4 水の色
返事はなかった。ベンチの上を覆う葉が集めて大きくなった雨粒が、ぽたり、ぽたりとフリッガのつむじに落ちた。
彼女は長い、長いため息をついて顔を覆っていた手を外した。そろ、と顔を上げる。改めて見てみた顔は、ヴィダに本当によく似ていた。それでもさっきちゃんと別人だと思えたから、今はそのことには割に冷静でいられた。
あの出来事がなければ、彼の頰にあんな傷も入ることはなかったはずだ。そしたらこんな顔だったんだろうな、とフリッガは思った。でも、あの出来事がなければ、彼はきっと今の彼ではなかった。
少し落ち着いた気がする。
「なんでそんなに似てんの」
フリッガは肩を落としたまま絞り出すように聞いた。
こんなことはたぶんまったく大事ではなくて、本当はもっと別に話さなければならないことも、確かめなければならないこともある。そんなことは分かっていたが、まだうまく言葉をまとめられなかった。
十五年前に、彼女が原因でたくさんの不幸が生まれた。そのことを受け入れたくなくてずっと目をつぶり耳を塞いできたから、今はもう簡単に解くこともままならない。解いてしまえばきっと世界の色が変わってしまうから。それなりに平穏な今は失われてしまうから、そんな恐ろしいことを自分で招き寄せる勇気などなかった。
今の居場所が今の彼女の全てだ。プレトは答えた。
「母親に訊け」
フリッガは顔を上げた。
初めて聞いた彼の声は、彼女が聞き慣れた声よりほんの少しだけ高くて乾いていた。フリッガは息を吸った。声が出る。言葉が出てくる。
「母親? 俺の? 知らない。生きてるの?」
どこに、なんで。返事も待たずに矢継ぎ早にフリッガは聞き重ねた。
彼女は問いを言い終えると息を止め、顔色ひとつ変えず答えるつもりもなさそうなプレトを見て、思わず天を仰いだ。
「お前、一体なんなの? 何がしたいの」
プレトが左手を上げた。
細い鎖が手首に幾重にも巻きついている。それはほぼ全てが黒の彼の佇まいにはまったく馴染まない。揺れてさらさらと音を立てていた。
何それ、とフリッガは呟いた。ただの装飾でないことはすぐに分かった。あれは拘束具だ。でも誰がそんなものを?
「お前の親は、よく勉強したな」
プレトは首を振りながら答えた。少し笑っているように見えて、フリッガは我が目を疑った。
「親? お母さんってこと? それが? それをしたのが?」
「いずれ会う。その時に訊け」
彼は選んだ問いにしか答えない。フリッガが立ち上がりながら口を開こうとすると、彼は踵を返した。
彼女の声が音になる前に彼は消えた。
残されたフリッガは、大粒の雨の中、立ち尽くすしかなかった。
明け方、ちゃっかりヴィダの足元で丸まっていたうーが突然声をあげた。それは猫の鳴き声ではなかったけれども、今の彼は猫だ。猫一匹ならよい、と言われたから。
彼は窓に飛び上がり、木の枠を爪でひっかいた。外はもう明るくなり始めているが、起きるにはまだ早い時間だからヴィダも寝ている。
うーは窓ガラスと彼とを見比べ、金色の目をぎゅっとつぶると両手(というか、両前足)に力を込め、爪でガラスをひっかいた。歯が浮き上がるような、不快な音がする。うつ伏せのままのヴィダは情けない声を上げながら左手で空を探り、それからばたりとその手を下ろして大きなため息をついた。観念したように起き上がる。
隣のベッドを見る。もぬけの殻だ。部屋中を見回すと窓枠にネコが座っていた。
黒い猫は首を伸ばして、外を見ている。右から左に金の目が動く。なにかの影を追っているようだ。ガラスの外側には水滴が残っていて、夜半の雨の激しさが窺えた。
「お前のマスターどこいった」
うーは、聞いてきたヴィダをすいと見てから窓枠を飛び降りた。わざと軽い足音を立てて部屋の扉の前まで進む。タイミングよく扉が開き、フリッガが現れた。
足元のネコを撫でようと腰を屈めたら、前髪から水滴が落ちた。うーは飛び
「あー、えっと……おはようございます」
フリッガはばつの悪そうな顔で言った。乾いているところのほうが少ないほどびっしょり濡れている。前髪だけでなく、ひとつに束ねた長い後ろ髪からも垂れる水滴を軽く絞り、彼女はくしゃみをした。
投げつけられたタオルを受け取り、顔と頭を拭きながら、フリッガは尋問に答えなくてはならなくなった。
「何してた」
「え、さ。散歩」
「雨の中を」
「はい」
「夜中から。今まで」
「うーん……」
口ごもって動きを止めたフリッガにヴィダは右手を振った。「先に拭け」ということなのだろう。
彼はそのまま立ち上がると部屋を出て行った。扉の前で一度振り返ったけれども、フリッガとは目を合わせなかった。
外に出て空を見上げると、白い雲間から光が覗いていた。雨の直後だから砂も舞っていない。雲の切れ間に突き抜けるような青。今すぐにでも出発できる、絶好の天気だ。
しかしここを出れば、これからは内陸部に入っていくことになる。海からの温かい風が吹くこことは違って気温もぐっと下がるはずだ。あんな風邪予備軍の状態でそんなことをしても、結局どこかで足止めを食らうことになるだろう。こじらせたときのタイムロスを考えれば、今日くらいはここでじっとしていた方がいいという結論に至り、ヴィダはため息をついた。
雲が次第に遠ざかり、本格的に晴れた空が広がり始める。人がちらほらと増えてきた往来を眺めながら、めし、と呟くと彼は部屋に戻っていった。
老人が手配した宿だ。泊まっているのがサプレマだということは宿の女将も知っている。
女将は濡れ鼠で戻ってきたフリッガを気遣って、このあたりでは珍しくないという薬湯を準備してくれた。ただ、その場所は宿の裏手、「異端」が集まって作られたこの町では無用の長物になっている、ドラクマ派の聖堂だ。
宿の倉庫としてしか活躍していないその建物に、普段使われていない白い焼き物の沐浴槽がある。女将はそれを掃除して湯を張り、様々な植物の葉や実、花を投げ入れた。フリッガはその様子を、隣に翠嵐を置いて少し離れて見た。今入れたのは何か、あれはユーレでも育つのか、そんなことを聞きながら、着々と準備が整うのを白いタオルを抱きしめて待つ。
用意を終えた女将が歩いてきて、どうぞ、と沐浴槽を示した。フリッガは深々と頭を下げて礼を述べ、嬉々とした足取りで踏み出した。
女将は出口に向かいながら、ちらちらと後ろを振り向いている。どう見てもフリッガと同性ではない翠嵐がそこに残っているせいだ。翠嵐もそれは分かったけれども、本人が気にしていないのを知っていたので動く気配もなかった。女将も最後は首をかしげながら、聖堂の扉を閉めて出ていった。
「で? なんで俺が同伴なわけ」
翠嵐はそこでようやく口を開いた。それにフリッガは、着替えたばかりの服を脱ぎながら答えた。
「ちょっと話したいことあってさ」
「風呂でか」
「いや別に、風呂じゃなくてもいいんだけど。誰もいないところのほうがよかったから」
つま先に触れた薬湯は思っていたよりずっとぬるかった。人ふたり分ほどの高さの天井と白い壁に囲まれた、普段は人のいないそこは埃っぽく、沐浴槽の上の湯気だと思っていたものは、実際は湯気ではなかった。
ぬるま湯の表面に当たった光が天井にゆらゆらと乱反射の模様を映している。
「まあ、いいけどさ」
浴槽とは逆を向いて、何か難しげな本をぺらぺらとめくりながら翠嵐は呟いた。どこから入手してきたのかは分からない。
彼が座っているのは、本来なら
神聖なはずのその壇の上で、この国が信奉するドラクマ派では邪竜であるところの地竜が人の姿を借りて本に目を通している。こんな所をもし熱狂的な信徒が見たら、フリッガはそう考えて、思わずくつくつと笑った。
振り返った翠嵐は肩をすくめ、側面に施された手の込んだ装飾を一瞥すると、彫られた火竜の鼻を軽く踵で蹴りつけた。フリッガが何を考えていたか彼には分かっているのだ。それが契約関係にあり、かつ双方が己の考えを隠そうとしないときの、竜と主の関係である。
「俺よりマスターの方が問題だろ。異端の聖堂でサプレマが
「確かに。それもそうか」
本来サンフト教は多神教であり、自然の叡智はおしなべて神と考えられている。そしてその神と人とを結びつけるのがサプレマを含むプライアだ。だからそれには、竜と契りを結べるものが任命される。幾柱もの竜がいるが、彼らはいずれも何らかの、人間の制御の及ばない現象を体現している「神」だから。
その一派であるにも拘らず、ドラクマ派は火神のみを唯一神として信仰する。正派であれば翠嵐も信仰の対象となる存在なのに、ドラクマ派では火竜以外は全て悪に位置づけられる。
ドラクマ派は排他的であり、そして選民的である。だからこそこの国はここまで強くなった。
浴槽はフリッガが足を伸ばすには少し狭く、折った膝が水面に出た。そこに当たる光と透きとおって揺らめく水面、中に浮かぶ葉のとりどりの緑。ベリー類の鮮やかな赤。花びらの白。それからやさしく漂う芳香に彼女は目を細めた。体だけでなく心まで軽くなる気がするから、不思議だ。
「これ、いいな。使うもの覚えといてよ」
ああ、と視線を移さずに呟いて、翠嵐は先を促した。
「それで? 用ってなんだ。回りくどいのやめようぜ」
浴槽の中で遊んでいたフリッガの手から垂れる雫の音が止んで、静寂があたりを包む。しばらくの沈黙の後、彼女は口を開いた。
「昨日プレトに会ったよ」
彼女は視線を落とした。向こうを向いているから見えはしないが、翠嵐が顔を険しくしたのが分かる。
彼はそんなことはとっくに知っているはずなのだ。なのに彼は今、「知っている」と言わなかった。
彼は出国前のあの晩、プレトに会っている。というより翠嵐は、彼を排除しにわざわざ現れた。今思えばあのときも昨晩と同じで、プレトはフリッガに対して明確な敵意を示したわけではなかったのに——なのに翠嵐は、彼を最初から敵対者として扱った。確かめもせずにそうしたのは、きっともともと、彼を知っていたからだ。
そして翠嵐は昨晩は現れなかった。察知は簡単だったはずなのにだ。だから黙していた理由もきっとある。でもそれを翠嵐は見せない。頑なに、見せようとしない。だからフリッガは彼を呼んだ。
その推測を裏付けるように本を閉じる音がした。彼が下ろしていた腰を上げ、こちらに向かってくる足音が聞こえる。
フリッガは顔を上げた。浴槽から五歩ほど手前で足音が止まった。
「誰に会ったって」
「今言った人」
「それを俺に言ってどうする」
「何も。ただ、なんかありそうだなと思っただけ」
翠嵐はため息をついた。フリッガは水底についた腰をずらし、湯に頭の先まで浸かった。彼女が再び水面に顔を上げるのを待って翠嵐は聞いた。
「話そうか」
浴槽の
フリッガは結局、頭を横に振った。それを見て翠嵐は後ろを向いた。
「じゃあもう俺に用ないだろ」
「うん。あ、ちょっと待った」
「なんだよ」
「楽しいことしか聞きたくない、とは思ってないんだ。……そんだけ」
何も言わずに出て行く彼が扉を閉める音を聞いてから、フリッガは再び浴槽に頭の先まで沈んだ。
中から見上げた水面に、反射した光が揺れていた。自分の今の発言は、きっととても不愉快なものだったと思う――彼女は息を吐いた。泡になって上っていく。
彼の名はフリッガがつけたものではない。それは彼が誰かから与えられたものである。彼はそれを、自分を定義するものと認め、今でも使い続けているのに、その経緯についてフリッガは何ひとつ知らない。その名の後ろに彼がどれだけの深淵を隠しているのかも分からない。でもそれが恐ろしいものであれば耐えるより逃げたかった。
彼女の知らない翠嵐を知るのが怖かった。本当はまだその程度の覚悟しかない。なのにまるで受け入れる度量があるかのように振舞って、実際のところは彼が自分から話してくれるのを待っているだけなのだ。
どんなに苦しい話であれ、自分は聞かされてしまっただけなのだと言い訳ができるように。自分のことを、本当にずるくて嫌な人間だ、と思う。
背伸びをするように手を上に伸ばしてから彼女は立ち上がり、浴槽を離れるとタオルを手に取った。窓から差し込んでいた光はとうに水面を外れ、窓すぐ下の床に色ガラスの影を落としている。もう昼が近かった。
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