5 空の色
砂の混じった風が坂を吹き降ろしてくる。
今日はここにいると決めたのだから、その時間は有効活用するべきだ。そして今できる有効活用といったら気分転換くらいである。そうしてヴィダは足を踏み出し、空を仰いだ。
今は快晴だが、早くも砂が舞い始めて空の青は若干濁っている。この時間の風は内陸から海に向かって吹くから、昨日来たときとは違って潮の香りはほとんどしない。
表面の粗く削られた、薄い色の石畳を踏む。坂を登りきったところには昨日の広場がある。
夜半の雨の跡はもう、大きくくぼんだ部分にわずかに水を溜めているばかりで、ほとんど見えない。ユーレではそういう雨の降り方は珍しいので、きっと地形だとか沿岸の海温だとか、そういったものの差が複雑に絡み合っているのだろうと思った。
昨日の坂道を登りきったところで振り向くと、ひときわ背の高い塔が見えた。宿の裏手にあったものだ。聞きはしなかったが、ああいうものは大抵聖堂だし、時刻を告げる機構も備えている。
眼下に海を見下ろすこの高台では、昨日は水平線に日が沈んでいった。それから来た方角。向かう方角。高台だからこそ見える街の景色。坂の向こうを少し覗き込むように首を伸ばす。建物の向こうは見えないけれども、昨日歩きがてら見えた限りでは街路はきれいに碁盤目状に整備されていた。
沿革を考えれば、もっと無秩序に広がってもいいはずの町だ。それでもこんな造りになっているのだから、かなり早い段階から先見性のある指導者がいたのだろう。
広場の縁、建物沿いにテントを並べている露店は昨日とほとんど同じだったが、地面に並ぶものはかなり数が減っているように見えた。少なくとも一店舗分は空いているはずだ。
あれだけ搔きまわしたのだからやむを得ない。悪いことをしたなとも思うが、まあ、たぶん不可抗力だ。あの時ターゲットにされていた男はあのまま放っておいても、今日は店を出せる状態にはなっていなかっただろう。
その空いたスペースで、今日は四、五人の子どもが地面に線を引き、小石を投げながら何かの遊びに夢中になっていた。見たことがあるような、ないような遊びだ。自分がそのくらいの歳だったころは、木切れでもなんでも手当たり次第に振り回し、果たし合いばかりしていたような気がする。
それよりはずっと理性的な少年たちの遊びを横目に見ながら露店の前を通り過ぎようとすると、子どものひとりがヴィダの足元に石を転がしてきた。
すいと目をやると、昨日の少年だった。立派な心意気の少年。あの老人の孫だ。ヴィダは腰を屈め、足元の石を拾うとそれを少年に投げ返した。少年は両手でそれを受け取り、隣の別の少年に渡してから、つかつかと寄ってきた。
「昨日はすみませんでした」
少年は深々と頭を下げた。彼が言っているのはたぶん、飛び出していこうとした彼を止めたヴィダに彼が放った言葉のことだ。ヴィダはそれを思い出そうと目線だけ上げ、ああ、と呟くと下を見た。少年の背丈は彼のみぞおちを少し越えたあたりくらいまでしかない。
「気にしなくていいよ、ご馳走にもなったしさ。それより」
尻は、と聞きながらヴィダは少年の腰のあたりを指差した。昨日少年がヴィダを振り払って、最初に落下、もとい着地したところだ。地面は石畳なのでなかなかの衝撃である。少年ははにかんだ。
「昨日、夕ご飯のときとかはまだ痛かったんですけど。今日はだいぶましです」
「そういえば大人しかったね、めし食ってるとき」
「サプレマとじいちゃんが話してたから。よく分かんなかったけど大事な話だと思ったし」
賢い少年だ、とヴィダは思った。
少年の後ろで仲間が呼んでいる。彼がいないと遊びの続きができないのだ。それに少年は逆に手招きで応え、仲間たちが寄ってきた。
昨日目にした出来事を、少年は広場を指差しながら話した。それに仲間が、へえ、とか、すげえ、とか思い思いの感想を述べるのをヴィダは少し下がってベンチに掛けながら見ていた。自分のことまで含まれているのか、それともフリッガの――サプレマのことだけなのかは分からなかったけれども、そんな話をしている少年たちの真ん中にいるのも気が引けた。もっともこれがフリッガであったならば、なんとなく
活劇譚が終わったらしく、少年たちは連れ立って近づいてきた。やはりまた思い思いに質問をしてくるのを、答えられる範囲で適当にぼかしながら答え、触りたいと言われた得物は片方だけ渡して、彼は膝に頬杖をつき、広場を眺めた。
柵の向こうに海が見える。ユーレの黄色い街並みの向こうに見えるそれとは少し違った色に感じた。たぶん建物に反射した光に影響されているのだ。それから地面に目を移す。少年たちが引いていた線が残っている。
老人の孫の少年が、あの、と声をかけてきたので、ヴィダは少年の質問は聞かずにその線のほうを指差した。
「あれ、どういうゲームなの」
「え? 陣取りです。石を使って」
少年はヴィダから預かっていたものを、順番待ちをしていた後ろの少年に手渡してから新たに足元に線を引いた。広場にあるものよりかなり小さい、説明をするためだけのものだ。
「こういうふうに線を引いて、白黒に分かれて立って、順番に石を投げていくんですけど。投げられるのは今いるところの隣か斜めだけです。石投げる代わりに邪魔もできます」
「陣営は固定?」
「裏切ってもいいけど、一回休みになる」
少年の説明は、思い出すたびルールがぽろぽろと追加され、理路整然とまではいかなかったが、十分理解はできた。やはり賢い少年なのだと思った。
ヴィダは少年たちの間を一巡して戻ってきた道具を受け取るとそれで、じゃあ、と言いながら足元を示した。柔らかい風が吹き抜ける。足元を照らす光に少年たちがざわついた。それは少年が書いた線の中に焦げ目を作った。
「俺がここに立つじゃん。で、さっきやってたセオリーに従うとまず、こう進むんでしょ。そしたら次の人はどう出るの」
「そしたら、こっちに進んで邪魔しないと負ける」
「そんないきなり決まるかなあ」
「負けませんか」
聞き返した少年の瞳は輝いている。ヴィダはなんとなく嬉しくなった。少年の質問を――たぶんそれは「どうしたら使えるのか」とか「どうしたら入手できるのか」とか、そんな質問だ――遮って、よかった。
「戦略次第だよ。長期戦の備えができてるなら、ここから総取りも十分狙える。俺ならここは相手にしないでこっちに進む。ただできれば二手以内に、あのマスに友軍を呼んでおきたい」
緑の光の軌跡が左を指し示す。見守っていた少年はしばらく考え込んでいたが、一瞬目を見開くと短く声をあげ、後ろを振り向いた。ほかの少年もじっと足元を見ている。
戦略という言葉はいたく少年たちのお気に召したようで、彼らはしゃがみこむとそれぞれに指先でいろいろなシミュレーションを始めた。
ヴィダは得物をしまって立ち上がった。それを与えられる者の必要条件が、天秤にかけた命の片方を一度なりとも我が手で切り捨てた人間であることは、彼らが知るべき事実ではない。ユーレ国内においてさえ「武官かどうか」という言葉でまろやかに表現されているが、要するにそれは国王が認めるに足る「善き殺人者」かどうか、ということだ。彼はその資格を十年前に得ている。おそらくそれは、今列騎されている誰よりも若い。
老人の孫の少年だけが顔を上げた。ほかの少年は戦略検討に夢中だ。こちらを見ている少年に軍式の礼をして、ヴィダはその広場を後にした。
海沿いを下っていく道がある。側道からは道路を挟んだ建物どうしの間に張られた紐の上で緩やかにはためく洗濯物の音と、女性数人の笑い声が聞こえた。四半刻を告げる鐘の音は一度だけ聞こえた。
慣れた匂いが鼻先をかすめ、彼は横を見た。
先に広がる路地には、先ほどの広場からあぶれたように、道に沿ってぽつぽつと並んだ小さな出店がある。食料品のほか、布地などの生活必需品に混ざって、日用雑貨を並べた台に乾いた花と色のついた石でできた飾りや不揃いな形の石鹸が並んでいた。ユーレ沿岸の海泥を混ぜて作るものだ。ユーレの彼の自宅の、階段を降りた所でも自家製のそれを売っている店がある。彼が生まれた時から今もずっと変わらないそれを、国境を跨いだこの地でも目にするとは思わなかった。生活に密着したレベルでは割に密な交易があるようだ。
国どうしでは睨み合いが続いている。別に珍しくもない事態ではあるが――ヴィダは「国」とはなんなのだろうと、思わずにいられなかった。
ユーレを出る時のことだ。辞令の内容は指示によりほぼ密命扱いだったので、ヴィダはほんの少しの信頼できる知り合いのところにだけ別れの挨拶をしに顔を出した。彼が師と仰ぐイザークと、シューレで長く寝食をともにしたジェノバ。
役職の空白は、建前としての理由も含めてキュルビスが上手く埋めているはずだから特に問題はないのだが、それなりの規模の部隊を束ねるゾディアックが国を空けよという命令は決してよくあるものではないし、何より自分は――身の丈に余るとは思ってはいたが――ナイトを拝命している。
軍の一部としてだけでなく、一個人としても常に国の砦となる使命を負わされている、その自分が敢えて選ばれた理由が分からない。新たな事情も情報もないので悩むのも無駄だとは思っているが、彼の中にあるその疑問はことあるごとに頭をもたげた。
ゲートを残して町を囲む壁は、海に向かってだけはその高さが極端に低くなる。高くても膝程度までしかない、壁というよりもちょっとした石塁といった風情のそれは、壁を見慣れてしまえば防衛には多少心許なくも思えた。海の色を見る限り沿海は遠浅で船が近寄りにくいようなので、これで十分だと判断されたのだろう。
白い墓石の並ぶ霊園の隣を通り過ぎ、ふらふらと歩いてこの辺まで来てしまうと
今日の海は至極穏やかで、波の少ない水平線が空との境界をまっすぐ描いている。
明日は発たねばならない。ここから先はずっと内陸だ。海が見える地に戻ってくるのはいつになるのだろう。
ヴィダがふいと背をそらすと、見慣れた顔が彼の視野に入った。フリッガは「探した」と言いながら、ヴィダとは逆に海に背を向けて座った。
「ちゃんと俺のこと見張ってなくていいの」
「見張られたいならそう言って」
「絶対やだ」
フリッガは膝の上で頬杖をついて、ちらと上げた視線をすぐに落とした。
「探したってなんで」
ヴィダがこんなふうに相手の顔も見ず、聞く気なさそうに質問をするときでも、彼に実際聞く気がないわけではないのは分かっているので、フリッガはひと息置いてから答えた。
「今朝の話しないとと思って」
「ああ、あれ」
視線を足元に落としたまま、フリッガは話し始めた。
十五年前のその時、落ちてきたもののこと。人の形で現れたそれはあまりに彼に似ていたこと。ただ、声は違うと思ったこと。もっとも、別人だと確認できて安心したことだけは言わなかった。
ひととおり聞き終えてから、少し間を置いてヴィダは、へえ、そう、と相槌を打った。
フリッガはうつむいた。そうして、うつむいたままくつくつと笑い始めた。
「もうちょっとなんか言ってよ。結構勇気出して話したんだけど」
「そうだな、そっくりって言われてもにわかには信じがたい」
「いや、本当に似てるんだって。ほかになんかないの?」
「今のところはね」
もちろん彼に、思うところがないわけではない。その日は彼が何より多くのものを失った日だ。だからざわつく思いはあったけれども、彼はそれを言葉にしようとも、したいとも、また、できるとも思わなかった。
そうかあ、と上を向きながらフリッガは背伸びをした。
彼女の後ろで、この町では二度目の日が暮れようとしていた。
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