2 箱の中
フリッガとヴィダとは、決めておいた待ち合わせ場所にほぼ同時についた。お互い同時に口を開きかけ、顔を見合わせる。先を譲られたのはフリッガだ。じゃあ、と言いながら彼女は咳払いをした。
「一番通りやすそうなとこ調べてきた」
「どこ?」
「やっぱり思ったとおりのとこ」
それは首都スペクトを経由し、軍事都市ナハティガルを突っ切って、国境の川を越えるルートだ。ヴィダは案の定という顔で肩をすくめた。
「まあ、なんかあったら即応できるからね……」
つまりその道は、あえて空けられている。一見通りやすいのは検問などの警備が手薄だからだが、一方で軍備はあまりに万全だ。ほとんど罠に近い。
普通なら絶対に選ばない経路だが、いかんせんこちらの編成は「普通」ではないのだ。時間のロスと成功率を天秤にかけて考えるなら、それで行くのが妥当だろう。考えていたとおりである。
背の高い建物が密集するドロッセルの空は狭い。見慣れたユーレの砂舞う広い空と違い、見上げた空は灰色にくすんでいて、晴れていても重苦しかった。
眉を顰めたヴィダは視線を戻して口を開いた。
「正直いうと大した情報はありません」
なんだ、とフリッガは残念そうな顔をしたが、侵攻が早まったなどという情報がもたらされるよりもずっとましだ。フリッガもそのことは分かっている。だからヴィダは続けた。
「ここの偉い人は中立で行くってさ」
「そうなんだ。じゃああんまり状況変わらないね」
「ところがそうでもありません。ある問題が起きました」
ヴィダは振り返り、後ろでもじもじしているうーを手で示した。それを見たフリッガは、そうだ、と声を上げた。
「ゼーレがさっき調べ物してたときに、遺失物データベースによく似たリュックが登録されたよって言ってたけど。もしかしてどっかに忘れた?」
うーは顔を上げた。くりくりとした目がいつも以上に大きく見えた。
フリッガたちはそれから、うーをつれて市庁舎に向かった。拾得物はそこで手続きをすれば還付してもらえると聞いたからだ。
しかし、うーと一緒にカウンターに向かったフリッガは、少し手前で待っていたヴィダのところまで戻ってくると両手を上に向けた。ヴィダはフリッガの隣のうーに目をやった。ご機嫌斜めである。
今彼に声をかけるのは得策ではない。ヴィダは首を傾げ、フリッガに尋ねた。
「収穫は?」
「ない。中に入ってたものを調査中だって。終わったら処分を決めるから連絡待てって言われた」
うーの忘れたリュックの中にはメーヴェで拾った「B級品」が入っている。「へそのない人間」、「キャリア」、「実験」。そんな詳しいことはフリッガは聞いていなかったが、とにかくその持ち主はメーヴェで翠嵐の返り討ちにあい、葬られた。
翠嵐はそれのことを「ちゃちい劣化コピー」と評したが、見る者によっては、あれはたぶん――まずい。
腕を組んでうなりながら下を向いてしまったフリッガの背に、受付の女性が声をかけた。聞いたことのない名前だったのでフリッガは一度は無視をしたが、よく考えれば彼女が受付票に残した偽名である。フリッガは慌てて振り向いて返事をし、カウンターに戻った。
手元の端末を慣れた手つきで操作しながら、女性はいくつか質問をした。それにフリッガが答えていくと、女性は端末の画面を暗くし、両手をカウンターの上で重ね、顔を上げた。
「特殊なケースなのですが、是非持ち主に会いたいとラケシスの竜が仰っています。ご都合はいかがでしょう」
「ラケシスの竜?
「他にいらっしゃいますか」
女性は首を傾げた。その表情がいかにも怪しいといった感じだったので、フリッガは慌てて、いえ、と答えた。
「いつでも大丈夫です」
「かしこまりました。では正面玄関で係の者がお待ちしますので、明日の」
顔を伏せながら返事をした女性は、手元でもう一度端末を操作して何かの連絡を受け取り、そこで伝えられた時刻をフリッガに伝えた。朝の、あまり遅くはない時間だ。フリッガはその時刻を繰り返し、必ず伺います、と返事をした。
そあらは合流後は姿を消している。拾得物の手続きをしている間に時間は過ぎ、空は赤く染まり始めていた。
今日の宿泊先を探しながら、翠嵐とうーとを前に行かせてフリッガはヴィダに訊いた。
「会いたいって。なんでだろ」
「俺が知るわけないでしょ」
「そりゃそうなんだけどさあ」
答えながら前を向き、歩数を数えるように足元に目を落としたフリッガの隣で、まあでも、とヴィダは続けた。
「ここの偉い人は一歩引いた位置からものを見てるようだし、試しに会ってみてもいいんじゃないの。とりあえず身元伏せたりして」
「身元、伏せられるかな」
さっきフリッガが薄暗い店を選んだのは、なるべく目の色に注意を向けさせないようにするためだ。
この国にも紫の目の聖職者はいるはずだが、宗教色の薄い大都市で意識されるのはそんなことではない。この国でこの色の目は、統治者三家と同じであることに何よりの意味がある。
実際、あの店に入るまでに通りでフリッガのほうを振り向いたものはひとりやふたりではなかった。それは宿を探している今でもだ。もちろんさっき対応してくれた女性も最初驚いた顔をした。ああ、とヴィダは呟いて、それからため息をついた。
「無理だな、お前目立つわ」
「それはそうだけどお前も目立つよ」
この国でもヴィダほどの黒い髪は滅多にいない。彼は周りを見回した。この時間帯だとむしろ目立っているのは自分の方かもしれないと思った彼は、なら、と返した。
「隠せないならもう、ついでに本題も話してきたら。素直に助けてって言ってもいいし、粘ってくださいって頼んでも。怒らせなければなんでもいいよ。どうせなんかあったら逃げるしかないんだし」
フリッガは眉を顰めた。
「話してきたら、ってさあ。なんでそんな他人事なの」
「いや、実際、俺呼ばれてないじゃん」
隣を歩きながら見上げるフリッガの視線には、不満の色がありありと見て取れる。それにヴィダが眉を上げると、フリッガは視線を前に戻してからふてくされた声で言った。
「一緒に来てよ」
メーヴェで「消えてて」と言われたのを根に持った翠嵐がとにかくこだわったので、フリッガはその日は宿を、彼の分もちゃんと取った。
彼は腹が減った夕飯を食べに出る、酒も飲みたいからマスターは来るなと言った。すなわち財布はヴィダがあてにされることになるので、彼はほとんど鬼の形相でふざけんなよと返した。そうでなくても彼の赤い目は血の色をそのまま映すので、彼がどれだけ嫌がっているかはフリッガにも分かった。昼にあったことも自ずと察せる。
結果的に翠嵐のところには、そあらが食べずに残していた昼の残りが置かれている。
人間ふたりは傷心のうーを連れて、食事に出てしまった。忘れ物をしたという事実は、小さな彼の(しかしそれなりの年月を生きてきたという自負はある彼の)プライドを、いたく傷つけたらしかった。それにヴィダも少し、責任を感じているようだったし。
翠嵐は薄暗いままの部屋で、極めて不服げな顔でそのしなびたパンを頬張りながら、部屋に備え付けられた映像機器のチャンネルを落ち着きなく変えた。
窓際のカウンターに据えられたそれは昼間見たものより一回り以上小さい。こういうものは使ったことはないが、見たことはある。ユーレが建国されるずっと前、あの海底遺跡と化した巨船が空を飛んでいたころよりもさらに前。たぶんそれはこの星での出来事ではなかった。
彼は現在までに「発見」されている竜の中でもかなりの古株である。翼は三双。
流れている番組は彼にとってはなんともつまらないもので、最後の一口を飲み込みながら彼は映像を消した。顔を照らしていた明かりが消え、部屋がしんとする。彼が大きなため息をつくと、消したばかりの画面が明るい色に染まった。
つまんなそうだねと声がして、前が見えなくなるほど大きな箱を抱えた少女の映像が現れた。
「最悪。飯はまずい。しかも少ない。もう寝るしかない」
翠嵐はその映像に向かって、肩を落として愚痴りながら立ち上がった。ゼーレは画面の中でその箱を置き、上に腰掛けると膝に頬杖をついた。
「あのね。面白そうなもの見つけたんだけど。一緒に見ない?」
胡散臭げな目を向けた翠嵐に、ゼーレは箱から降りて立ち上がり、今まで座っていたところをぽんぽんと叩いて見せた。
「さっきね。モイライに侵入したときに、管理者が区分保管してたデータを見つけて」
「区分保管?」
「モイライの来歴とか、そういう関係の今は使われてないログ。ここさ、ちょっと発展の仕方がアンバランスでしょ」
ゼーレが言っているのは、たぶんユーレとアドラの差のことだ。両国は、国民の身につけているものは大差ないのに、生活における技術水準があまりに違う。とくに通信面だけが極端に発達している。まるで、とってつけたかのように。
「辺鄙なところに隔離されてたから、大したものは入ってない気もするけど。中身が多そうだったから、マスターとのリンクは切ったところで見ないと頭パンクさせそうで」
それはその中身をフリッガには知らせない、ということだ。
ゼーレはいたずらっぽい笑顔を浮かべ、箱に寄りかかるとそれを指差した。翠嵐は、へえ、と呟くと画面の前に置かれたベッドの上で、食べかすを乱暴に払ってから胡座をかいた。
「開けてみろよ」
「マスターには秘密ね」
「分かってるよ。というか中身もなんとなく想像つく」
そうなの、とゼーレは口を尖らせた。
彼女が——というより正確には、彼女の核となるものが——生まれたのは、翠嵐よりずっと、ずっと後だ。だから彼女が知らないことを、翠嵐はたくさん知っている。
翠嵐のその反応からすると、この中身はそういう時代の、ゼーレが生まれるより前のものだ。つまりモイライはどういう経緯かで、そんな時代から今に継承されてきた。管理者の顔は見えないが、それはきっとゼーレの生みの親である開発者と同類の人間である。ゼーレはそのことに浮き立つような気持ちになりながら箱を開けた。
箱の中を覗き込む。無数の0と1。ゼーレには確かな意味を持つ情報として把握できるものだ。
何が見える、と翠嵐は、胡座の上で頬杖をつきながら尋ねた。ゼーレは短くうなって顔をあげた。
「なんか、シミュレーションのログ」
「なんの?」
「待って、いま見る」
ゼーレは箱の中に右手を入れた。いくつもの、本当にいくつもの、似通ったログ。しかしひとつとして同じものはない。全て、ある日ある時を起点に気の遠くなるほどの時間を、いろいろな条件を与えてシミュレートしたログだ。
思ったより数が多い。処理を進めるゼーレは思わず、ああ、と呟いて顔をあげた。翠嵐はまだ頬杖をついたままだ。彼は顎をしゃくった。言ってみろという。
「これ、『キャリア=ノイ』だ。すごい数のシミュレーションしてる、自分が生まれてからの歴史を」
翠嵐は何も言わない。ただじっと画面の中のゼーレを見たままだ。ゼーレは身を乗り出し箱の中に両手を浸した。
「完成間近で行方不明になったって聞いてた。やっぱり生きてたんだ。博士が作った」
「博士」
翠嵐は眉を上げた。ゼーレは顔を上げないまま、アルブレト博士、と答えながら処理を進めた。
「私の元になった知能の、一番コアになるシステムを作った人。私が生まれたころにはとっくに亡くなってたから、私は消去漏れで残ってた認証データでしか知らないけど。旧来のキャリアの容量を劇的に増やす研究をしてた。『
「産直へそなし野郎のことか」
「言葉が悪いよ。そういえばメーヴェで会ったんだよね」
翠嵐は面倒臭そうに、そうだよ、と応じながら立ち上がった。画面の置かれたカウンターに腰掛け足を組むと、覗き込むようにしてゼーレの処理を見守る。ゼーレはそれに目もくれず、処理を続けた。
「モイライをこの国に仕掛けたのは、博士が作ったキャリア=ノイだ。すごい、その人、時間を超えてる。私が生まれてからよりずっと長い時間。そういうことをさせられるゴーストを従えてる。容量の小さい旧型キャリアじゃこんなのもう絶対に敵わない。そして今もそのゴーストと一緒に、どこかで生きてる……」
独り言のように感嘆の言葉を呟きながら、ゼーレは箱から顔をあげた。
全て見た。深呼吸してから箱の蓋を閉じた。それからその上に腰掛け、彼女は感慨深げにため息をついた。
「やっぱり博士、すごいな……」
ふうん、と翠嵐は興味なさげな相槌を打つと、画面の端を人差し指で叩いた。
「で、シミュレーションの中身は?」
「え? ちょっと待ってね」
ゼーレは思い出すように目を閉じ上を向いた。さっき処理した全てを並列に並べ、その差をひとつずつさらっていく。
最初のほうは分岐はほとんどない。シミュレーションは全てキャリア=ノイの視点である。自分が開発された研究所、その培養槽の中でたゆたいながら、キャリア=ノイは竜の依り代となった——当時「ゴースト」と呼ばれていた、未分類の竜の。そして研究所で事故が起きる。時を渡るゴーストと、キャリア=ノイの放浪が始まる。
分岐が劇的に増えるのは、ユーレの沿岸に巨船が落ちたころからだ。
いろいろな条件を試し、ほとんどは途中で終わり、また別の条件で最初から始められた。まるでルート検索だ。どこに、何に至ることを目的としたシミュレーションなのかを探るには、一番最近まで進んだログを探せばいい。
そのログは簡単に見つかった。キャリア=ノイがユーレで暮らしているもの。女性型であった彼女は伴侶を選んだ。今からだいたい二十五年前にあたるそこから先は、このログにしか記録されていない。だからそれより新しい時代には、他のシミュレーションはない。
ふたりの生活が始まった。そしてそれとほぼ時を同じくして、ふたりの暮らす近くのある家に子どもが生まれた。ゼーレがデータだけで知るアルブレト博士と同じ外見、つまり黒い髪と、赤い目の子ども。
キャリア=ノイの伴侶は、その子の両親に請われて名前を与えた。
ゼーレは眉を寄せた。ああ、その子どもを。よく、知っている。
そしてその四年後、キャリア=ノイは自らも子どもを生んだ。全てのルートのゴール。そこから先のログは、ない。
ゼーレは目を開いた。このログはシミュレーションではない。
キャリア=ノイは実際に、やり直しをしたのだ。何度も何度も、気の遠くなる回数、歴史をやり直し、その目的を達するために。
おそるおそる前を見た。翠嵐が向かいにいる。ゼーレが口を開く前に、翠嵐は「知ってるよ」、と答えた。
彼女が、フリッガを生んだ。
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