1 ある航海


 ドロッセルの趣は、ユーレのどの街とも、またメーヴェとも大きく異なる。建物はどれも高い。ユーレの王宮の、てっぺんに温室を備えたあの塔を越えるものもたくさんあるように感じた。

 ここは人が多く、全体的に冷たい印象を与える建物の多い街だ。だから、それが実際比べてみてどうなのかは、よく分からないけれども——


 街に入ってすぐに二手に分かれた。フリッガは、そあら、ゼーレと。ヴィダは、翠嵐、うーとだ。フリッガとヴィダが別行動をするといえば、そあらは当然のように現れフリッガと一緒に行く。翠嵐は「じゃあ俺はあっち」と、ヴィダとの同行を自ら言い出した。

 フリッガは、メーヴェで自分が彼に言ったことをふと思い出し、もしかして避けられているのだろうかと一瞬不安に感じたが、それは「じゃあオレも」と元気よく男ふたりに駆け寄って行ったうーの声でかき消された。

 今の彼はネコの姿ではない。メーヴェで拾った「B級品」を背負ったリュックにしまいこんだ彼は、この旅程を始めるよりずっと前からヴィダにやたら懐いている。


 メインストリートに並走する道をさらに少し横に外れた道ですら、この街ではまだ路地というほど狭くない。ただ、どこまでもくねくね入って行ってしまうと元の場所に戻れる自信がなかったので、フリッガはいい加減腰を落ち着けようと目に入ったカフェに入った。

 間口は大人が両腕を広げてふたり分もない。腰高のガラス窓で店内外を区切った、大きくも新しくもない店だ。中はもう少しだけ広かった。ひとり客が二、三いる。

 扉を閉め、羽織っていた長いグレーのケープを少しだけ引き上げながら、フリッガは店内の様子を窺った。薄暗い照明に、これまた暗い色のカウンターが壁沿いを埋めている。ただ室内のしつらえはほとんどが使い込まれた木でできていて、外から予想していたよりも温かい雰囲気である。そうは言ってもここにも、これまでの道中覗いた店と同様、店内の席には通信用の端末が備え付けられていた。それだけ普通の設備ということなのだ。ユーレとは全く違う。


 店の奥のカウンターにいた年配の女性と目が合った。その後ろの壁は、手のひらくらいの高さを空けた三、四段の棚板が並んでいて、いろいろな色や形のカップとソーサーが飾られていた。いくつか空きもある。

 ここに来る前に通り過ぎたもっと人の出入りの多い店では、客の前に置かれているカップはほとんどが同じ規格のものだったから、この店はそれよりも出すものにこだわりがあるのだろう。フリッガがその老婆に空き席を指し示すと、老婆は緩やかに微笑んで手招きをした。一度そあらを振り返り、フリッガは老婆のところまで歩いていった。


 老婆は「うちのメニューはふたつしかないんですよ」とにこにこしながら、その代わり、と言って壁を手で示した。

「初めておででしょ。せっかくですからお好きなものをお選びになって」

「好きなもの」

 老婆は頷きながら端に寄った。その後ろのカップ棚をフリッガによく見せるためだ。

 フリッガは老婆との間にあるカウンターに手をつき、少し伸びをするようにカップを眺め、瞬きをしてから、そのうちひとつを指差そうと右手を上げかけたが、すぐに目を伏せ、その手をカウンターに下ろしてしまった。

「よく分からないんです。お任せしたいんですが」

 老婆が意外そうな顔をしたのは一瞬で、もとの笑顔に戻った彼女は、じゃあ、とカウンターに近寄った。どうやら彼女は立っていたのではなく、少し背の高い椅子に座っていたらしい。床板が軋んだ。

「あなたに似合いそうなものを見繕って、お出ししましょうね。ご注文は?」

「わりとお腹が空いてます」

「なら、当店のふたつだけのメニューはぜひ、両方頼んでちょうだい。飲み物と食べ物、それぞれひとつしかないのよ」


 先に会計を終えると、席について待っているように指示されたので、フリッガは道路に面したカウンターを選んだ。

 老婆がバックヤードに声をかけると、少ししわがれた男性の声で返事があった。きっと夫婦でやっている店なのだ。しばらく待っていたら、カップが二組と、器に盛られた食事が運ばれてきた。ゆっくりとそれを運んできたのは、さっきのしわがれ声の主だ。それに感謝を述べながら、もしかしたら妻の方は足が悪いのかもしれない、とフリッガは思った。


 食事は、少し焦げ目のついた薄いパンに野菜とたまごを挟んだものだった。それが茶色い紙で作った袋に半分隠れるように収められていて、袋の部分を持てば手が汚れない。

 あまり手際がよくなかったのか、パンのほうは野菜の水気を吸って少ししんなりしていた。野菜もそんなに新しくはなかった(ただし、食にうるさい地竜のおかげで文字どおり収穫したての野菜ばかり食べてきたフリッガの要求水準は、一般に照らせば相当高い)。

 もそもそとそれを口にしながらカップに手を伸ばす。中に入っていたのはフリッガに馴染みのない黒い飲み物で、添えられたスプーンの上に四角い砂糖が乗っていた。入れるかどうかはご自由にということなのだろう。一口飲んでフリッガは、やっぱりその砂糖を使うことに決めた。


 食事を平らげ、カップを半分空にして、さて、と彼女は居住まいを正した。

 隣に並んで腰掛けているそあらの前のカップは、持ち手と台の部分だけが金色で塗られた真っ白で上品なものだ。彼女は砂糖を使った形跡はない。三分の一くらい減っている。食事には手をつけていなかった。

「始めますか?」

 そあらはカウンターの上の端末を指差した。

 フリッガは目の前の窓ガラスに映る店内の様子を窺い、店番の老婆が下を向いていることを確認した。それから膝に目を落とす。フリッガは「そだね」と、気乗りしない声で答えた。


 メーヴェを発つ前に聞いたゼーレの話では、このドロッセルでは通信記録は全て市庁舎にある管理システムに蓄積されるという。それらは何らかの方法と基準で価値を査定され、一定のものだけが国全体を統括する中央システムに送られる。

 同じ管理システムは教主ドラクマの末裔が統治する三都市に導入されている。すなわちここドロッセルと、首都スペクト、それから軍都ナハティガル。

 三都の統治者をつなぐ中央システムは「モイライ」と呼ばれているそうだ。ゼーレはそう言ったが、フリッガにはその由来は分からなかった。


 とにかくこの店のこの端末は、市庁舎のシステムを経由してモイライに繋がっている。それをたどっていけばどこかで、女王デュートが述べた「高度秘匿通信」にも出会うだろう。その内容を解読できれば一番だが、そこまでは無理でも、これから進む経路の選択のため警備の配置の状況などは知っておきたかった。メーヴェの老人の語ったことを信用していないわけではなかったが、確実を期すためにも最新の情報を得たかったのだ。

 もちろん、こういった行為がシステム管理者から歓迎されないものであることはフリッガにも想像できる。セキュリティも幾重にも張られているはずだ。ゼーレはそれを全て突破するが、痕跡をまったく残さないことは難しいという。

 この店を経由したことが判明すれば、ここの店主は追及を受けることになるだろう。探ったところで何も出ない以上、店主自身に厳しい処分はないだろうが、やはり気が咎める。

 窓ガラスに写っている老婆は、まだ下を見ていた。本でも読んでいるのかもしれない。


 フリッガの逡巡は、全て契約竜に——もちろん、隣にいるそあらにも、伝わる。そあらはカップを脇に寄せながら口を開いた。

「もし」

「もし?」

「もし、マスターが何もしなかったとしても、なんとも思いませんよ。我々はマスターの身さえ安全であれば問題ないのですから」

 ただでさえ涼しい目元をすいと細めたそあらの顔も、ガラスに映っていた。

 偽悪的な言い方をしているが、彼女の言いたいことは分かる。彼女のいう「我々」の中には、ユーレという国のこと、その国民のこと、もちろんヴィダのことも、含まれてはいない。


 今フリッガが何もせず、有意の情報を見過ごして、例えばこの国が思ったよりも早く派兵を決定したら。フリッガはそのときは、急いで国に戻り守りを固めることと、何が何でもフリューゲルに至り目的を果たすことと、いずれかを選ばなければならなくなるだろう。ただ、同行者の中で一番迅速で厳しい選択を迫られるのは彼女ではない。

 ユーレはサプレマを、それが受ける竜の恩寵を、国を守るために利用してきた。そうしなければならなかった。もっともフリッガの協力は、本来的には聖職者にすぎない彼女に一応は選択の余地を残している。しかしヴィダは違う。彼は軍人だ。

 フリッガは思わず口ごもった。膝に下ろした指先を視線でなぞる。

「やるとは決めてる」

「ならば躊躇することもないでしょう」

 すました顔で答えたそあらにフリッガはため息をつき、端末を目の前に置き直してからトントンと画面に触れた。

 明るい山吹色に一瞬覆われた画面に文字が浮かぶ。声で話すと周りに聞こえるからだ。ただでさえ人の少ない店内である。ゼーレの配慮がありがたかった。

「データは選別して言語変換して表示するからね。忘れちゃっても、私が全部覚えてるから安心して」

 分かった、と答える。そこから先はフリッガには計り知れない領域だ。無数の0と1が画面を埋め尽くし、流れ始めた。



 ところ変わって、他の三人。

「お前さあ」

「あ?」

「……なんでもない」

「あ、そ」

 ヴィダが頬杖をついて隣のうーに視線を向けると、首を振って諦めたような、妙に大人びた仕草が返ってきた。それに肩をすくめ、ヴィダは目の前の翠嵐に目を戻した。


 本当によく食べる男である。そあらによれば竜は生物とは一線を画する存在だから、依り代のコンディションが良好でありさえすればそもそも食べる必要などないという。しかしヴィダにはそれは信じられない話だった。彼自身も少食ではないので普通ならこんなことを言えた義理ではないが、翠嵐の桁違いっぷりを見ていると、竜にとって空腹は即、死に繋がるとでも言われたほうが納得できる。


 フリッガたちと別れた後、男三人がいそいそ向かったのは日差しがしっかり入る大きな飲食店で、労働者階級と思われる客が昼の時間をそれぞれに謳歌しており、とにかく賑やかだった。天井は高く、この辺りでは珍しい平屋建て。もともとは倉庫だったのかもしれない。金属の梁に取り付けられた照明は、この時間は点いていない。屋根の建材が薄く、外の光を透かすものだったからだ。ただガラスでもなさそうな、ユーレでは見ないものだった。

 ヴィダは窓越しに見える通りに目を細め、それから向かいに視線を戻した。

「で? どうするよ、これから。もう飯はいいだろ」

「そうだな……」

 ようやく満足したらしい翠嵐が首の後ろに手を回しながら答えた。

 ふたりとふたりが向かい合う形の四人掛けの席だ。彼の隣の椅子には、うーが下ろしたリュックが置かれている。メーヴェでの拾い物が入っているはずだ。


 積み上がった器は、中身はどこに行ってしまったのかと思うような数になっている。自然体が異常な場合は、不自然な振る舞いをしてくれて構わないのだが――ヴィダは諦めてはいたものの、それでも内心呆れ果ててうなだれた。その隣で、翠嵐の関節の鳴る音に反応してストローを離したうーは茶化すように口を開いた。

「年寄り」

「やかましいぞ、ネコ」

「猫じゃないってば」


 他愛ない言い合いを続けるふたりに肩を落とし、店内に目を向ける。入り口とは逆の方に小さな人だかりを認め、ヴィダは目を細めた。肩と肩の隙間を通して細く見えるのは何かの中継だ。ユーレでは流通していない映像機器が、この国には当たり前のように置かれている。

 身につけているものはさほど違わないのに(だからこそユーレから入国した彼らもその点ではさほど目立たずいられるのに)、技術の進度があまりに違う。映像だけでなく音声も流れているようだが、それは周りの喧騒にまぎれて聞き取れなかった。

 ヴィダは席を立ち、ひょいひょいとテーブルの間をすり抜け様子を見に行った。彼の後ろをうーが小走りについていく。

 彼は同じ男として、自分を猫呼ばわりしないヴィダと何か特別な盟友関係にでもあるように――本人はそのつもりでも周りから見れば単に「懐いている」といった感じなのだが――振る舞いたがった。他の理由もあるのかもしれないが、本人以外には分からない。


 近寄ってみると、集まっている客は皆背が高く、避けてくれそうな気配もない。遅参のヴィダは簡単に中央の映像を確認することはできそうになかった。

 彼は隣で一生懸命背伸びをしていたうーにしゃがんで耳打ちをした。うーは、一度嫌そうな顔はしたものの、素直に猫に姿を変えた。

 映像に釘付けの人だかりの中では足元で起きたことには誰も注意を払わなかった。うーはそのまま幾人もの脚の間を縫い、映像機器の正面に陣取った。


 映っていたのは長く赤い髪と赤い瞳をした女性で、黒い服を着た男性数人に守られるようにして足早に建物の中に姿を消していくところだった。

 テロップが流れ、報道官に画面が切り替わる。報道官は落ち着いた口調だ。文書を読み上げているようだった。しばらくそれが続いた後で画面は別のものに変わり、人だかりも消えていった。そこでようやく足元に猫がいることに気づいた客が「おっと」などと言いながらわざとらしく脚を上げたので、うーはそれを目を細めて睨みつけながら、のしのしとテーブルまで戻ってきた。


 先に戻っていたヴィダの横の席に座る。しかしこの姿ではテーブルの上に頭が出ない。かといって、周りは突然現れた猫に興味津々だ。止むを得ず彼は隣のヴィダによじ登ると、その耳元で今聞いてきた言葉を反復した。

「とうしは、あくまでしんこうに反対し、ゆうじには、ちゅうりつを守るだってさ」

 耳に当たるネコの和毛にこげの感触に思わず半笑いになっていたヴィダが真顔に戻った。

「当市はあくまで侵攻に反対し、有事には中立を守る?」

「そう」

 翠嵐が鼻の頭を掻きながらヴィダに尋ねた。

「侵攻ってあれか」

「そうだろうけど、どう?」

「オレが行った時にはもうそこ言い終わっちゃってたみたいだから」

「役立たずだなネコは」

「うるさい!」


 もはや声を落とすこともやめてしまったネコと、それをからかい続ける翠嵐とを適当になだめながら、ヴィダはそろそろここも潮時だと思った。好奇の目が集まっている。何せこの男ふたりと猫一匹のテーブルからは三人分の声がするのだ。

 フリッガやその周囲を取り巻く者たちと長く一緒にいると、どうも「普通」がよく分からなくなる。それはそれで楽しんでもいたし、言い訳をしても仕方がないのだが、とにかくこの時ばかりは笑いごとではないので、彼はやおら席を立つと、猫のままのうーを抱え、呆気にとられている周りの客にはお茶濁し程度に愛想笑いを残して外に向かった。

 出口に向かう歩調は緩めずに、ヴィダは目の合った男に尋ねた。

「侵攻、本気なんですかね」

 一瞬驚いた表情を浮かべた男は、ヴィダが小脇に抱えたネコが自分をじっと見ているのに気づき、思わず笑顔になってから、みたいだなあ、と間延びした声で答えた。


 ヴィダが会計で(ネコを抱えたまま)金額を聞き、店内を振り返る。翠嵐はどこ吹く風で、さっきの映像機器の方を見たままだ。目を合わせるつもりは毛頭ないらしい。

 ヴィダはクソ、と毒づきながら会計を済ませ、扉を開けると前にネコを下ろし、その後ろをついて外に出た。


 翠嵐は、それを見届けてからようやく立ち上がった。彼は基本的に、常に無一文である。

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