3 ラケシスの竜
昨日の晩遅くから降り始めた雨は夜明け前に上がった。それが残していった水溜りは、昇ったばかりの朝日を反射し、ドロッセル中心部に林立する暗い色の建物の壁を複雑な模様に染めている。
カーテンを開けた。窓ははめ殺しで開かない。そのことを確認してから外に目を落とした。ほとんど真上から道を見る形になる。
こんなふうに人を見下ろすのは初めてだ、とフリッガは思った。
母国では背の高い建物といっても、人が暮らすのに用いられるのは王宮を除けばせいぜい三層くらいが限度だ。グライトの運河沿いなどは斜面に道を刻んで建物を並べているから、坂の上の方を低い階層から見ればそれなりの高さに思えるけれども、それでも天辺から見下ろす街並みは真下を見るようにはならない。
道行く人がまばらに見える。街中の暮らしを知らない彼女からは、それが母国と比べてどうなのかはよく分からなかったが、なんとなく、朝の始まりは遅い気がした。
この街では夜遅くまで煌々と明かりが点いているようだから(昨晩は結局、夕食を終えて戻ってくるとヴィダは改めて翠嵐に連れ出され、フリッガが寝るころになっても戻ってこなかった)、その分一日の立ち上がりは遅れるのかもしれない。
上に目を移す。ドロッセルの中ではまあ中層階程度の位置に宿をとったので、そうして見上げてもまだ空は広くはない。向かいの建物は、今いる建物よりさらに高いようだった。
ガラスに手をついて、顎をそらすようにして空を覗いた。大きな鳥が悠然と滑っていった。見たことのない鳥だった。遠くに来たな、としみじみ思う。
部屋に設置されたディスプレイも、一晩寝てしまえばそれほど驚く設備でもない気がしてくるから不思議だ。昨晩夕食から戻った時に、使いたいなら言ってくれたら操作する、とゼーレが申し出たが、フリッガはそれを断り、使い方を教えてもらった。
いくつもボタンが並んでいるリモコンの、使うボタンはこれとこれだけだ、あとは触るなと言われたけれども、昨晩はヴィダもいなくてひとりだったし、なにより面白そうだったので、寝るまでの間少しだけ触ってみた。途中で突然部屋の明かりが落ちて手探りになったり、画面が砂嵐になって耳を塞いだり、空調が切れて肌寒い思いをしたりもしたのだが、おかげで使い方のあらましはわかった気がする。
そうして使い方を覚えたディスプレイからは、朝の報道が流れていた。
ユーレにはこういう情報共有の方法はない。それを流す道具自体がないのだから仕方ないのだが、誰かが分析した今後の天候の見込みなどは、ベッドの端に腰掛けたまま面白く見た。他の番組が流している予報はまた少し異なったから分析者は複数いるのだろう。彼女の国ではわざわざ自分の分析を、知らない相手にまで広く伝達しようとする者はいない。
ちなみにいずれの番組の分析も、長期的な予報の後半はフリッガ自身の予測とは違っていたけれども、今日はもう降らない、という点では三者は一致していた。しかし彼らが伝えようとするのはそんな話ばかりではない。
画面が切り替わるたび映されている人物も入れ替わり、話す内容も変わった。その中でもひときわ異彩を放っていたのが、赤い長い髪と赤い瞳のすらりとした女性だ。その女性が一言も口を開かないまま、黒い服の男性数人に守られて、昨日訪れた市庁舎に入っていく映像にはどの番組でも触れていた。
そのあと決まって切り替わる映像は、その女性とは違う人物が、事前に用意した紙を読み上げるような口調で発表をするものだ。ぎりぎり聞き取りにくくはないが、抑揚のない声だった。
その内容は、ユーレ侵攻の機運に異を唱え、ドロッセルは中立を守る意向である、というものだ。話し方も相まって、その表明はこの地ではさも当たり前で代わり映えしないものに聞こえる。けれどもユーレにとっては朗報だ。
フリッガは、きっとあの赤い髪の女性が「ラケシスの竜」、
このドロッセルを統治している、今は亡き教主でありアドラ興国の祖、ドラクマの子孫三家のひとつ。それがラケシス家だ。
彼らはドラクマから紫の目を引き継いだ。しかしそれなら他にもいる。彼らが教主の正統後継者であることを証明するのは、ドラクマと契りを結んだ三柱の火竜だ。各家が一柱ずつを代々、継承している。しかし、さっきの映像のどこを見ても紫の目の人物は現れなかった。だからあの中にラケシス家の当主はいないはずだ。
竜が主よりも、人の世に近い。ここは、そういう国だ。
フリッガは大きなため息をついた。今日は、その竜に会いに行く。
ディスプレイを消して、立ち上がった。
部屋には誰もいない。彼女が使わなかった方のベッドも、来たときのままではないから使われはしたのだろう。ただ、その主はフリッガが起きた時にはもういなかった。寝る時にもいなかったから、いつ来ていつ出て行ったのかはわからない。
護衛としても見張りとしても落第だなと思ったが、別にそれだけだ。そういう役割を彼に期待しているのは議長を兼ねる女王デュートや議員の面々、それからキュルビスを筆頭とする軍の連中であって、フリッガではない。
身支度を整えていると、部屋の扉が開いた。引き戸だが手を離せば勝手に閉まる。ガラガラと音のするユーレのそれと違って、開け閉めの音も静かだ。
そあらが立っていた。少し意外そうな顔をして、彼女は部屋に入ってきた。
「おはようございます。今日はお早いのですね」
「そうかな」
「いつもならまだ半分眠っていらっしゃいます」
そんなことないよ、と言いながらフリッガは外を見た。
日の高さがよく分からないから、時間もよく分からなかった。とにかく勝手が違いすぎる。彼女には時刻を確認するという習慣がほとんどない。
身支度の最後に髪を括る。フリッガは髪を、十五年前から一度も切ったことがない。竜との契約を増やすたびに彼女の髪が伸びるのは遅くなって、それだけの時間をかけてもかろうじて太腿にかかる程度にしかならなかった。最後に切ってくれたのは父だ。
不意に少しだけ明るくなった。日にかかっていた薄雲でも晴れたのだろう。フリッガはそれに目を細めると、彼女が抜け出したままの形になっていたベッドを整えているそあらに、あのさ、と話しかけた。
「あのさ。今日だけど、身分を明かして会ったほうがいいと思う?」
「……そうですね。どうでしょう」
あの受付の女性は、フリッガの目の色に気がついている。そしてその連れの所持品は「調査中」。一般人だと思われているとは到底考えられない。そうであればわざわざ、伏せても無駄だろうか。どうせ分かってしまうことだ。
しかしドロッセルにいる間はまだいい。この先通過する二都市はこの街よりはずっと侵攻に積極的なはずだ。この情報網だ。妨害が強くなるのは困る。達成すべき目的は、あくまで隣国のフリューゲルに至ること。
昨日、夕食をとりながら少し作戦会議をした。とは言っても周りに気を使いながらだったから、表面上は和やかそのものだったけれども。
待ち合わせ指定の詳細を伝えると、ヴィダは首をひねった。迎えが出てくるというのに、つまり一般には立ち入りが制限される場に案内されることが明らかな形をとりながら、正面玄関で待つよう指示されたことが彼には引っかかるようだった。
あれだけの報道をされる熾が個人的に会おうとする人間に世間が無関心でいるわけがない。指定された時間も、お忍びらしい時間ではなかった。
熾はむしろ、フリッガに会うことを公表したいのかも——彼はよく火の通った、塩胡椒で乱暴に味付けされただけの肉を頬張りながら、そんなことを言っていた気がする。なんでそんな必要があるのかと聞いたら、それがドロッセルの立場に沿うものだからだという。他二都市、スペクトとナハティガルとが大っぴらに動き出す前に、ドロッセルはユーレと親交のある都市だとアピールしておきたいのだ。ドロッセルは経済の都だ。その武器は分析力、演出力、そして調整役としてのバランス感覚である。
ユーレ侵攻をドロッセルは、少なくとも自身にとってメリットの大きいものとは考えていない。だからそれを阻止するために方策を練る。中立と発表したのは「反対」というよりも角が立たないからだ。そしてフリッガは建前上は宗教人であり、ユーレ政府の人間ではないから「会って話した」というだけであれば表立った批判をかわす方法はいくらでもある。
メーヴェの老人も語ったとおり、アドラではもはや宗教は正義を定義する力を持たない。だから正派サプレマとドラクマ派の対立などドロッセルには配慮する必要がないのだ。
ううんとうなってフリッガは眉を寄せた。こういう話は得意ではなかった。全てが推測だ。その中で一番可能性の高いものを選ぶ力を自分が持っているとは思えなかった。
人間では一番頻繁に会うヴィダのことすら、フリッガにはよく分からないのだ。その口にしている言葉と、その本心とは同じなのか。考えると不安になるから考えないようにしていた。
彼女の迷いを見透かしたように、そあらは目を細めてから首を振った。
「もともとドロッセルは中立とは言いながら、侵攻には反対のようですから、ある程度は甘えられるのではありませんか。いずれにせよ追われる身です。今後の影響と言っても程度問題でしょう」
「うん」
「ですが最終決断を私に委ねられても困ります。おふたりで決められては」
そう言いながらそあらは奥のベッドを一瞥し、肩をすくめてから続けた。
「二日酔いの方は水を飲みに行ったようですよ」
「二日酔い」
「昨晩はウワバミと案外いい勝負をされたそうです。おかげでふたりともまだ役に立ちません。大事な話はもう少し時間をおいて」
「馬鹿じゃないの……」
呆れ果てた顔で肩を落としたフリッガは、両頬を手のひらで挟むようにぱん、と叩いてから部屋を出た。
小走りのネコを先頭に、フリッガとヴィダが後ろに並んで歩く。
今日はもう降らないと言った天気予報が「ほら見ろ」とでも言いそうなほどすっきりと晴れた空は、しかし、背の高い建物に切り取られて四角く、狭かった。
時折吹いてくる追い風を感じる。それは落し物を取りに行くネコの心のはやりそのものだ。フリッガが苦笑を漏らすと彼は振り向いて、照れ隠しのように尻尾を揺らした。
道の先に市庁舎が見えてくる。思わずケープを引き上げた。彼女の衣装のほとんどを覆い隠す、丈の長いものだ。
宿を出る前に心は決めてきた。うまく話せる自信はなかったが、熾はきっとフリッガの言葉だけで方針を変えるようなことはしない。ヴィダにそう言われて少し気が軽くなった。
幸か不幸か、要するにフリッガは演出のために利用されているだけなのである。だからその機会に少し、こちらからの縁も繋がせてもらうのだ。
正面玄関に近づくと、人が集まっているのが見えた。真ん中は空けられていて人通りはあり、出入りする市民が物珍しそうに左右を見ながら通り過ぎている。
脇を固めている人々の持ち物はフリッガには馴染みのないものだが、その位置から正面玄関を捉えた映像は今朝見た。彼らは目当てのものが来たら、またあんなふうに映像を撮るのだろう。
ちらと横を見る。ヴィダは目を細めてその人だかりを見ていた。彼はフリッガが自分を見ているのに気がつくと顎をしゃくってみせた。フリッガは頷き、ケープを脱ぐと軽く畳んでヴィダに渡す。すう、と息を吸って、吐いた。それから踏み出す。
一歩近寄るごとに、あれらが待っているのは自分なのだという確信が深まった。人の塊が少しずつほぐれてこちらに向かってくるからだ。ヴィダの推測は正しかったのだ、とフリッガは思った。
ラケシスの竜はこうして「ドロッセルの守護者がサプレマに会う」ことを知らしめた。ばちばちと慣れない光と音。決して快適な状況ではなかったが、今朝ちらりと見たあの報道に夕方頃には自分の姿が映っているのかと思うと何故か面白くなってしまい、フリッガはにこやかだった。それには演出としては一定の影響があるのだが、彼女にそこまでの意図はもちろんない。
案内の者は奥に見えているのに、すぐには出てこなかった。十分に時間を与えて、それから取次をする。サプレマと随伴者は、先導者の後をついて正面玄関を入るとホールを横切り、庁舎の奥へ潜っていった。
いくつかの扉と、いくつもの廊下の先、他の階には止まらないエレベータがある。
先導の女性はその前で立ち止まり、ふたり(と一匹)を乗せると自分はそこで別れた。宿にもエレベータがあったので、フリッガはもう驚くこともなかったが、ここには階数表示がない。直行だからかな、とヴィダに尋ねると、何階か特定されたくないんじゃないのと返事が返ってきて、フリッガはなるほどと思った。
止まったところで扉が開き、廊下に出る。似たような扉がいくつか並んでいるが、その間隔は割に広かったので、扉の先の部屋も小さくはないのだろうと思った。
不意に横から声をかけられ、フリッガは思わず「はい」と返事をした。この階はこの階で、別の案内者がいるのだ。その男性に伴われて廊下を進み、ひとつの扉の前で止まった。ドアノブのないその扉を男性が叩くと、それは誰の力もないのに勝手に開いた。
向かい側に窓が見える。大きな、というより、壁全体が窓なのだ。この部屋が何階にあるのかは不明でも、その窓から入る日差しや周囲の風景からは、比較的高い位置にあることはわかった。
案内してきた男性が、それでは、と告げて一歩下がる。それに会釈をするとフリッガは再び室内に目を戻した。
外の風景にばかり気を取られていたが、その正面にはほっそりした女性が逆光を浴びて立っていた。一度気がつくとその存在感は何よりも大きい。
女性が一歩進み出た。燃えるような赤い瞳の色が分かる。背中まで伸ばされた赤い髪はさらりと
これが熾だ。
一歩踏み出し、閉じた扉を背にフリッガは辞儀をした。それに熾は緩やかな笑顔で返事をし、傍に寄るように手招きをした。
部屋の隅のサイドテーブルに置かれた「拾得物」を尻目に、熾はふたりに向かいのソファにかけるよう促した。フリッガはそれに従ったが、ヴィダは並んで座ることは断った。熾はそうして少し後ろに下がった彼には何も言わず、自身はフリッガの向かいにかけながら口を開いた。フリッガの横に陣取ったネコに笑顔を向け、まずは自己紹介、それから。
「私の仕事は落し物検査ではないので、普通はこういったことでその持ち主を呼び出すということはしません」
「存じ上げています」
フリッガは熾の声を初めて聞いた。報道で流れる彼女の映像はいつも無言だったからだ。見た目の歳のころはそあらに近かったが、そあらよりも少しだけ声が高い。それでも不快ではない声だ。とても、落ち着いている。
言葉を選びながら答えるフリッガに対し、熾は柔らかな表情を崩さない。そのくせ付け入る隙も許さない。
後ろに控えたヴィダは、為政者の顔だ、と思った。女王と同じ。熾は、フリッガの隣のネコに目を細めた。
「当市に火竜以外の竜が立ち入るのは何年ぶりでしょうね」
「もしご無礼に当たったのでしたら」
「いいえ。私が『サプレマに会う』つもりであったことはご存知でしょう? 見事にお応えいただいた」
熾の表情は変わらない。ただ、その中にあって射抜くような彼女の目はフリッガを緊張させた。
フリッガは振り返りたくなる気持ちをぐっと抑え、努めて冷静に口を開いた。
「そして『サプレマ』と話をする?」
「そうですね、それはシナリオ通りに終わったことにしましょう。次に、あなたのご両親の話を」
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