして名前をつけて何をしようとしていたか」
熾はそこで言葉を切った。眉を寄せたままのフリッガをヴィダは少し首を傾げて眺めていたが、熾はその彼に返事を促した。彼はあっさり答えた。
「使おうとしたんでしょう。そのために分類が必要で、だからまず分析した」
そう、と熾は微笑んだ。
「自分で言うのもおかしいけれど、上手に利用できれば私たちは人間にとってとても価値が高い。任意に天災を起こす道具たり得るからです。だから人間は私たちをコントロールするための方法を考えた。そのために彼らが行き着いた発想が『キャリア』です。私たちというある種のプログラムを運用するための端末。キャリアは人間を元にして作られました。開発を重ねるごとに容量を増やし、同時に私たちにも『性質』そして『大きさ』が定義されて、ゴーストはジオエレメンツに整理されていった。あまりいい気分ではありませんでしたが——」
たとえば、と熾は一度目を伏せ、少し考えるようにしてから顔を上げた。
「ユーレのサプレマが代々引き継いでいる水竜があるでしょう」
「え、あ。はい」
「彼女の性質は『Aq』、大きさはだいたい十単位と定義されていたはず。私は彼女より少し小さくて九単位、性質は『Fl』と定義された」
フリッガは眉を顰めた。そあらのことだ。彼女はそれを知っているのだろうか。しかし熾はフリッガの表情を意に介さず先を続けた。
「これを定義することの意義は、主にはキャリアとの適合性判断です。キャリアには先ほど言ったように『容量』が設定されていて、容量を超える単位のジオエレメンツを収めることができない。試みれば破壊されます。サイズの合わない弾を装填しようとするようなもの」
熾の例えは、それが軍事利用を念頭においたものであったことを暗に示している。フリッガはちらと横を見た。ヴィダの表情は読み取れなかった。
「運用開始直後の初期のキャリアは容量が十単位に満たないものも多くありました。その後開発が進んで、中後期には十五や二十単位に近い容量を持つものも現れたけれども、それをさらに超える容量のものは突然変異でしかなくて、量産ができなかった。ただ、いずれのキャリアにも、それが人間から作られたものであることを示し、人間と違う扱いをしてよいことの目印がつけられていました。それが紫の目です」
フリッガは微動だにしない。続けても? と熾が尋ね、彼女は慌てて首を縦に振った。
「その後、いろいろなことがありました。ここはあまり関係がないから詳しくは述べませんが、結果的にこの地で人間はもう一度、社会を再建し始めた。以前よりもずっとプリミティブな——素朴な社会をです。大地に根を張り、水に育まれ、風に遊ぶ。そんな世界にわずかに入り混じり、竜と結び木を育て、あるいは雨を呼んで地を潤す。それにより社会での居場所を得ようとしたキャリアは自然と、人々の畏敬と感謝の標となりました。あなたたちの宗教はこうして成った。ですからあなたのお父上、先代のサプレマも、もとをたどればキャリアと呼ばれていたものです。十単位の水竜に加えてそちらの風竜も従える容量があったのならば、キャリアの中でも比較的後期型もしくは変異型に端を発する方だったのでしょうね。だからこそその血は各地のプライアを束ねる最高位の聖職者、サプレマに任ぜられた」
熾はヴィダとフリッガの間の背もたれの上で彼女に背を向けているネコに目配せをした。ネコはそれに応えるように尾を振り、にやあん、とねちっこく鳴いてみせた。
フリッガは呆気に取られた顔のまま瞬きをして、それから膝に置いた手に目を落とした。
自分の父親、何よりも誰よりも大事だと思っていた肉親を、まるでもののように言われているのはわかる。けれども不思議と腹は立たなかった。というよりも、そのことを言葉として理解はしていても実感が湧かなかったのだ。熾は畳み掛けるように続けた。
「あなたのお母上の話に移ります。彼女もまたキャリアとして開発されました。ただ開発者は容量を劇的に増やすため、それをこれまでのキャリアとは根本的に違う理論に沿って開発したと聞いています。ですから彼女は、後期型とか変異型とか、そんな名前ではなくまったく新しいキャリア、『キャリア=ノイ』と呼ばれていた。開発時のコードネームは『
その名前を口の中で繰り返す。不意に、自分の母親の名前すら知らなかったのだとフリッガは思い、下を向いた。
父に母親のことを聞いたことがないわけではない。けれども明確な答えは返ってこなかった。ただ、父は母のことを決して悪くは言わなかった。
そのときの父があまりに普段と違って遠く見えたので、フリッガはそれ以上のことを聞こうとは思えなかった。聞かずにいる間に父は亡くなり、母の話はそのまま彼女にとっては禁忌となった。下を向いたままのフリッガを尻目に、熾は話を続けた。
「ウェバは子を生み、それからこの国に来ました。そしてこの国にさまざまなものをもたらした。何かアンバランスさを感じませんでしたか?」
「通信技術がいやに進んでいるな、とは。ああ……あと建築技術も。これまで通った中でここはあまりに局所的に違っているとは感じました。我々の見慣れたものを含めた辺縁部の水準との汽水域がないというか、境界が不自然なほど明確で、徐々に発展したというよりは突然降って湧いたように見える」
ヴィダが答えると、熾は満足げにゆっくり頷き、フリッガに目を移した。
「三都市は規模の差はあれ、どこも似たようなものよ。実は彼女は数十年前にもこの国に来ていた。あなたを生む、あなたのお父上と出会う、もっとずっと前です。そこでクロト家に接触した。この国の首都を統べる、ドラクマの長子の家系です。そしてあなたを生んだあと、もう一度来たの」
「一体いくつなんですか。その人は」
フリッガが何も反応しないので、ヴィダは肘で彼女を小突いた。フリッガは驚いたように顔を上げ、いえ、続けてください、と先を促した。
「すみません。ちょっと混乱してて」
「そうでしょうね。私もこんなにしゃべるのは久しぶりです。いつもは逆で、コメントを求められる方なのだけど」
熾はそう言って少し笑った。しかしその表情は彼女が再び口を開くとともに戻った。
「ウェバは私が初めて会ったころ、クロト家に接触したときだから、今から四十年くらい前ね。そのときも、二十年前あなたを生んでからまたアドラに戻ってきたときも。そして今もまったく変わらないのです。ひとつも歳をとっていない」
「今も?」
「ウェバはスペクトにいるのよ」
フリッガは瞬きをした。
それはアドラの首都であり、かつてメーヴェの老人が住んでいたという場所であり、ここを出て次に通るつもりの場所だ。
ついさっきまで生きているのか死んでいるのかも分かっておらず、名前さえも知らなかった母は、すぐ近くにいる。フリッガは思わず両手で口元を覆った。そのまま膝頭を見る。頭の中がうまく整理できないのに、そうしていないととにかく言葉がこぼれそうだった。
会いたくない。会いたい。話してみたい。聞きたいことがたくさんある。でも何も聞きたくない。怖い。恐い、こわい。
嗚咽が漏れた。熾はそれを冷ややかな目で見、それから隣に目を移した。彼女は話を止めるつもりはない。
「時を渡り不老不死を授けるゴーストを従えたキャリア=ノイが、その存在を知った人々からどのように扱われるかは分かるでしょう」
ヴィダを見る熾の目は、またあの為政者の顔をしている。ヴィダはため息をついた。
「まあ、盲信されるでしょうね」
「そう。白いゴーストを従えた不老の魔女は、通信技術を手土産に、この国の有力者をあっという間に取り込んだ。そして最近になってこの話。目的は一応、不明だけれど」
そこまでいうと熾は再び目を、うつむいて顔を覆ったままのフリッガに戻した。
「そのままでよいから聞きなさい。あなたの黒い
フリッガは覆っていた手をそのままに、そろそろと顔だけ上げた。
サプレマ。そう、サプレマだ。自分はそういう立場で、今ここにいる。
しっかりしなければ、いつも凪いだ水面のようであった父のように。フリッガは頭を振り、大きな息を吐いて手を下ろした。
「すみません、取り乱しました。聞いています」
「異端の教主の従者であった私が、あなたにこのようなお願いをすることが筋違いであることは承知しています。しかし我々は、いえ、私たちはあの子が私たちに託したこの国と国民を彼女たちから守りたい」
ヴィダは少しうつむいて険しい顔をしている。
熾の要求は要するにフリッガに対して、母親の排除に手を貸せというものだ。熾の言うことももちろん、分かる。そして選ぶのは彼の役割ではない——こと母娘の確執に関しては。それにしてもだ。
彼は顔を上げないままで隣に目配せをした。フリッガは熾を見ている。目は泳いではいないが、口を開きかけては閉じ、言葉が選べていない。
仕方ない。ヴィダは顔を上げ、居住まいを正して口を開いた。
「僭越ながら」
「なんでしょうか」
「貴国内の問題に貴君らが直接対応しない事情があるのならば、お聞かせ願いたい」
ああ、と熾は呟いた。
「我々特有の問題があるのです。詳しい事情は貴国の水の竜も了解しているはず」
「本邦の?」
「我々には人の世とは異なる我々の
ヴィダは思わず口角を上げた。フリッガは彼のことを、護衛として同道してもらっている軍人だとしか知らせていない。けれども熾は彼の身元も把握していた。おそらく最初から。
「申し遅れました。失礼を」
「こちらが知っていると言わなければ、最後まで明かすつもりもなかったのでしょう?」
熾は笑っている。フリッガはふたりの顔を見比べ、視線を二往復させてから熾に戻した。
「いいのよ、別に腹を立てたりはしていません。ですが大体の事情も察しました。あなたがたの国も決して一枚岩ではないわね」
眉を寄せたヴィダの隣で、フリッガは思わず尋ねた。
「それは……どういう」
「あら。貴国内の問題にはまず貴君らが対応すべき、でしょう? 私たちはあなたに判断材料として我が国の実情を見せる限りでは協力するけれど、それ以上のことは関知しない」
そう言いながら熾は、いたずらっぽく片目をつぶって見せた。
「まだ、ね」
熾が立ち上がった。ネコが飛び上がり、ソファーの背から前まで降りてくる。それを傍目に見ながら熾は、部屋の隅に置かれていた「拾得物」を手に戻ってくると、はい、どうぞ、とそれを座ったままのフリッガに手渡した。
「それはね。ウェバが作ったものよ」
フリッガはリュックを開け、中身を取り出した。メーヴェで翠嵐が葬った相手からの戦利品だ。
「ウェバはあなたたちの力量を見るついでに、失敗作の処分をしたのだと思うの。この先あなたはすぐに、それによく似た人に出会うはずです。彼の話をよく聞いて、そしてあなたがどうしたいと思うのか。私はあなたがウェバに会うのは、それを決めてからのほうがよいと思っています」
一歩後退り、熾は左手に右手を重ねて立った。それは、この部屋で最初にフリッガが彼女に気づいたときの彼女の姿勢と同じだ。
フリッガとヴィダも立ち上がる。熾は上品に微笑むと、それでは、と頭を下げた。
部屋を出ると案内の者が立っていた。連れてきた男性とはまた別の男性だった。
今出ると報道の者に取り囲まれて面倒なことになるからと建物内にしばらく足止めをされたので、帰途では既に、日が空の端に落ちようとしていた。
通りには食事の準備の匂いが漂っている。普段ならそれはフリッガを浮足立たせるものだったが、彼女の足取りは重かった。
なんか、と彼女は呟いた。ヴィダは宿への道を歩きながら横に目をやり続きを待った。
「なんか」
「なんか?」
「なんか、疲れた」
「そうだな」
道を挟む建物の影が長い。夕日に染まった金属質の黒い壁が、道行く人のざわめきと、夕焼けの赤を映していた。
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